ここからサイトの主なメニューです
前(節)へ  次(節)へ
第2章
教育の普及と社会.経済の発展
2 わが国の教育普及の史的考察
(2) 初等教育の展開と指導者養成の重視


教育普及の姿を教育段階別に発展の順を追ってみよう。明治初期,最初に発展したのは初等教育と指導者養成を目ざした高等教育である。
a 初等教育の発展とその背景

欧米諸国に遅れて,近代化を始めた明治政府は,富国強兵,殖産興業,文明開化の旗じるしのもとで,近代的生産方法を導入するとともに,軍事,行政,財政上の近代的諸制度を採用して,国の独立をまっとうし,世界の先進国の水準に向って発展を企図した。

教育制度の確立もそれらの諸施策の一環であった。明治5年(1872),欧米の教育制度を参考として,近代的な教育の機会均等の考え方に基づく「学制」が公布され,ここに日本の近代教育のあけぼのがみられることとなった。

ことに,身分制を排し,殖産興業を目的として,全国民に近代教育をある程度強制的に行なおうとしたことは,その後のわが国の近代化の促進にとって大きな意義をもつものといえる。

徳川時代から,すでに寺子屋,私塾が相当普及しており,また政府や教育関係者の努力が結集し,,学制発布の翌年である明治6年(1873)には,就学率は図が示すように28%を示し,明治16年(1883)には早くも50%を越した。

図6 男女別の義務教育就学率の推移

しかしながら,近代産業はまだ種子をまかれたばかりで,第1次産業人ロは全体の有業人口の80%以上を占め,国民所得も現在の1/10程度であった当時において,教育は国民自身のためであるという考えから,貧困者を除いては授業料父兄負担の方針で発足した初等教育であったので,明治19年(1886)前後に就学率の伸びなやむ時期がある。この年,はじめて4年の義務制が規定されたが,財政支出の拡大に悩んでいた政府が,授業料徴収を厳格にしたのが影響し,就学率の停滞があったのではないかといわれている。当時の有業人口1人当たりの国民所得の低さと伸びなやむ状況を示すと,表のようである。

表2 明治期の有業人口1人当たり国民所得

「学制」では小学校の授業料を1か月50銭くらいが適当であるとしているが,これは明治11年当時,有業者1人当たり年間21円の所得であることから見ても一般家庭にとってかなりの負担であったことがわかる。

ともあれ,自力で近代化の道を切り開こうと努力してきたわが国民に,その成果が意外に早く示されるようになった。日清戦争から日露戦争にかけて,わが国の工業は,紡績業を中心とする軽工業がようやく発展し,軍事上の必要から重工業発展の基礎も築かれるようになった。そして国民の所得も少しずつ向上し,義務教育の就学率も飛躍的に向上するようになった。

明治33年(1900)には,小学校の授業料徴収の規定は原則として廃止された。そして,明治40年(1907)には,義務教育年限が6年に延長されたが,就学率は下らず,98%に達し,完全就学に近い数を示している。これはひとつには,4年制学校の上に高等小学校が普及していたからでもあるが,また義務教育に対する国民の心構えがすでに強固にできてきていたからであろう。

近代学校制度が施行されてから30年で,わが国の発展に呼応して,ほとんど完全な義務教育が達成されたことは,注目に値しよう。その速さは,わが国の宗教,言語,民族などの社会的・文化的伝統が,近代化を妨げる条件にほとんどならなかったことにもよるが,なによりもまず,国民とその指導に当った人々が,近代教育に大きな期待をかけ,非常な努力を傾けたからにほかならない。


b 指導者養成

近代化の初期において,まだ教育の普及がじゅうぶんでなかつた時期に,近代化を推進する指導者の役割は大きかった。近代以前の高等教育は,身分制度による指導者養成であつたが,明治5年「学制」以後の高等教育は出身階層のいかんを問わず,ただその指導者たるにふさわしい知識能力の高さだけを問題とする高等教育制度であったことが,広く人材の開発に役立ったのである。

明治期の高等教育機関には,帝国大学・専門学校・高等師範学校などがあった。

明治2年(1869)に政府は幕府から引き継いだ昌平校・開成所・医学所を併せてこれを「大学」とした。これがやがて明治10年(1877)「東京大学」,明治19年(1886)「東京帝国大学」となり,明治30年(1897)まで,わが国の唯一の総合大学であり,国の指導者養成機関であった。

開成所・医学所の時代から,洋学と医学が指導者養成の大きな柱であったが,明治10年(1877)「東京大学」となると,医学部・理学部・文学部のほかに,法学部が加わり,近代的管理者の養成が始められた。また,明治19年(1886)には工科大学が,同23年(1890)には農科大学ができた。このような,医・理・法・工・農の順序は,わが国の近代化の初期に,どのような専門分野の人材が要請されたかを示すものとして興味深い。

次に明治初期の高等教育の普及を,学生の出身層の面から考察する。

明治5年(1872)「学制」の公布によって,教育における士農工商の身分制が一掃され,すべての国民が教育の機会を均等に与えられることとなった。さらに初等教育を終了したものには,すべて上級の学校に進む機会が与えられた。ここに,学生の出身層がどのように推移していったかを,東京大学在学者の社会出身層によって推察してみよう 。

表3  「東京大学」在学者の族籍別出身層の分布

表に見るように,明治11年(1878)に3対1であった士族・平民の子弟の割合は、明治15年(1882)にほぼ同じ割合を占めるに至っている。明治7年(1874)当時の戸籍調査から類推すると,士族層は全人口の5.6%にすぎなかった。この割合からみると,士族層の子弟が教育を受ける機会は,平民のそれと比較してきわめてその率が高かったといえよう。

しかしこれが,能力において平民の子弟より士族の子弟のほうがすぐれていたことを示すものではなく,教育への関心が,士族層のほうが平民層よりも比較的高かったことと経済的理由によるものとみるべきであろう。

いずれにせよ,平民層の子弟が明治15年には,当時特権的な存在であった「東京大学」の在学者のほぼ半数を占めていたことは,注目に値する。

このようにして「学制」に明示された精神は,初等教育,中等教育においてはもちろん,高等教育の上にもその実現をみつつあったのである。


前(節)へ  次(節)へ

ページの先頭へ 文部科学省ホームページのトップへ