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第1部   戦後50年の科学技術
第2章  科学技術への取り組みの視点の変遷
第3節  1970年代:高度成長のひずみの是正と激動する世界への対応


1960年代末に国内総生産で自由世界第2位となった我が国は,1970年代半ばには研究費総額の面でも,フランス,イギリスを追い越した。

この1970年代には,1960年代の高度成長に伴って生じたひずみへの対応として,公害等へ対処するための科学技術が重視されるようになった。また,1973年に起こった第1次石油危機,1979年の第2次石油危機を契機に,エネルギー危機への対応が大きな政策課題となった。さらに,為替の変動相場制への移行など変化する環境の中で,企業は時代に対応した努力を重ね,その技術水準を向上させてきた。さらに,エレクトロニクスの発展により,コンピュータ・半導体,通信分野が大きく進展するとともに,次代の科学技術としてライフサイエンスの振興が課題となった。

(公害への対応)

1960年代の日本の急速な経済発展は,公害問題を生じ,国民の健康や自然環境問題等の社会問題が顕在化するにつれ,このような問題への対策としての科学技術が注目されるようになった。科学技術の社会への適用に当たっての事前評価の充実や,公害防止技術等のマイナス面の克服を図っていくことが人々の幸福にとって不可欠とされるようになり,この面での技術力の強化が進められた。

このような状況の中で,1971年に科学技術会議が行った第5号答申では,環境公害対策等の高度成長時代に発生したひずみへの対応と,ライフサイエンス等の次代の技術革新の芽となる科学技術の強化が提言された。また,1971年には環境庁が発足し,1974年には国立公害研究所(現国立環境研究所)が設置され,公害防止等に関する試験研究が強化された。

1960年代の高度経済成長のひずみとして深刻化した公害問題に対し,規制が強化されたが,これに対応し,亜硫酸ガス(SOx),窒素酸化物(NOx)の排出抑制対策技術の開発が進み,公害防止設備の投資が大幅に増大した (第1-2-7図)。 また,自動車の排出ガスの規制基準も強化され,これに対応した技術の開発が進むとともに,大型工業技術研究開発制度の下,脱硫技術の研究開発が行われた。このように公害問題に関しては,我が国が世界に先駆け,あるいは世界とほぼ同時に深刻な問題に遭遇し,外に参考とすべき目標が存在しない状況において,関係者の懸命の努力による技術の開発等により,比較的適切に対処できたといえる。

第1-2-7図 企業の公害防止設備投資額

(石油危機への対応)

1973年に起こった第1次石油危機,1979年の第2次石油危機を契機に,エネルギー危機への対応が大きな政策課題となった。

2度にわたる石油危機に対応して我が国の産業においては,省エネルギーが大いに進展した。例えば鉄鋼業においては,この時期,高炉炉頂圧発電などの省エネ技術が活発に採用され,粗鋼トン当たりのエネルギー消費原単位は大幅に減少した。また,自動車産業においても,公害問題に対処しつつ,燃費の向上を目指した研究開発が進められ,我が国の自動車の燃費は大幅に向上した (第1-2-8図)。

第1-2-8図 日本車の燃費の推移

このような時代を背景とし,新エネルギー技術の研究開発を行うサンシャイン計画が1974年に,省エネルギー技術の開発を行うムーンライト計画が1978年に発足している。このように,石油危機をはじめとする国際環境激変への対応力の強化と医療,福祉等の生活の質の面にも配慮した政策展開の必要性を指摘した科学技術会議の第6号答申が1977年に出されたが,この頃の時代背景を受けて,代替エネルギー開発等の重視の色彩の強いものとなっている。さらに,1978年に科学技術会議は「エネルギー研究開発基本計画」を答申した。1980年には,我が国経済の石油依存度の減少を目的として,石油代替エネルギーの開発及び導入の促進に関する法律が制定され,新エネルギー技術,省エネルギー技術の開発を実施する主体として新エネルギー総合開発機構(現新エネルギー・産業技術総合開発機構)が発足した。

(企業の研究開発と技術水準の変化)

1970年代半ばには,研究費総額の面ではフランス,イギリスを追い越し,数字の上からもトップクラスの仲間入りを果たした。なかでも,民間企業の研究開発投資はこの伸びを大きく支えている。この伸びのなかで,企業は時代に対応した努力を重ね,その技術水準を向上させてきた。

―ニクソンショック―

1970年には「進歩と調和」をテーマとした日本万国博覧会が大阪にて開催され,我が国の高度経済成長を世界に示した。1960年代は成長した我が国の産業が世界のなかで次第に大きな地位を占めてきた時期であるが,1970年代の冒頭に,ニクソンショック(1971年8月の米国の新経済政策)により,円が1ドル360円から308円に切り上げられ,その後の変遷を経て,我が国を含む世界の主要国が固定相場制から変動相場制へ移行した (第1-2-9図)。 このような変動は,我が国において当時危機的に受け止められ,企業の競争力の喪失が懸念され,企業の研究開発にも厳しい見方がなされた。

第1-2-9図 円の対ドルレートの推移

―企業の研究開発目標の時代変化―

このような時代の企業の研究開発の目標を,過去がらの推移を含めてみると,戦後・1950年代の技術の目標は主として「品質向上・性能向上」,「量産化」であったが,1960年代にはこれらの目標の比重は若干減少し,「環境保全」,「利便性・快適性」,「安全性」,「省力化」,「省エネルギー」の比重が増加した。1970年代には技術の目標の分布はさらに変わり,「量産化」,「品質向上・性能向上」が大幅に減少し,「環境保全」,「省エネルギー」,「省資源」等が急増したことが分かる (第1-2-10図)。

―産業技術の水準―

変動相場制への移行や,石油危機への対応という大きな課題があったものの,産業技術の面からこの時代をみてみると鉄鋼,自動車,家庭用電気製品等の分野で世界のトップクラスに達したと考えられる。

第1-2-10図 民間企業の研究開発の目標の変化

科学技術庁が我が国の民間企業を対象に行った調査(「民間企業の研究活動に関する調査」(1974年度))によれば,先進諸国との比較における我が国の技術水準全般に関する1974,75年当時の企業の認識は,調査対象企業のうち3割強が我が国が全体的に先行していると認識し,6割近くが先進諸国と並行しているというものであった。

しかしながら,同調査によれば,電子技術,材料技術,情報処理技術等,次代の技術革新に大きな役割を果たすと期待される技術分野では,我が国の評価は技術水準全般の評価と比較して低いものとなっていた。

このような中で,技術貿易の新規契約分に関しては,1972年から技術輸出が技術輸入を上回る状況となったが,これは,我が国の技術水準の向上を示すものと考えることができる。

我が国が技術面において先進諸外国の水準に達し,外国から新しい技術を導入することが次第に困難になりつつあるとの認識から,企業においても,創造的科学技術振興の重要性に対する認識が高まってきたといえる。

(エレクトロニクスの発展)

1970年代に大きく発展したものに,エレクトロニクスとこれを活用した情報化がある。なかでもコンピュータ,半導体,通信の技術の進歩と市場の拡大は著しく,さらに1980年以降の情報化社会の発展を支える基盤となっている。

―コンピュータ・半導体―

1971年に電子計算機の自由化の方針が決定され,1974年には資本の50%自由化,1975年末には100%の自由化が行われた。

このような状況で,1972年には電子計算機等開発促進費補助金制度が,1976年には超エル・エス・アイ技術開発費補助金が予算計上され,電子計算機の基礎的技術の開発や集積回路の製造技術の開発がなされた。なかでも,超エル・エス・アイ技術研究組合は,我が国の半導体製造技術の向上に大きく貢献したと考えられている。

また,大型工業技術研究開発制度の下,「パターン情報処理システム」プロジェクトを実施した。

この間,電子計算機の生産額,輸出額は1970年にそれぞれ,2,969億円,75億円であったものが,1980年には1兆1,776億円,1,680億円にと急成長した。この成長は,1980年代に入っても引き継がれる。

また,半導体産業もこの時期に急成長した。量産により,安価になった半導体は,産業用機械の制御や家庭電化製品の制御,電卓,ゲーム機等,幅広く他の産業にも使われるようになり,我が国の製造業の競争力の強化に貢献した。

-通信-

経済の急成長に伴って増大する通信需要に対処することが,戦後,特に1950年代以降の我が国の課題であった。特に公衆通信においては,電話機の架設に対する需要の充足(積滞の解消)と全国どこでもダイヤル通話できるようにすることが,主要な課題であったが,マイクロ波通信技術,有線通信技術,電子交換機等の交換技術等に関して日本電信電話公社を中心として進められてきた研究開発と,その成果を生かした設備投資により,1978年には積滞を解消し,1979年には全国即時自動化が実現した (第1-2-11図)。

また,この時期に,データ通信の需要が増大し,自動車電話等の移動体通信も実用化された。

第1-2-11図 加入電話の充足率の推移

(ライフサイエンス)

科学技術の進展による分析手法等の進歩とともに,生命現象や生物機能を,細胞を構成する物質の動きとして分子レベルで解明しようとする分子生物学が急速な発展を示し,生命現象や生物機能の多くを物質の動きで系統的に説明できるようになった。さらに,人間を含めた高等生物の知覚,記憶,思考というような高次の現象の理解にも,生物学の知識とともに,物理,化学等の基礎科学から,工学,さらには心理学などの人文科学等の知識も必要となってきた。ライフサイエンスは,種々の生物が営む生命現象の複雑かつ精緻なメカニズムを解明し,その研究成果を保健医療,環境保全,農林水産業,化学工業等における,人間生活に係る諸問題の解決に役立てようとする科学技術分野である。このライフサイエンスは,1960年代の後半から我が国において注目を浴びるようになり,1971年の科学技術会議の第5号答申において政策目標達成のために重点を置いて推進すべき科学技術分野の一つにあげられ,以後,科学技術会議の答申,意見に沿ってその推進が図られてきている。

また,この時期に米国等において大きく進展した遺伝子組換え技術の研究開発に関しては,1979年,文部省告示により「大学等における組換えDNA実験指針」,内閣総理大臣決定により「組換えDNA実験指針」が定められ,組換えDNA研究の推進が図られている。

(時代の進展への対応)

領海や経済水域の範囲の拡大,深海底資源の開発等,海洋開発に対する関心が高まるなかで,1971年には,海洋開発に関する基本的かつ総合的事項について調査審議するため,海洋開発審議会が設置された。

また,同年に,海洋の開発に係る科学技術の向上を図ることを目的とする海洋科学技術センターが発足した。同センターは,その後,シートピア計画の実施,有人潜水調査船「しんかい2000」,「しんかい6500」等の開発を行い現在に至っている。

1976年には,東海地域における大地震発生の可能性についての論議を契機として,地震予知の推進に関する重要な施策を関係省庁の緊密な連携の下に更に強力に推進するため,内閣に地震予知推進本部が設置された。

この時期の大学等の特徴的な動きをみると,1971年,特定の大学に附置されない独立した研究機関として国立大学共同利用機関(1989年に大学共同利用機関に改称)が設けられ,その最初のものである高エネルギー物理学研究所が筑波研究学園都市に設置された。さらに,1973年,新構想大学として筑波大学が設置された。


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