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六 戦後の教育改革

 昭和二十年八月終戦によってわが国は連合国軍の占領下におかれることとなった。これより、二十七年平和条約の成立によって独立するに至るまでは、国政がすべて占領行政のもとにあって行なわれていた。この間に各分野にわたって改革の実施が要請されたが、教育改革はその中でも特に重要なものの一つとみられていた。これは教育を改革することによって、国民の思想や生活を改変し、これを新日本建設の土台とすることを基本方針としていたことによるのである。この間に急速に実施された教育改革は戦時下の教育の後をうけた特殊な方策によるものであって、常時の教育改革と同様にみることはできない。このようにして戦後の教育改革は占領政策の一部であったので、それらがすべてわが国独自の方策によるものではなかった。しかしこれらの教育改革の中には、それまでわが国における近代教育の発展を妨げていたものを、強力な方策によってとり除いて正常な発展の路線につかせ、さらに進展させたものも少なくなかった。

 終戦直後二十年九月に、文部省は「新日本建設の教育方針」を示して、民主的・文化的国家建設のために必要と考えた教育の基本方針を明らかにしてこれを教育改革の出発点とした。その後同年十月より十二月にわたって連合国軍最高司令部(以下総司令部という。)は、日本教育制度の管理を始め四つの教育に関する指令をもって、戦時教育の処理についての方針を指示するとともに、速やかにこれを実施することを要請していた。文部省はこれらの占領政策による教育処理を実施して戦時教育体制を根本から改めるとともに、戦後の新教育建設について積極的な改革の諸方策を立てるために省内において協議を進め、具体的な改革の方針も立てようとしていた。二十一年にはその一つとして「新教育の指針」を編集し、戦後教育改革の基本となる思想を教育界に普及させることにも着手していた。総司令部は二十一年一月日本に向けて教育使節団を派遣することを本国へ要請した。使節団は三月に到着して教育改革の基本方策をまとめ報告書として総司令部に提出した。最高司令官はこの報告書に示された教育理念と改革の具体的な方策を承認し、これによって戦後日本の教育改革が進められることを要請した。総司令部の民間情報教育局(CIE)は報告書の趣旨を実現するため文部省と協議して具体的な方策を立てることとなった。これからCIEは政府および文部省の教育方策について助言し、協力し、その実施に当たっては背後において大きな力をもっていた。

 米国教育使節団の来日が決定したとき、総司令部は日本側教育家委員会をつくって協力することを求めた。その後この委員会が中心となり、教育刷新委員会が内閣に設けられ、二十一年九月総会を開いて審議を始めた。この委員会において戦後教育改革の基本となった諸方策は決定されたのであって、改革に対して重要な役割を果たすこととなった。CIEはこの委員会には官僚的色彩を加えないこととしたので、文部省からは委員として加わらず、ここで決定した方針を受けて改革の実際に当たることとなった。その間に総司令部と刷新委員会と文部省三者の間には連絡調整委員会もつくられてはいたが、教育施策を決定する方式としては異例な委員会であった。このため文部省は場合によっては実施に当たってはなはだしい困難に当面しなければならないこともあったが、これから占領解除となるまで、CIEの助言・指導なくしては教育関係法案は勿論、実施の方法も決定することはできなかったのである。当時は教育改革を進めるに当たっての細かい問題についてもCIEとの連絡協議を必要としたが、CIEにはアメリカ教育界の専門家が多数来日して、それぞれ改革の業務を分担していた。こうした実情からみて、占領下の教育改革は日本が進めたものではあるが、それらはCIEと結びつかなければならなかったので、教育施策とそれの実施において従前にはみられなかった特別な性格をもっていたものとみなければならない。

 これらの教育改革を行なうに当たって、基本となる教育の理念や改革実施の方策や実施案を新しい民主的な方式によって決定することとした。これは新時代の動向に基づいたものであり、教育界は勿論、一般に新しい教育改革の理念や方策を周知させるためにも有力なものとなった。その最も基本となるものは日本国憲法に教育についての条文を掲げたことである。旧憲法には教育に関する条文は全く含まれていないのを改めたので、これによって戦後教育改革の基礎が定められることとなった。どのような教育を行なうかについては、戦前には教育勅語があったが、これを基本とすることはできないとし、新しい立法で、「教育基本法」が制定されたのである。教育勅語は二十一年十月に学校教育においては用いないこととしたが、その後国会においても教育勅語の失効についての決議がなされた。教育基本法においては教育の目標を定め、さらに教育実践の基本となる思想を簡明な条文として示したのである。この教育基本法の条文に示された一つ一つの教育実践のための命題は、民主社会の教育のために必須なものとなって力をもっている。この教育基本法のもとに「学校教育法」、「社会教育法」、「教育委員会法」などの立法が行なわれ、これらが戦後教育の体制をつくりあげる基本規定となった。

 戦後の教育改革のうち最も多くの人々の注目を集め、その実施と成果に期待をかけたのは六・三・三・四制による学校体系の改革であった。戦後の教育は六・三制であるということが教育改革の標語となるまでに強い印象を国民に与えた。この六・三制は米国教育使節団報告書の中にも望ましい学校体系としてしるされていたが、教育刷新委員会はこの問題をとりあげ、従前の学校体系がもっていた改善の諸点を検討し、教育民主化の精神を学校制度に実現する方針で六・三制による改革を決定した。文部省はこの方針によって学制改革に着手した。この学校体系の改革は小学校から大学にまで及ぶ全学校体系の改革であって、明治五年学制頒布以来の大きな改革となった。

 学校制度の改革は基本となる学校体系を六・三・三・四の編制に改めたことである。まず、戦時下の国民学校をこの改革によって再び小学校の名称に改め、初等教育を施す六年制の学校とした。これは明治五年以来小学校は八年となっていたのを六年とし、高等科二年を切り離して中等教育を施す学校に編入したのであって、これは八年制初等教育の大きな改革であった。しかし初等教育は長い間六年の小学校課程修了で中等学校に進学していたので、六年制と改めたことによって改革の混乱はなかった。したがって小学校は昭和二十二年の新学制実施下において学校体系の問題については全く平静であった。これと比較して中等学校は六・三・三制実施によって大きな変革を断行することとなった。長い年月にわたって初等教育の一部として制度化していた国民学校高等科と定時制の青年学校とを中等学校の初めの三年と合せて、新制中学校に改編したことは新学制の最も大きな改革となった。文部省内には三年制の中学校をただちに創設することについては、多くの困難があることが明らかであったので、この改革には年数をかけて徐々に行なうようにするという意見が強かった。しかし、六・三制の出発を二十二年春にするという方針は総司令部側の強い意見があり、実施を強行することとなった。新制中学校開設については全国に多くの問題を起こしたが、この方針が貫かれて数年後には小学校卒業生はすべて中学校に入学するという制度となって安定した。

 中学校が単線の学校となったと同じ方針で、中学校、高等女学校、実業学校の三つの種別があった中等学校を単一の三年制高等学校に改めた。これは後期中等教育機関の大きな変革であった。この改革によって五年制の中等学校は初めの三年をきって中学校とし、それに続く二年に一年を加えて三年としたので、旧制の高等学校、専門学校のはじめの一年をとって加えた年限となり、それだけ後期中等教育の学校体系における位置を高めたこととなった。改革の実際においては新制高等学校成立の際にその多くが旧制中等学校の校舎をそのまま使ったので、新制の切り替えにおいて中学校設置のような困難な問題はなかった。高等学校設置については学区制、男女共学制、総合制という原則を立てて統廃合を行なった。この三つの原則によってどのように旧中等学校を移行させるかについて地方によってはむずかしい問題をおこしたところもあった。高等学校は中学校卒業生であって入学を希望するものはなるべく多く入学させる方針であったので、高等学校にはさまざまな要求をもった生徒が多数入学することとなる。そのため公立高等学校を学区制によって設立し、普通課程、職業課程を設ける制度とし、これらの課程を総合して経営する学校を奨励した。また高等学校に定時制、通信制なども併置して、全日制の課程に入学することのできない者のためにも、後期中等教育の機会を与える方策をとった。このようにして成立した高等学校は逐年学校数と生徒数が増加し、二十七年には学校数は四、五〇六校、生徒数約二三四万人となり、高等学校は教育における機会均等の原則を実現する学校として大きな役割を果たすようになった。

 高等教育機関も新学制の理念に基づいて大きな改革を行なった。旧制の高等教育機関としては、大学、大学予科、高等学校、専門学校と教員養成の目的で設けられていた高等師範学校、女子高等師範学校、師範学校、青年師範学校があった。戦後の教育改革によってこれらの多様な高等教育機関を一応単一の四年制大学に改編したのである。これは旧制の大学にとっても、高等学校、専門学校、教員養成諸学校にとっても、その性格を改めなければならない大きな問題となった。旧制大学は三年制であったが、大学予科と高等学校とを前期の教育機関としてもっていたので、これを結びつけてみると、五年か六年の課程をもつ高等教育機関であった。この旧制大学が四年制の新制大学となったので、高等教育の学校体系としては段階を一つ下がって、高専から改編された新制大学と同格になったのである。この改革において旧制総合大学は新制の大学院をもつこととなったので、大学院をもつ新制大学ということで、単なる四年制大学とは異なった性格をもつ制度ではあった。しかし、四年制大学としては他の大学とは変わることのない平等な大学となったのである。したがって、新制大学制度は旧制の高等学校・専門学校を大学へ昇格させることとなった。旧制高等教育機関を四年制大学に改編する際に、専門学校の一部は新制高等学校となることが予想されていた。しかし、新学制実施に当たって旧制中等学校卒業生を入学させていた学校は、そのすべてが新制下の大学となることを要望した。しかし新制大学としては認められなかった学校もあり、これらの学校は新学制下においての位置が明らかでないとして問題となった。また、四年制大学では修業年限がながいので、短い年限で高等教育を受けたいとする生徒の要望にも応ずることができないということになった。これらの事情から二年制または三年制の高等教育機関を設け、これを大学制度の一部に加えるという要請が強くなり、二十四年暫定的なものとして短期大学の設置を認めることとなった。これによって新制の高等教育機関は、四年制大学を本体とし、二年制の短期大学があり、四年制大学を修了した学生のうちさらに学業を進めたいと要望する者のために大学院が設けられる制度となって全体の改編が完了した。なお大学の通信制・夜間制も制度として認め、高等教育を受ける機会を多くする方策をとった。

 このように戦後の教育改革は旧制度下の高等教育機関の間につくられていた障壁を除いて、一様に四年制の大学として開放的にした。ところが旧師範学校、青年学校などは、新制大学制度下において、教員養成を主とする学芸大学または学芸学部か教育学部に改編された。教職員となるためには教育職員免許法によって教員免許状を必要とする制度とした。新しい制度ではこれらの教員養成を主とする学部だけではなく、他学部学生であっても必要とする単位を修得すれば教員となることができる開放的制度をとった。これによって明治初年以来教員は師範学校だけで養成するとしてきた閉鎖性を破った方策をとったのであった。このことから、教員の養成計画はどのようにするかについて教員養成を主とする学部や大学、そのほかの一般大学の養成について問題があるとして教員養成制度が論議されてきた。

 以上のように中等学校以上の諸学校が新しい編成となったが、この転換の際に従前の学校制度のうちで職業教育を施していた実業学校が単独の職業高業学校に転換することは少なかった。さらに高等学校普通科が大学への進学の路線と考えられたこと、職業教育に必須な実験・実習の施設・設備が戦時中荒廃して容易に復旧できないことなどの条件が重なって、高等学校における職業教育が不振となる状況にあった。これらの事情のもとにおいて職業教育を振興する方策が特に必須となった。教育刷新審議会は二十四年六月に職業教育振興方策を建議して、中学校および高等学校における職業教育について改善を要望し、基本となる方策を答申した。同年七月に「職業教育及び職業指導審議会令」を公布して、特別に審議機関を設けこの問題を検討した。職業課程をもつ高等学校長は委員会を設けて、職業教育に関する法令を公布することによって産業教育の振興を図る運動を起こし、二十六年六月「産業教育振興法」が制定された。これによって戦後における中学校・高等学校制度の中における職業教育の性格と意義を明確にすることができた。その後、実験・実習の設備もしだいに充実し、産業教育のために国の補助金も交付することとなり、この分野の教育はようやく活気を示すこととなった。

 特殊教育を施す諸学校については明治初年より施設があり、その後振興の方策を立ててきたが、じゅうぶんなものとはならなかった。戦後は教育の機会均等の原則によって学校教育法の中で盲学校・聾学校・養護学校の制度を明らかにし、これを義務制とすることが定められた。これは特殊教育の学校にとっては大きな改革であった。また一般の小学校・中学校・高等学校には特殊学級を設けることができるとして、通常の学級で学習することが困難な生徒の取り扱いについても基本となる方針を決定した。しかし、これらのうち養護学校の教育は義務制から除かれたが、精神薄弱児・肢体不自由児・身体虚弱児などの教育が注目され、これらの児童の教育についての方法が改善され、施設が設けられるようになったことも、戦後教育改革の著しい特質である。

 学校教育以外の教育活動が一般に注目され、この分野の教育を社会教育として振興することは、戦後に発表されたいずれの教育改革の提案の中にも明らかにされていた。米国教育使節団も社会教育の振興をとりあげたが、その後CIEは地方軍政部と連絡して、日本の民主化をすすめる方法として成人教育の奨励、図書館の充実、PTAの活動、大学開放、視聴覚教育などについて改革の方向を示唆した。教育刷新委員会も社会教育振興方策・青少年社会教育振興などについて建議した。その際に社会教育関係の立法についても要望するところがあった。このような状況のもとに二十四年六月にはわが国はじめての「社会教育法」が制定され、学校教育法とならんで、教育の二つの分野についての基本的な立法ができた。この中で公民館、学校施設の利用、通信教育などについて規定したが、図書館については二十五年に「図書館法」、博物館については二十六年に「博物館法」が特別に立法され、これらの施設がつくられて、それぞれが活動を展開した。戦後全国各地域にわたって社会教育の中心施設となったのは公民館であった。公民館は地方の文化および社会教育の中心としての機能を発揮するようになっていたため、社会教育法の中においても、多くの条章により基本となる事項が定められた。二十五年からは公民館運営や施設費の補助金を交付したので、公民館は全国にわたった社会教育のセンターとしての役割を果たした。このほかに戦後における社会教育の団体として注目され、全国に普及したのはPTAであった。これは学校と不可分の活動を行なったが、二十二年から文部省が手引きや規約の参考資料を配布して設置を奨励し、社会教育としての活動についても期待したので、二十五年ごろにはほとんどすべての小学校・中学校・高等学校にPTAの組織がつくられた。このほかに戦後の社会教育として注目されたものに青年学級がある。これは農村青年の自発的な学習活動が一つの社会教育機能を果たすものとして注目され、文部省もこれを奨励したので、全国に普及した。これと並んで母親学級が奨励され、婦人学級として発展したことも注目される。

 以上のように学校や社会教育の制度は新しくなったが、これらの制度によって成立した教育機関においてどのような教育内容を授けるかはさらに重要な問題であった。昭和二十年秋から極端な国家主義や軍国主義を排除する目的で指令が発せられた。その中で教育内容についての戦後処置として注目されるのは二十年十二月の修身・地理・歴史の授業を停止し、戦時中使用されていた教科書をすべて回収すると指令したことである。この処置は新しい教育内容編成についての課題を与えたものである。ところが戦時教材処理の問題は国定教科書制度についての方針を再検討することとなり、新学制実施とともに、教科書は民間において編集し、文部省がこれを検定する制度に順次移行する方法がとられたのである。中等学校・師範学校の教科書は明治時代から検定制であったが、戦時中は国定制へ移行する政策がとられていた。教科書を国定制から検定制へ移行させることは、教育内容についての行政として大きな改革であった。教科書を検定したり、学習を指導したりするには教育内容の基準となるものが示されていなければならない。学校教育法においては、教育は学習指導要領によることと定められたのである。そこで学習指導要領は新学制による学校教育の出発に当たって必須なものとなった。特に新しい科目として登場した社会科や家庭科や自由研究などは、指導の基準となるものがなくては、授業を始めることができなかった。二十二年春に学習指導要領一般編を配布し、続いて各教科別の学習指導要領をつくった。しかしこの指導要領の作成はわが国においてはじめてのことであり、公表がせまられていたので、暫定のものとして急いで編集してまとめた。その際にアメリカ各州のコース・オブ・スタデイも参考にするところがあった。その後学習指導要領については実施状況を調査するとともに、この改正について研究し、二十四年に教育課程審議会を設置して、教育課程についての重要事項を審議して、教育内容編成の基本となる方針を立てることとなった。

 学習指導の方法についても新学制による学校の授業を刷新する目的で、改善の方向を指示した。児童の学習を指導する方法原理として新しい考え方に注目し、一般に、児童・生徒の学習活動を尊重し、従来の注入主義を改める必要があることを明らかにした。終戦直後、児童・生徒の自律的活動を進めるための討議法が新しい方法の一つとして奨励され、討議をとおしての活動に期待した。また個人の能力を伸ばすようにして個人差に応ずる学習ができる方法を奨めた。能力別に班をつくって学習する方式などがみられるようになった。また生活の中の問題をとらえ、経験をもととした学習内容を展開する方法として単元学習が提唱されていたので、教材を単元に編成する方法が注目された。学習は教科書・教材を学ぶばかりでなく、児童・生徒が地域において具体的に見聞し経験した内容を尊重する立場から、さまざまな経験的学習活動を展開できるようにする方法が奨められた。このためには実験・観察・資料の収集などが必要であると主唱され、視聴覚教材の利用についても奨励し、教育方法についての新しい方向が検討された。

 教育の効果については従来、学科試験が行なわれて評定がされていた。戦後児童・生徒の学習活動が多様な形をとり、個人の能力による教育効果の差も著しくなったので、これを客観的にテストする方法が問題となった。学習指導要領一般編において客観的テストの方法を示し、評価の改善に資することとした。成績の記録については指導要録をつくる方針を指示したことも戦後の新しい方法であった。

 戦後の教育内容および方法改革の一つとして学校保健がとりあげられ、二十四年に学校保健計画についての実施要項を定めてこの分野の教育活動を明らかにした。これらの方針によって小学校においては新しい健康教育を全般の教育活動において考慮することとし、中等学校では体育科を保健体育科に改め、健康教育を教育内容の一分野とした。また、二十一年十二月学校給食を普及奨励する方策を通達し、食糧不足に対処して発育の助長と健康保持のために都市の小学校児童に対して学校給食を行なうこととなった。二十七年学校給食実施方針を定めて、都市と町村とを問わずに学校給食を行なうように要望し、これを学習指導の一部とするとした。これは戦後になって始めた教育の新しい分野として注目された。

 戦後における教育民主化の理念は教育行政についての根本的な改革も要請していた。教育行政の改革については二十一年八月文部省において「教育行政刷新要綱案」をまとめていたが、これは全国を九学区に分けて、区内の学校教育・社会教育をつかさどることとし、ここに学区教育委員会を設けて、分権化を行なう方策であった。同年十二月教育刷新委員会が米国教育使節団報告書の提案をもととして、教育行政改革の基本方針を明らかにしていた。文部省は二十二年に「地方教育行政法案」をつくって教育委員会による教育行政の方策をまとめた。「教育委員会法」が成立したのは二十三年六月であって、同年十月五日に教育委員の第一回選挙が行なわれ、都道府県と五大都市において教育委員会が発足した。さらに二十七年十一月一日には全国の市町村に教育委員会が設けられることとなった。これは教育行政の方式として従前全くみられなかった制度を実施したのであって、画期的な教育行政の改革であった。しかし、教育委員公選による教育行政の進め方については実施に至るまでにも問題があったが、実施後にも運営や教育委員選出方法、委員会の設置単位などについての諸問題がとりあげられ、検討を重ねていた。

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