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第1部   戦後50年の科学技術
第2章  科学技術への取り組みの視点の変遷
第2節  1960年代:経済成長と社会経済基盤拡充のための科学技術


1961年度からの10年間で国民経済の規模を実質価値で倍増しようとする所得倍増計画が1960年に閣議決定され,この計画に呼応し,理工系人材の増強がなされた。また,1960年代には海外からの活発な技術導入とこれを踏まえた技術革新が行われるとともに,貿易,資本の自由化に備え,自主技術開発の重要性が増大した。この時期,原子力,宇宙開発において大型プロジェクトの推進が決定され,そのための体制の整備も進められた。他方,急速な経済活動の拡大につれて,公害,都市の過密化などのいわゆる高度経済成長のひずみといわれる諸問題が顕在化した時期でもあり,東京の過密化への対応として,筑波研究学園都市の建設が決定された。

所得倍増計画決定後の我が国経済は,計画をはるかに上回るめざましい発展を遂げ,1968年には国民総生産が自由世界で米国に次いで第2位となり,1970年には1960年代の我が国の高度成長を背景として日本万国博覧会が大阪にて開催されている。

(所得倍増計画と理工系人材の増強)

1960年12月,政府は1961年度からの10年間で国民経済の規模を実質価値で倍増しようとする国民所得倍増計画を閣議決定した。科学技術会議は,この「所得倍増計画」に対応して,同年,「10年後を目標とする科学技術振興の総合的基本方策について」を第1号答申として出したが,この中では,高度成長の1960年代を目指して,理工系人材の大幅増強,研究開発活動の大幅強化により欧米先進国に追い付くことを基本とした方向が示された。

科学技術会議の第1号答申では,科学技術者,技能者の資質の向上と量的確保の重要性が指摘されているが,量的確保に関しては,1960年から1970年の10年間に理工系科学技術者が17万人,工業高校卒の技能者が44万人不足すると指摘された。これに対応し,高度経済成長に必要な科学技術系人材を確保すべく,文部省において理工系学生増員計画が立案され,1961年度から1963年度で2万人,さらに1965年度までに1万人の増員が行われ,また,工業高校卒の技能者についても,1960年度から1965年度に8万5千人が増員され,その後の我が国の経済成長を支える基盤となった。

このように,経済を成長させ,国民の所得を拡大させていくことが,人々の幸せの途であると考えられ,科学技術も所得拡大の手段としての発展に力が入れられた。また,所得の拡大と技術進歩による価格の低下等が相まって,この時期に白黒テレビ,電気冷蔵庫,電気洗濯機等の耐久消費財が広く家庭に普及していった (第1-2-6図)。

第1-2-6図 耐久消費財の普及率の推移

(自主技術開発の促進)

1960年以来,我が国は,貿易の自由化を漸次進め,1963年には国際収支を理由とする貿易制限を行わないGATT11条国へ移行,1964年には国際収支の悪化を理由とする経常取引の制限を行わないIMF 8条国へ移行,さらに,OECDに加盟,1967年には資本取引が大幅に自由化されるなど,我が国が世界経済と直接結び付くに至り,いわゆる開放経済体制を整備することが必要となった。このような時代に対応し,国際競争力の強化が大きな関心事項をなってきた。

このような時代背景のもとに,自主技術開発を求める気運は一層の高まりをみせ,欧米との技術格差を解消し,外国からの借り物でない自前の技術を持つことが求められ始めた。

このような背景から,大学や国公立試験研究機関等の試験研究の成果の調査・収集を行い,優れた研究成果を発掘し,このうち企業化が著しく困難なものについては企業等に開発を委託し,また,開発リスクが比較的少なく,企業独自で開発を進めることが可能なものについては,開発あっせん等の業務を行う新技術開発事業団(現新技術事業団)が1961年に設立された。

また,同年,鉱工業の生産技術に関し,共同研究体制によって試験研究を行うことを目的とした法人格を有する組織を制度として確立し,産業界の共同研究を推進するため鉱工業技術研究組合法が制定された。

この時期,科学技術開発は巨大化・高度化・総合化傾向を強め,長期の研究開発計画に基づいて多数の専門分野を組織化し,大量の資金を投入する大型研究開発が活発に行われるようになったが,なかでも,1966年には我が国工業技術の向上を目的として,大型工業技術研究開発制度が発足した。同制度は,「MHD発電」,「超高性能電子計算機」,「脱硫技術」の3テーマでスタートし,国民経済上重要かつ緊急に必要とされる工業技術の大型研究開発プロジェクトに取り組み,本制度が終了する1993年度までに31のテーマを実施し,高度な先端技術の開発等を行い,産業の高度化,産業公害の防止等に寄与した。また,1968年には重要技術研究開発補助金制度が発足した。

自主技術開発を指向する民間企業により積極的な研究開発がなされたが,政府は,より一層の研究開発投資の増加を図るため,国の研究開発費の増額を図るとともに,民間企業の研究開発を振興すべく,まず,税制面の施策として1967年に増加試験研究費税額控除制度を創設,また,金融面の助成策として1968年には,日本開発銀行の国産技術振興資金融資制度を,「新技術企業化」融資(1951年創設),「重機械の開発」融資(1964年創設)を含めた制度としで発足させた。

(大型プロジェクトの推進)

一方,1950年代半ばに緒についた原子力開発,宇宙開発などのいわゆる巨大科学技術は,1960年代後半に入って本格化し,自主技術開発を目指したナショナルプロジェクトに官民あげて取り組んでいくこととなった。

-宇宙開発-

既に1950年代に人工衛星の打上げに成功しているソ連(1957年成功)及び米国(1958年成功)をはじめとする世界の宇宙科学技術の進歩に,我が国がはなはだしく遅れをとり,その将来に悔いを残すおそれがあるとの認識のもとに,1960年,総理府に宇宙開発審議会が設置された。その後,同審議会の答申を受け,宇宙開発に関する重要な政策等に関して企画,審議,決定する宇宙開発委員会が1968年に設置された。

科学研究の分野では,1964年に東京大学に宇宙航空研究所が設置され,ロケットや人工衛星の開発が進められ,1970年の我が国初の人工衛星「おおすみ」の打上げに至る。また,実利用の分野では,1964年発足した宇宙開発推進本部の事業等を継承し,1969年には宇宙開発事業団が設置され,人工衛星とその打上げ用ロケットの開発が本格的に進められることとなった。その後,宇宙航空研究所(1981年に宇宙科学研究所に改組)により科学衛星及びその打上げのためのロケットの開発が,宇宙開発事業団により実利用のための衛星及びその打上げロケットの開発が行われ,1994年には全段国産技術による大型ロケットH-II型の第1号機の打上げが行われた。

-原子力-

原子力の分野をみると,1966年に原子力委員会において,高速増殖炉と新型転換炉を自主開発することが決定され,1967年にはその実施母体として,動力炉・核燃料開発事業団が設立された。その後,新型転換炉原型炉「ふげん」は1978年に臨界に,高速増殖炉に関しては,実験炉「常陽」が1977年に,原型炉「もんじゅ」は1994年にそれぞれ臨界に達している。

また,1963年には日本原子力船開発事業団が設立され,原子力船「むつ」が開発された。その後,原子力船「むつ」は,1974年に試験中に放射線漏れを起こしたが,その後改修され,1991年2月より1年間実験航海を行い,所期の目的を達成している。

なお,その間に,原子力の行政体制が見直され,1978年に原子力安全委員会が設置されるなど,新しい原子力安全規制体制が整備された。

(生産設備等の巨大化)

所得倍増計画に象徴されるこの時代には,科学技術を駆使した生産設備等の巨大化が進んだ。

この時期の生産装置は,いよいよ巨大化し,国際競争力が著しく強化され,我が国の工業製品は世界市場において大きな地位を占めるようになり,経済の国際化が進んだ。また,このような生産活動の巨大化によって海外原料への依存度が増大し,量産製品の販売・輸出の便利さなどから鉄鋼,造船,化学,石油精製などの工業は,太平洋ベルト地帯に集中し,多くの新興工業都市が誕生した。

なかでも,鉄鋼業の進展が著しく,LD転炉を初めとする最新の技術装備により,我が国の鉄鋼技術は世界的なレベルにまで達した。超大型の高炉・LD転炉の建設,コンピュータ制御の採用と水島,堺,君津,福山,鹿島,大分などの大規模新鋭製鉄所の稼働が,基幹産業における生産装置の巨大化の例として挙げられる。

造船部門では,超大型化・高速化,電力部門では,火力発電設備の大容量化が進んだ。自動車工業に関しては,乗用車専用工場の新設と生産規模の急速な拡大をみた。また,1960年代後半は,日本の自動車技術が急速な進展をみせた時代であり,これを軸に道路整備,建築,橋,鋼材等が大きな需要増を示し,日本経済の驚異的な高度成長につながった。さらに,工業部門以外でも巨大化傾向は著しく,その例としては,1964年東京オリンピックの直前に営業を開始した東海道新幹線の建設があげられる。さらに,交通部門では,自動車専用道路の建設,ジャンボ・ジェット機,エアバスなどの大量輸送機の登場,通信部門では電話機の普及とダイアル自動化の進展,建設部門では,新幹線富士川鉄橋,関門橋などの長大橋りょう及び新幹線六甲トンネル,中央高速道恵那山トンネルなどの長大トンネルの建設,超高層ビルの建設などをあげることができる。

(高度成長のひずみの是正)

他方,経済の急速な成長に伴い,各種の公害や自然環境の破壊,人口の都市集中による過疎・過密問題,交通事故,産業公害などの人為災害の多様化,大規模化,更に食品添加物,医薬品,農薬,その他各種化学物質などによる国民の健康や自然環境への悪影響など,いわゆる高度成長のひずみといわれる諸問題が顕在化し,重大な社会問題となってきた。このような動きに対応して,1967年の公害対策基本法の制定,1969年の公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法の制定など,多面的な対策が講じられてきたが,科学技術面では,環境科学技術の重要性が認識され,公害等の発生に対応し,その原因究明及び対策のための研究が積極的に行われた。

また,ソフトサイエンス,ライフサイエンスの振興が関心を呼ぶとともに,科学技術の適用に当たっては事前にその影響を評価すること(テクノロジー・アセスメント)の重要性が認識された。

-筑波研究学園都市-

東京の過密化がこの時期に大きな問題となったが,科学技術会議では,既存の国立試験研究機関の研究設備等の老朽化が目立つようになってきたことも踏まえ,1962年には「国立試験研究機関を刷新充実するための方策について」を答申し,東京に立地している国立試験研究機関の集中的な移転を提言した。これが筑波研究学園都市建設の主要なきっかけとなり,1963年9月,筑波地区に国際的水準の研究学園都市を建設することが閣議了解された。その後の用地買収等を経て,初めての研究施設である国立防災科学技術センター(現防災科学技術研究所)の大型耐震実験施設の建設が1968年に開始された。その後,1972年に最初の移転機関である無機材質研究所が東京がら移転するなどを経て,1979年度に同学園都市が概成した。


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