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第2章
教育の普及と社会.経済の発展
2 わが国の教育普及の史的考察
(3) 中等教育の普及と女子教育の振興



a 中等教育の普及とその背景

明治26年(1893)ごろから明治32年(1899)にかけて,中学校のほか,高等女学校・実業学校および実業補習学校などいろいろな中等ならびに準中等教育の学校種類が出そろった。それは,ちょうど日清戦争から日露戦争にかけての時期で,わが国の経済が発展期にはいった時であった。明治初期に植えつけられた近代産業の種子がようやく育ち,手織りが機械紡績に変わるなど,家内手工業が工場制生産に変わりはじめて,徒弟制度の教育機能は新らしい実業教育が受け持つようになって,社会・経済の要請が公教育制度に組み入れられるようになりはじめた。

図7 中等教育機関の男女別在学者数の推移

このようにして,日清戦争前後から発展を示した中等教育は,明治の末から大正・昭和にかけてわが国の経済が成熟期にはいるとともに,急速に普及することとなる。

ヨーロッパにおいて,第1次世界大戦後統一学校運動が唱えはじめられる以前に,わが国の中等教育の普及がすでに始まっていたことは注目すべきことであろう。また,その後大正デモクラシーといわれる時代に,中等教育の発展の伸びが著しかったことも注目される。

国民の所得が高まれば進学率も向上し,より高い教育が普及すれば生産も上昇する。いま,有業者1人当たり国民所得(昭和35年貨幣価値に換算)と中等教育在学者数を10年ごとに示すと,明治28年(1895),同38年(1905)にかけて国民所得は緩慢な伸びであるが,大正4年(1915),同14年(1925)にかけてはやや急激に伸びている。これに応じて中等教育在学者数は明治28年から大正14年まで非常な伸びである。このようにして,中等教育は所得の伸びをはるかに上回って著しく普及し,第2次世界大戦後,新教育制度による中学校義務制と高等学校教育の発展へと受け継がれている。

表4 中等教育在学者数の伸びと生産・所得の伸びの関係

準中等教育機関

準中等教育機関の生徒数は、明治28年(1895)には約7万人であったが,大正14年(1925)にはこの18倍,昭和10年(1935)には30倍以上に増加した。

図8 準中等教育機関在学者数の推移

これは主として青年学校が普及したためであるが,戦後は新教育制度による中等教育の整備にともなって,中等教育に吸収され,準中等教育機関としては,各種学校だけとなった。準中等教育機関の発展のあとをたどってみると,中等教育機関在学者が急激な伸びを示した時に,準中等教育機関はかえって停滞している。

中等教育への進学率

初等教育の普及の上に中等教育が発展するわけであるが,わが国では初等教育が,ほぼ100%近く普及する以前から,中等教育への進学率がしだいに高まっている。

明治28年(1895)には,修業年限4年の小学校の卒業者数も約37万人と少ないが,そのうち中等学校へ進んだ者は約1.6万人で,4.3%である。内訳は尋常中学校1.3万人,高等女学校800人,尋常師範学校1,600人で,男子の進学率5.1%で女子の1.3%をはるかに上回っている。

表5 中等教育機関への進学率

その後は,卒業者数の増加にもかかわらず,進学率は徐々に向上し,大正9年(1920)には15%,昭和15年(1940)には25%を越え,戦後は一躍50%台に上り,今や60%を越えるに至った。なお男女別には,男子の進学率が女子のそれを常に上回っているけれども,明治時代と昭和25年(1950)ごろのほかは,その差は僅かなものである。

この進学率の伸びは,わが国における工業化の進展と,ほぼ対応している。このような関係を地域別にみると,東京と大阪は,昔も今も,合わせてわが国工業生産高の約3割を占めて,東西における商工業の中心であるが,その進学率は,明治28年(1895)にすでに東京が27.1%,大阪が14.0%で高く,昭和35年現在においても,男子の進学率は79.4%(東京),71.2%(大阪)と全国の1〜2位を争っている。

これに対して,高知・宮崎・鹿児島は工業化の速度の相対的緩慢さが,進学率の増大の歩みを比較的鈍らせた事例であろう。高知の場合,進学率は明治28年(1895)の10.9%から大正14年(1925)の15%へとあまり伸びず,昭和10年(1935)には13%とやや低下している。宮崎・鹿児島でも同様な傾向がみられ,昭和初期の不況時に3県とも進学率が一時停滞しているのは意味深い。

なお,該当年齢人口に占める在学者の割合は国際比較にしばしば用いられるので,以下に掲げておく。

表6 中等教育および準中等教育在学者の該当年齢人口に占める比率


b 専攻分野別の在学者数

次に,中等教育機関の在学者数を専攻分野別に分類して,その推移をみる。

まず,普通課程と職業課程の別にみると,普通課程の全体に占めろ割合は,明治28年(1895)84,7%,大正9年(1920)67.7%,昭和10年(1935)63.0%,昭和35年(1960)58.3%と漸次減少を示しているが,なお全体の半数以上を占める。

また,職業に関する課程の比重は明治以来,しだいに増加しているが,それぞれの専攻分野が社会,経済の発達と密接に結びついており,各産業の発展に応じてその各分野の消長が激しい。農業を主とする第1次,工業を主とする第2次,商業・サービス業を主とする第3次に分けで産業別有業人口の明治以来の推移をみると表のようである。

表7 産業別有業人口の伸び

第1次産業人口は明治28年ごろまで増加するが,その後減少している。

第2次産業人口は最も低い割合から出発して急激に伸び,倍率は最も高い。

第3次産業人口はゆるやかに伸びてきているが,第2次世界大戦中に一時減退し,戦後かなり増加した。

図9 専攻分野別中等教育機関在学者数の推移

図は,中等教育機関在学者の絶対数の伸びを専攻分野別に示したものである。工業課程の在学者数は,工業人口の伸びに応じて昭和10年(1935)当時に比べて昭和35年(1960)は約6.7倍にも増加している。特に昭和10年(1935)から20年(1945)にかけての準戦時から戦時への時期の増加率は著しく,これを反映して鉱工業生産指数も終戦に至るまで急激な伸びを示した。

商業課程の在学者数は昭和15年(1940)までは順調な伸びを示したが,生産増強一本槍の戦時体制に影響されて,その後しだいに減少した。これが再び増加に転じたのは戦後のことで,第3次産業人口の急速な伸びに対応する。

農林,水産の第1次産業人口はしだいに減少しているがこの傾向のなかで,水産課程の在学者数は絶対数では少ないが,戦後の増加率は大きい。

農業課程の在学者数もまた,明治以来,減少傾向を示さない。農業学校は農業技術の教育というだけでなく,農村における中等教育機関という役割を果して農村地域の中等教育の普及に貢献してきた。最近の増加は農業・水産業における技術の向上と体質改善の要請に基づくためである。


C 女子教育の普及

近代化の初期において,従来家庭教育だけに終わっていた女子が男子と同じように学校教育を受け,一般教養のみならず職業・専門教育を受けるようになったことは,社会的にも経済的にも近代化を促進した点で大きな意義があった。

初等教育における女子の就学率は,上述のように明治8年(1875)の18.6%から25年たって,同33年(1900)には90%を越えた。このことはわが国の近代化の社会的基盤をつちかったという意味で大きく評価されるべきである。

その後の女子の中等および高等教育への進学率を該当年齢人口中の比率でみると,.次のようである。

表8 女子の在学者数の該当年齢人口に占める比率

すなわち,女子の中等および準中等教育の進学率は,明治末期から大正にかけて大きく伸び,さらに戦後,めざましい発展を示している。これらの傾向は男子の場合と同様である。高等教育では明治末期からしだいに普及し,特に戦後大きく発展した。昭和35年度現在男子の16%に比べて4%である。

これらの女子学生はどのような課程に在学していたかを示すと,次のようである。

表9 女子の中等・高等教育在学者の専攻分野別構成比

中等教育においては,普通課程を専攻するものの比率が最も多いが,専攻分野の種類はしだいに広がり,特に女子の職場進出が著しくなつた戦後,職業課程の拡大が著しい。また準中等教育では,第2次世界大戦後は洋裁・料理など実際生活に役立つ分野の専攻を目的とする各種学校が大きく発展している。

高等教育においては,法文経部門の専攻者が最も多いが,これは文学部在学者が多いためであり,また,戦後は家政や教育がこれに次ぎ,女子進学の専攻分野もしだいに広がってきている。

しかし,女子の場合,卒業後職業につかずに家庭にはいるものも多いので,教育を投資とみる場合,女子の労働力化率が問題となる。しかし,高い教育を受けた女子は消費生活が合理的になり,またその子弟に,より高い教育を受けさせることなどによって,社会・経済の発展を助長する効果があることは否定できない。


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