四 教育制度の拡充

 明治時代の後半から大正時代の初期にかけて、わが国の近代教育制度は確立し、しだいに整備してきた。初等教育より高等教育に至るまで基本となる学校体系が整い、多様な学校がその機能を明らかにして、国民の教育要望にも応ずるようになった。第一次世界大戦後には、各国が時代の進展に応じて教育制度を改革する新しい課題に当面した。当時は教育内容や方法についても改革の気運があらわれ、いわゆる新しい教育の運動が欧米各国に起こった。わが国においてもこれらの教育制度改革の理念や教育実践についての試みなどが知られるようになり、それらについての関心が高められた。こうした情勢のもとにあって、わが国における文教施策が展開されていたが、当時は教育制度全般を組みかえるような改革を行なう方策はなく、明治初年から築いてきた教育制度と実践を拡充する方向で諸問題がとりあげられた。

 当時戦後の教育方策を根本から審議して拡充する方策を立てるために大正六年九月内閣に「臨時教育会議」が設けられた。この会議は八年三月に至るまでの間に、教育全般の諸問題の所在を明らかにし、これらの問題を解決するための方策と改善方法について討議を重ねた。これによって、その後十数年にわたる教育制度拡充の基本となる方策が明確にされた。この会議においては制度や実体を改変する方策よりも、明治初年から築いてきた教育制度を拡充して、従来より以上の機能を発揮させ、国民教育を確立するための努力をした。臨時教育会議が終わってから、引き続いて「教育評議会」を、さらに十三年には「文政審議会」を設けて昭和十年代にかけての教育改善と拡充の基本方策を決定して実施に移してきた。教育拡充のための諸方策が展開された大正五年から昭和十一年までは、これらの諸会議が文教施策を進めるに当たって、中枢となる機能を果たしていたのである。

 学校制度についてみると拡充問題の一つは義務教育年限延長であって、これが臨時教育会議においても審議された。当時尋常小学校の就学率は九九%以上となり、卒業生の多くは、さらにこれ以上の学校教育を受けたいと要望した。その際に、中等諸学校は、希望するすべての生徒を入学させることはできなかったので、多数は高等小学校へ進学することとなった。このような情勢であったので義務教育年限延長によってこれに応えるための方策として高等小学校を義務制にする改善問題が臨時教育会議の審議事項となった。しかし、会議においては時期尚早ということとなり、今後の課題として残された。その後昭和初年にも義務教育年限延長の問題がとりあげられたが、この方策は二十二年の学制改革に至るまで実現できなかった。

 このころは中等学校への入学生徒も多くなり、さまざまな希望をもった生徒が在学する時代となった。しかし、中等学校の制度体系については臨時教育会議でこれを基本的に改革する提案はみられなかった。中学校、高等女学校、実業学校、実業補習学校の制度は改変することなく、これらの諸学校の拡充を行なった。この中で中学校は増設によって入学者が多くなり、生徒の希望も異なり資質もさまざまとなり、学校としての性格も従前と同様にはみられなくなった。このような実情によって文政審議会は昭和四年中学校教育改善方針を答申した。これによって六年から中学校に第一種・第二種の制度を実施し、第一種は、卒業後主として実生活に入るもののため、第二種は、卒業後主として上級学校へ進学するもののため二つの異なった課程を設けることとした。高等女学校も入学者が多くなったため、中学校と同様な方針で二つの課程を設けることが定められたが、これは実施されなかった。戦時中からの近代工業の著しい発達に伴って実業学校も拡充されて、産業界において必要とする技術者を養成した。

 高等学校と専門学校はこの時期に学校数と生徒数が増加して、高等教育機関の大拡張方策による改善の結果を示した。特に高等学校は従来大学予科であったのを改め高等普通教育を完成する機関とし、生徒を文科と理科に分けて編成した。また、年限については高等学校は七年制を本体とする制度に改め、四年の尋常科と三年の高等科とをもって編成することとし、高等科だけを設けることができるとした。また、従来の高等学校はすべて官立であったのを改め、公・私立の高等学校の設置も認めたので、学校数は増加し、以前は八校であった高等学校が五年には三二校となった。高等学校卒業生の増加によって大学制度についても改革が行なわれ、従前官立大学だけが大学であったのを改め、公立、私立の大学も認めることとなった。また、単科大学の制度も実施され、大学の性格が一変し、学校数も学生数も著しく増加した。また、専門学校のうち大学に昇格したものも新しい大学令によって運営されることとなり、大学の数もこれによってさらに多くなった。また、専門学校も拡充され学校数・生徒数は著しい増加を示した。女子の専門学校もこの時から設けられ、高等女学校卒業者であって専門学校へ進学する生徒が多くなり、女子の高等教育機関の拡張となった。

 師範学校については文政審議会に改善案を諮詢し、その答申に基づいて、大正十四年四月に「師範学校規程」を改正し、本科第一部の予備科を廃止して修業年限を五年とし、卒業生のために専攻科を設ける制度とした。その際、第二部の修業年限が一年であったのを昭和六年一月規程を改正し、本科第二部を二年とした。これは、中等学校卒業者を多く入学させることによって師範教育を拡充・向上させ、将来専門学校とする道を開く方策となったのである。また大学、専門学校の卒業者も高等学校・中等学校教員の免許状を取得できることとなったので高等師範学校卒業者のほかに、多数の大学、専門学校卒業者が高等学校や中等学校教員となった。これによって中等学校の増加に伴う教員の需要に応ずるとともに、しだいに中等学校の中に新しい教員層をつくるようになったのである。

 わが国の特殊教育は明治十年代から盲教育・聾教育のための学校がつくられてきていたが、これらの学校を近代学校制度に加えて運営することはおくれていた。初めは小学校令の一部にこれを加えていたが、大正十二年八月に「盲学校及聾唖学校令」を制定し、その細則も規程として公布し、この分野の特殊教育がようやく独立の学校として学校体系り中にはいることとなった。その他精神薄弱児の教育、肢体不自由児の教育、身体虚弱・病弱児の教育についても大正十年ごろから特殊教育の問題としてとりあげられ、そのための教育もしだいに拡充された。しかし特殊教育全体にわたる積極的な拡充方策は第二次世界大戦後の教育改革をまたなければならなかった。

 この期の社会教育はまず臨時教育会議において、通俗教育の拡充計画として答申された。その際には読物、図書館、博物館、通俗講演、活動写真、音楽、劇場などによる諸活動についての改善策を指示したのであって、社会教育としてのまとまった方策は立てられていなかった。文部省に社会教育局を創置したのは昭和四年七月であって、このころからのちに社会教育活動も拡充され、施設もしだいに形を整えることとなった。成人教育講座の開設、婦人教育の振興、青少年団体の育成などに着手した。産業教育の一部として発達してきた実業補習学校は勤労青年のための社会教育としても取り扱われた。これとは別に、大正十五年には軍事教練を目的とし、現役陸軍将校を配属して青年の教育を行なう青年訓練所が成立した。その後、実業補習学校と青年訓練所を統合して青年学校を設けることとなり、昭和十年四月青年学校令を公布して制度化を行なった。これらが教育行政上社会教育としてしだいに拡充されてきたが、学校教育とならべて社会教育を制度として運営し、積極的な方策を講ずるようになるのには第二次世界大戦後の教育改革をまたなければならなかった。

 第一次世界大戦中の好景気の後には不況のきざしが現われてきて、市町村の教育費支出も困難となり、教員俸給にも支払いが遅延する傾向もみられるようになった。臨時教育会議における答申においては、市町村の教員俸給を国庫と市町村の連帯による支弁とすることが指示された。これによって大正七年三月「市町村義務教育費国庫負担法」が公布された。これによって尋常小学校教員と準教員の俸給の一部は国庫がこれを支弁するという制度になった。ここにおいて、市町村と国との教育費の分担が制度として明確に定められる画期的な教育財政方策が始められた。その後、不況によって教育費が削減され、児童教育について多くの問題が論議され、いくつかの財政策を講じて、不況下の教育困難に対処した。三年十月の「学齢児童就学奨励規程」による補助金の交付、七年九月の「学校給食実施ノ趣旨徹底方並ニ学校給食施設方法」による学校給食の実施などは当時の情況に対応する政策であった。

 このような時代において社会思想問題が起こり、社会における思想運動とともに学生の間にも思想運動が現われた。この対策のために昭和三年十月、専門学務局内に学生課を設けたが、翌年これを拡大して学生部とした。七年八月には国民精神文化研究所を設けて、思想問題の研究と指導とにあたった。さらに九年六月、学生部を改めて思想局を設けて、学校および社会教育団体の思想上の指導や調査にあたった。十年十一月には数学刷新評議会を設け、思想問題に対応して、国体観念、日本精神を根本として、学問と教育の刷新を図るための思想を確立することに努めた。この評議会は、戦時体制にはいる前夜に設けられた審議機関であって、間もなく開設される教育審議会に対して教育改革の基本的な路線を用意したのである。

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