七 新教育制度の整備・充実

 昭和二十七年わが国が独立国となり、占領が解除されたことは、政治・経済・社会の各分野において新たな施策を立てる時期に達したことを認めさせた。占領下という制約から離れて、戦後の歩みを反省し、是正しなければならない問題の所在を明らかにし、独自な再改革の方策を立てて実施する気運が興ってくる時代となった。特に戦後の占領下における教育は他の分野にはみられぬほどの大きな改革を急速に進めなければならなかった。これらの教育改革の理念や方策には教育の発展に望ましい力を与えたものもあったが、それを是正するために慎重な検討をせまられている教育問題も少なくなかった。しかし、三十年代にはいるまではまだ具体的な再編の方策はみられなかったが、三十三年ごろから社会・経済の急速な発展があり、多くの人材を必要とすることが明らかになるとともに、教育に対する要請も強く示され、これを文教施策の上に現わすこととなった。これは占領下の教育改革と同じ方向へ進めるということではなく、時期を分けてみなければならない変化が現われていることが認められる。四十五年からは経済の高度成長や技術革新の進行について反省を加え、新しい方向へ推し進めなければならないという問題が提起された。このためには戦後進めてきた諸方策を検討し、将来のために新たな基本施策についての展望をもたなければならなくなってきた。四十六年六月に発表された中央教育審議会の答申は、この新しい転換のときに当たっての方策の基礎を明らかにしている。

 独立以後における学校体系については制度としては特に著しい改造を行なうことはなかった。六・三・三・四制はその実施にさまざまな問題をもち、困難にも当面したが、これを根本から改めることもなく、わが国の学校体系として定着してきている。改革の出発点において立てた目標はしだいに実現され、民主社会の学校制度としてその性質をじゅうぶんに備え、全国民にしだいに高い程度の学校教育を受ける機会を与えてきている。義務教育九年の就学率は極限に近く上昇しているが、なお就学困難な者に対しては三十一年から国庫補助を用意して、学習の機会を完全に与える方策を講じている。また、へき地の教育を振興して地域の事情による教育の不均衡を改めるため、二十九年に「へき地教育振興法」を設けて、教育の充実に必要な方策を立てて努めてきた。この間、特に中学校では二十年代の終わりごろまで事実上の不就学ともいえる長期欠席者の数が少なくなかった。それらの義務教育を完了しなかったもののために、夜間に中学校教育を行なうこともあったが、最近はその生徒数も少なくなってきている。義務教育の施策がじゅうぶんでなく問題をもっていたのは特殊教育の分野である。特殊教育のうち盲学校と聾(ろう)学校とはすでに義務制となっているが、養護学校については義務制を実施していないので、これを充実させてほかの特殊教育の分野に近づける幾つかの施策が行なわれている。四十六年からは国立特殊教育総合研究所を設けて、この分野の教育を推進する基礎を築くこととした。

 幼稚園も制度としては改められたところはなく、三十一年の「幼稚園教育要領」、「幼稚園設置基準」などによって、保育を振興するための基礎をつくった。幼稚園の設置は戦後から多くなってきていたが、二十七年度以降は新設される幼稚園が多数となった。一般に就学前の幼児を幼稚園へ入園させる要望が強められてきたので、三十八年からは多数の幼児が幼稚園教育を受けられるよう充実と普及を図り、幼稚園教育振興計画を立てて、幼稚園の新設と設備改善のために補助を与えてきた。四十六年六月の中央教育審議会の答申は、幼児教育振興について積極的な提案を行ない、希望する四、五歳児を全員入園させる目標をもった新しい振興計画を策定するための方策を提案した。

 高等学校は後期中等教育を担当する機関としてしだいに充実してきたが、勤労青少年のために用意された高等学校定時制・通信制については二十八年振興法を制定して、これらの教育に必要な設備や運営費を国が補助することを行なってこの制度の充実を求めた。また、三十六年から高等学校と技能訓練機関相互の連携を図り、一定の技能教育を工場などの教育施設で受けたときはそれを高等学校の単位を修めたものとみなして単位を与えることも行なってきている。通信教育もしだいにその科目が多くなり、三十年には通信教育だけで高等学校を卒業できることとなった。しかし、高等学校への進学者のうち多くのものが全日制にはいるようになったので、定時制の生徒はしだいに減少している。最近は高等学校進学者が急増し、四十六年度には八五%となっている。このようにして高等学校へ希望する青少年は大部分入学できる時代も近くなってきている。こうした状況から制度上における高等学校の性格とこの学校での教育について再検討を加える必要も起こってくる。また中学校卒業生の大部分が高等学校へ入学する時代になってきたので、中学校と高等学校とを連らねた教育制度についても考えられている。

 大学制度については、新制大学発足の当初、制度上もいろいろ問題が残されていたが、短期大学制度の恒久化等の措置により大学四年または六年、短期大学二年または三年、大学院修士課程二年、博士課程五年という制度に落ちつき今日に至った。三十年代にはいって大学は、学校数・学生数の著しい増加をみたが、大学制度運営について文部省が積極的な方策を立てるようになった。三十一年の「大学設置基準」の設定は、大学の設置認可をこの基準によることとしたのであって、制度運営における大きな改変であった。三十年代になって顕著になった工業生産の著しい拡大に応ずる技術者養成の必要から、理・工学系学生の増募と新しい科学技術の開発による学科新設や改造を、積極的・計画的に進めた。特に国立大学における理・工学系統の教育の拡充は、国立大学の性格を実質的に改革したとみるべきである。これら増加の傾向が現われている時代に医学・歯学の課程改編によって、新しい医科大学学部の開設、二年の進学課程と四年の専門課程を一つにした六年の課程への改編など、制度運営における新しい方針によるものであった。大学院の多くは二十八年度から出発したが、しだいに学部卒業生が進学するようになって、大学院の制度上の性格も再検討された。まず修士課程が拡大されてきたことによって、三十年に大学院が学術研究者と大学の教員を養成する従来の目的に加えて高度の研究能力を備えた専門の職業人を養成するという役割も果たす制度となった。また医学・歯学の大学院については三十四年に「大学院基準」が特に設けられ、修士課程を設けることなく、博士課程を最低在学年限四年の制度とした。短期大学は暫定措置として認める制度となっていたが、これを恒久的な制度とする要望が高くなり、三十九年に学校教育法を一部改正して大学制度の一部に加え、新たな規定を設けた。その際、短期大学は専門の学芸のほかに職業または実際生活に必要な能力を育成することを明確にし、卒業生は四年制大学へ編入学することができる制度とした。

 戦後の学制改革では高等教育を施す学校を一種類の大学として設置・運営する方策で、旧制の高等学校、専門学校を大学の一部として編制し、それぞれに高等教育の分野を担当する制度とした。その後高等学校三年と大学の二年を合わせた五年制の職業教育を施す学校の設置が提案され、三十二年に専修大学案としてこれが国会に提出されたが、この制度は旧制の専門学校を復活させる案であるという批判があり、他方短期大学をこの制度に吸収する方策が含まれていたため、短期大学の関係者から反対があった。これらの事情によって専修大学案は国会において成立をみなかった。その後に科学技術の進展と産業の高度化によって技術者養成に対する要望が強くなり、短期大学の問題と切り離して工業教育を主体とする高等専門学校の設置が三十六年の国会において決定され、三十七年度から工業高等専門学校が発足した。高等専門学校は中学校卒業を入学資格とする五年制の高等教育機関で、短期大学卒業と同じ修業年限の学校として高等教育機関の一部に加えることとなった。卒業生は四年制大学へ編入学することもできる制度となっているが、多くの卒業生はただちに工業社会に受け入れられている。

 このようにして、三十年代にはいってからは高等教育の制度が大学という形の上では単一制度であるが、学部や学科をみると多様であり、修業年限も二年から六年に及ぶこととなった。また大学院が学部との結びつきを強め、修士課程は新制大学にも設けられるようになり、そのほかに高等専門学校の制度が加わってしだいに複雑になってきた。このような多様な大学に四十一年から学生定員を急増したが、特に私立大学における学生数は著しい増加をみせ四十六年には大学生の七六%が私立大学生となった。このようになっては旧制大学で行なわれていた教育・研究を続けることは不可能であって、いわゆる大学大衆化に応ずる大学改革を行なわなければならなくなった。四十三年から激化した大学紛争は、大学の再改革がこれに処する根本であるとし、各大学に改革の気運をつくり、多くの大学改革案が各大学の性格をもととして提案されてきている。四十六年六月の中央教育審議会の答申には高等教育改革についての基本構想が述べられている。その構想の中には大学の多様化によって学生のさまざまな要求に応ずる教育を行なう方針で、大学の制度・管理運営・人事から入学試験にまで及ぶ広範な改革の方向が明らかにされている。各大学における教育改革の動向とこれらの基本構想が、高等教育全体をどのように改変するかは、すべて今後の方策によるものとなっている。

 独立後も社会教育については、学校教育と並んでその役割の重要性が認められ、二十四年の「社会教育法」に基づいて明らかにされた方針によって定められた施設が拡充され、諸活動が進められた。社会教育法は三十四年に改正されて、社会教育主事を都道府県だけでなく、市町村にも設置することを義務づけ、社会教育団体に補助金を支出して活動を助長し、公民館の整備などについて規定し、社会教育の進展を促す方策をとった。社会教育の拡充については社会教育審議会が諮問に答え、これをうけて改善の方法が講ぜられてきている。三十年代にはいってから工業化、都市化が進み、社会生活の構造にも大きな変化が現われるようになった。これらの情勢のもとにおける社会教育について、四十三年「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」社会教育審議会に諮問がなされ、四十六年四月、同審議会から答申があった。この中では幼児から高齢者までの年齢段階に応じた生涯にわたる社会教育の課題が明らかにされ、社会教育の施設・団体・指導者や、教育の内容および方法について振興の方策が示された。これは四十六年の中央教育審議会の答申とも対応しているもので、特に生涯教育の思想による社会教育の進展と将来の施策とは今後の社会教育のあり方を決定するものであるとみられる。

 教育内容および方法については、小学校・中学校・高等学校いずれも学習指導要領を基準とすることを基本方針としており、それは二十二年新学制発足以後継続し、独立後にもこの方針を改変することはなかった。しかし、独立以後は、その基準性を明確にするための法令上の整備を行なった。

 新学制発足に間にあわせるために、二十二年に取り急ぎ「試案」として発表された学習指導要領は、実態調査や教育課程審議会等による検討を経て二十六年に全面的に改訂された。さらに三十三年には、二十六年版の小・中学校の学習指導要領が再検討され、再び全面的に改訂され、新たに文部省告示として制定された。特に、小学校社会科は新しい教科であるために、その内容の編成についていろいろ問題があったので、二十八年に「社会科の改善に関する方策」を発表し、三十年に社会科指導要領の改訂版をつくった。また、三十三年の学習指導要領では、地理・歴史の内容を整理し、特に歴史については、通史としての性格を加えるように改めた。中学校においても三十年に社会科の内容を改訂し、地理・歴史の分野を明らかにして、指導上これを強化する方針を指示し、三十三年の学習指導要領で全面的に内容編成を改めた。

 学習指導要領の改訂に当たって道徳の内容を社会科から分離して取り扱う方針が問題となった。この方策については、二十五年に教育課程審議会で論議されたが、当時は学校の教育活動全体を通じて行なうこととした。その後三十三年には学校教育全体で行なうとともに道徳の時間が小学校・中学校において教科とは別に特設されることとなった。このようにして教育課程全体にわたる編成が検討され、小・中学校の教育課程は各教科・道徳・特別教育活動・学校行事の四領域をもって編成することとなり、その後の教育課程の基本となる体系を決定した。教育内容についてはこのほかに基礎学力をつけることが要望され、算数・国語の内容が検討された。その後学習指導要領は小学校については四十三年、中学校については四十四年再び改訂が行なわれ、現在これが実施されて、小・中学校教育内容編成の基準となっている。

 高等学校の教育内容についても学習指導要領を基準として編成することとし、新制度出発に当たって示した指導要領を四回にわたって改訂し、四十八年度の第一学年から四十五年に告示された指導要領によって、新しい学習が始められることとなっている。高等学校でははじめ広い選択教科制をとっていたが、三十四年の改訂で類型を設けて必修を多くする方針をとったが、高等学校に進学する生徒が多くなり、四十五年の改訂では生徒の能力や適性や進路に応ずる学習ができるように考慮されているのである。

 教育内容を編成する際に重要な役割を果たしているのは教科書であるが、独立後も教科書は民間編集で文部省はこれを検定する方針は変わることなく続けられている。その間検定を受けた教科書の内容について批判がなされ、教科書の編集と検定について、さらには検定教科書の採択について問題が提起され、また、売り込み競争激化によって起こってきた弊害が論議された。文部省においてはこのような世評や論議に応えて教科書行政を改めるため教科書法案を国会に提出したが、これは成立しなかった。その後文部省は専任の教科書調査官を任命し、検定調査にあたる委員を増員して検定を強化した。また三十八年義務教育の諸学校における教科用図書を無償とする法律が定められ、順次小学校より中学校に及ぶ教科書の無償給与を始め、四十四年に中学校までの教科書が給与されることとなった。これはわが国の教科書行政として画期的なことである。

 学校教育においては教科書のほかに教材・教具が重要であって、これらがどれほど用意されているかは教育の方法を決定し、広く教育成果に大きな影響を与えている。二十八年度から義務教育を行なう学校の教材に要する経費の一部を国が負担したが、二十九年度の理科教育振興法や学校図書館法の公布によって、理科設備や図書についての補助を与えてこの分野から教育の向上に資した。しかし教材が整備されるためには、その基準が設けられていなければならない。このため四十二年度において教材基準が定められ、教材整備十年計画によって教材費の国庫負担が増加した。これらの整備の実情については調査を行なって基準の充足状況を明らかにしている。また四十年代にはいってからは、教育機器を導入した学習指導方法の改善が試みられてきて、多くの教育者の関心を集めている。これらは一般の学校においてみられている一せい授業の方法を改善するために導入され、個別学習やグループ学習を奨励するためにも有力な方法として関心を集め、効率の高い新機器が開発されてきている。文部省は四十四年度から教育機器研究指定校を定めて新しい教育方法への転換を期待している。

 わが国の学校はその多くが一学級の児童・生徒数が過大であって、このことが教育の質を低下させる一つの理由となっていた。戦後の教育改革はこの点についても特に配慮して学級編制についての基準を設けて、一学級の児童・生徒数を少なくするとともに教員定数を増加して、両面から教育方法を改善する条件をつくることとした。三十三年にこのための法律が制定されて実施に着手した。さらに三十八年には学級規模を適正にするため、法律を改正して年次計画をもって全国の小学校・中学校に実施することとなった。四十四年にはさらにこの法律を改正して一学級の児童・生徒数を適正にし、教員数を増加した。これらは教育の質を向上させる効果をあらわしている。このような方策は小学校・中学校の教育条件を高める効果を示したのであって、教育方法の改善に資するところが多かった。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --