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第1部   戦後50年の科学技術
第2章  科学技術への取り組みの視点の変遷
第1節  終戦から1950年代:生きることの確保から,経済の復興・自立のための科学技術


戦後当初は生きることの確保の観点から食糧増産,保健・衛生の確保が重視された。また,経済の復興・自立が重視され,このための科学技術振興の重要性が認識されるとともに,戦争による海外との交流の途絶により欧米から大きく立ち遅れた我が国の科学技術水準を国際的レベルに引き上げるため,活発な技術導入がなされた。我が国の経済の復興が進むとともに,技術革新が進んだ。また,占領下に日本学術会議の発足等学術体制の刷新がなされるとともに,1950年代には,自主技術開発の重要性が認識されはじめ,科学技術庁,科学技術会議の設置等の行政体制を含む科学技術推進体制が整備された。

(食糧の増産)

戦災で焦土と化した我が国は,海外からの復員者,引揚者が加わり,国民の多くが衣食住にさえ困窮する状況にあった。さらに,冷害,水害,肥料不足や戦後の混乱から食糧は量的に不足し,国民の栄養状況は戦前と比較しても極めて厳しいものであった (第1-2-1図)。

第1-2-1図 国民一人当たりの供給エネルギー

このような状況において,我が国の農業の目標は食糧増産であり,耕地の拡大を図るとともに,単位耕地面積当たりの収量の拡大が急務とされた。このため,品質よりも収量本位の品種の育成・普及が急務とされた。耐冷性,多収性などに優れた品種の開発と並んで,肥料,農薬,プラスチックなどの生産資材を利用した栽培技術の進歩などによって稲作技術がめざましい進歩をみた。米の収量は,1945年には582万トンであったものが,1955年には,気候条件に恵まれたこともあって,1,239万トンの大豊作を達成し,その後も同水準の生産を続け,米不足は次第に緩和された。

このような時代背景の下,1956年には農林省(現農林水産省)に農林水産技術会議が設置され,農林水産業分野における科学技術行政の体制が整備された。

また,我が国の機械工業,化学工業をはじめとする製造業の発展が,農業機械,化学肥料,農薬などの農業生産資材の開発・供給を可能とし,動力耕うん機,動力防除機などの普及,ヘリコプターによる農薬の空中散布の実用化,除草剤や化学肥料などの利用が進展した。これらにより農業の生産性が向上するとともに,農家に余剰労働力を生じ,これが第2次産業に流出することにより,1960年代の高度成長を支える一因となっていくこととなる。

(保健・医療)

海外からの復員,引揚げに伴って発疹チフス,痘そう,コレラなどの伝染病が爆発的に流行し,さらに,腸チフスやパラチフス,ジフテリアなども流行し,また,赤痢の全国的な蔓延をもみるまでになり,国民の保健・健康状況は極度に悪化していた。

このような伝染病の流行に対し,壊滅状況にあった我が国の医薬品工業はワクチン等医薬品の製造を満足に行える状況にはなく,連合軍総司令部(GHQ)のワクチン援助が戦後初期において大きな成果をもたらした。この間ワクチンやDDTの国内生産が始まり,また,1947年には国立予防衛生研究所が設立されるなど,保健・衛生面の体制整備が進んだ。また,伝染病を媒介するしらみ等の駆除にDDTが顕著な効果を挙げた。

このような努力により,発疹チフス,痘そう,コレラなどの伝染病は1950年代に入ったころにほとんど終息していった (第1-2-2図)。 また,国民の死因に戦前から大きな割合を占めていた結核,肺炎・気管支炎による死亡率が,生活水準,公衆衛生の向上に加えて,ペニシリン,ストレプトマイシン,オーレオマイシンなどの抗生物質,パス,イソニアジドなどの化学療法剤などの新医薬品の登場により,低下した (第1-2-3図) 。これらに加え,医療技術の進歩,医療施設の整備,公衆衛生対策の普及などによって死亡率が著しく低下し,平均寿命は,1947年には男50.06歳,女53.96歳であったものが,1955年には男63.60歳,女67.75歳に,1960年には男65.32歳,女70.19歳に伸びた。

第1-2-2図 戦前及び終戦直後の主な伝染病の推移

第1-2-3図 主要死因別死亡率の変遷

(資源の確保)

天然資源に乏しい我が国が自立的発展を図るためには,外貨事情の極めて厳しい状況において,できるだけ輸入を節減し,資源を有効に利用することが不可欠と考えられた。このような認識を踏まえ,1947年12月に資源委員会(1949年に資源調査会と改称)が経済安定本部の付属機関として発足した。資源調査会は,資源に関する幅広い問題について調査を行った。なかでも,石炭を有効に利用し,かつ,鉄道輸送コストの引き下げによる経営合理化を図るために,我が国の鉄道を早期に電化すべきとの1949年の同調査会の勧告は,その後の我が国の鉄道の急速な電化につながっていくこととなる。同調査会は,その後,食品標準成分表の作成,生鮮食料品の流通に関するコールド・チェーンの提言等,それぞれの時代に対応した活動を行ってきた。

(経済の復興・自立)

-傾斜生産方式-

終戦直後の混乱の中から,我が国経済の自立の基盤を確立することが緊急の課題とされ,傾斜生産方式の採用が1946年末に閣議決定された。この方式は,原材料,外貨等の限られた資源を,石炭,鉄鋼産業に重点的に配分し,この両部門の拡大によって,他の部門の生産増強へとつなげていこうとするものであった。

さらに,終戦により軍需がなくなり,特に,機械工業では,耐久消費財の生産に向かわざるを得なくなっており,政府は1947年に価格差補給金制度を創設し,国際競争力のない企業の援助を行った。しかし,1949年には緊縮財政を目指したドッジラインにより,この制度が撤廃され,その後我が国企業は,経営合理化の道を歩まざるを得なくなった。また,この時期に1ドル360円の単一為替レートが設定された。

-欧米からの立ち遅れ-

戦前の我が国の科学技術は,軽工業や一部の軍需関連産業を中心に,ほぼ欧米の水準にまで達していたといわれていたが,戦争によって外国技術と遮断されるとともに,目立った進歩はみられなくなり,終戦時の我が国の科学技術水準は欧米先進国から大きな立ち遅れを示すこととなった (第1-2-4表)

このような時代背景の下,1948年には,工業及び鉱業の科学技術に関する試験研究を強力かつ総合的に遂行し,生産技術の向上とその成果の普及を図ることを目的として工業技術庁(1952年に工業技術院に改称)が設置された。

第1-2-4表 戦後直後における世界と日本の主な技術格差



また,欧米先進国の科学技術の積極的導入により,立ち遅れた我が国の科学技術水準を早く国際的レベルに引き上げようと努めた。しかし,当時は外貨事情が悪く,技術導入の対価の安定した外国送金は極めて難しい状況にあった。このような状況において,外国為替及び外国貿易管理法(1949年)及び外資に関する法律(1950年)が制定されたが,これらは,特定の技術に関する対価の外貨送金を保証し,その後の技術導入を中核とする産業分野の技術革新達成の重要な条件整備の一つとなった。

外貨獲得の観点から,輸出振興が大きな課題であり,そのためには我が国の製品の品質の向上が大きな課題であった。このような状況のなかで,1949年には工業標準化法によるJIS表示制度が発足し,また,社団法人日本規格協会,財団法人日本科学技術連盟による品質管理講習が開始された。さらに,日本科学技術連盟は,1950年に米国からデミング博士を招き,品質管理講習会を開催,翌年からはデミング賞を設けるなど,我が国の品質管理の向上に向けた努力が本格化した。

-企業合理化-

1950年に朝鮮戦争が勃発したが,これによる需要が我が国にもたらされ,これを契機に我が国の産業は,その設備の近代化を急速に進め,技術導入を活発に行い,1950年代後半の発展の段階に移ることになる。

設備の近代化等についてみると,鉄鋼部門での,連続式ストリップミルの導入,酸素製鋼設備の設置,平炉の大型化,石炭部門では機械化採炭の本格化,斜坑方式から立坑方式への転換,電力部門では佐久間ダムなどの大規模水力開発の着工,新鋭火力発電所の建設,造船部門では,ブロック工法・電気溶接法の大幅採用,化学工業部門では,高分子化学工業の出現,ペニシリン,DDT,BHCなどの新しい医薬・農薬の出現,繊維工業部門では,ナイロン,ビニロンの生産開始などをその例としてあげることができる。この結果,1946年に戦前水準のわずか5分の1まで低下した鉱工業生産水準は,1950年には,はやくも戦前の最高水準を越えるに至った。

企業の技術開発等を支援する制度としては,1950年には,鉱工業技術に関する民間の試験研究の助成を目的とした鉱工業技術試験研究費補助金制度が発足した。また,税制面での支援策としては,試験研究設備及び新技術の企業化設備等に対する課税の特例が認められることとなり,さらに,金融面の助成策として1951年に日本開発銀行の「新技術工業化」融資が創設された。

―経済の自立と科学技術―

経済が復興するにつれて,科学技術の重要性が一層認識されるようになった。1953年に経済審議会により「経済自立に関する意見書」がとりまとめられ,ここで経済自立のための目標として,1) 正常貿易の確立,特に輸出の振興,2) 国内資源の開発による自給度の向上,3) 蓄積による経済力の充実の3目標が掲げられ,さらに,この目標実現のための4原則の一つとして科学技術の振興が掲げられた。ここでは,輸出商品の国際競争力を強化し,また国内資源の合理的開発を図るには,科学技術の振興が必要で,これは同時に新産業の育成,雇用機会の造出にも役立つとの認識が示されている。

―技術革新―

戦後10年を経て復興を完了した日本経済は,本格的な技術革新の時代を迎え,科学技術が経済の発展及び国民生活の向上の原動力となった。

技術革新の中心は重化学工業であったが,技術の総合化・大規模化によって,技術革新の進展が個々の産業内にとどまらず,他の産業との関連性を拡大し,相互に近代化投資を呼びあって,産業全般において網羅的に新技術の導入と膨大な設備投資が行われた。この結果,我が国の産業はその相ぼうをほぼ一変し,急速に重化学工業化が進行するとともに,技術水準も欧米諸国の水準に大きく接近した。

一方,旺盛な技術導入と大規模な設備投資による技術革新の進行は,企業の経営革新の必要性をも増大させ,日本生産性本部(1955年設立)を中心として,欧米の経営管理技術の体系的導入が始められた。

1955年を起点とする国際的な高度経済成長の波の中で,我が国も神武景気をむかえ,活発な耐久消費財の需要増に引っ張られて,これらの業種のみならずほかの産業までも好況を続け,大きな発展を遂げた。

主要工業部門について主な動きを示すと,鉄鋼部門での高炉の大型化,純酸素上吹き転炉(LD転炉)の採用,圧延工程の大型化・連続化・自動化,一貫製鉄所の建設,電力部門では田子倉,黒部第4,奥只見,御母衣などの大型水力開発の着工,大容量火力発電機の導入,化学工業部門ではポリスチレン・ポリエチレン量産開始,石油化学コンビナートの出現,合成繊維部門ではナイロン・ビニロンの生産の本格化とアクリル・ポリエステル系合成繊維の企業化,機械工業部門ではミシン,カメラ,時計,双眼鏡などの軽機械の輸出の増大,電気がま,電気洗濯機,扇風機,テレビ,電気冷蔵庫などの家庭電化製品の量産体制の確立と普及などがあげられる。

特に,造船,カメラ等で技術水準の大幅な向上がみられ,造船でほ1956年に進水量が世界のトップになるまでに至っている。また,トランジスタの民生利用が積極的に取り組まれ,1955年にはトランジスタラジオが開発された。洗濯機,冷蔵庫,テレビ等の家庭電化製品の需要が続々と開拓されていった。さらにオートバイの生産技術でも,この時期に,相当の技術水準に達しており,ナイロンについても,この時期から急速な需要の拡大がみられ,1964年には合成繊維の輸出量で日本が世界一になるまでに至っている。

機械工業及び電子工業の振興に関しては,1950年代後半において,機械工業振興臨時措置法(1956年)及び電子工業振興臨時措置法(1957年)が時限立法として制定された。さらに,1960年代の延長等を経て,特定電子工業及び特定機械工業振興臨時措置法(1971年)の制定により,これらの産業のその後の合理化,技術水準の向上等に役割を果たしていく。

また,自主技術開発を求める気運は1950年代の後期に高まりをみせ,欧米との技術格差を解消し,外国からの借り物でない自前の技術を持つことが求められ始めたが,この頃の問題意識は1958年の科学技術白書の副題「外国依存から自主発展へ」からもうかがうことができる。

民間企業でも技術革新に対する重要性が認識され,民間企業による中央研究所の設立ブームにつながり,1960年代初期にピークを迎えた。

(戦時体制の解体と日本学術会議,科学技術行政協議会の設置等)

-戦時体制の解体と研究の制限等-

終戦直後に,GHQにより,戦時中における技術動員の中核機関であった内閣技術院が解体され,航空機,レーダー,放射性同位元素の分離の研究などが禁止され,サイクロトロンも破壊され,原子力に関する研究も禁止された。この時期,科学技術者はその活動等についてGHQに報告する義務を課せられた。また,戦前,関係各社の株式を所有し,その配当を研究資金として活動してきた財団法人理化学研究所(1917年設立)は,GHQの財閥解体,持株会社の禁止の方針により,1948年に解散し,その後,株式会社科学研究所として存続が図られた。なお,研究の制限はサンフランシスコ講和条約発効により我が国が独立を回復した1952年に撤廃された。

-学術体制の刷新等-我が国が占領下のこの時期は,戦後の我が国の科学技術活動推進のための新たな体制の整備が行われた時代であった。まず,1947年に,学術体制の刷新を推進する目的で内閣総理大臣の諮問機関として学術体制刷新委員会が設置された。その答申に基づいて,科学者の総意の下に我が国の平和的復興,人類全体の福祉に貢献し,世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを目的とした日本学術会議が1949年に発足した。日本学術会議は人文科学及び自然科学にまたがる7部門から構成され,科学者の選挙により選ばれる会員約210名から構成された。

また,日本学術会議と緊密に協力して,科学技術を行政に反映させるための方策や各行政機関相互の科学技術に関する行政の連絡調整に必要な措置を審議することを目的とした科学技術行政協議会が,1949年総理府に設置された。同協議会は会長に内閣総理大臣,副会長に国務大臣をあて,日本学術会議の推薦による学識経験者及び各省庁の事務次官により組織された。

さらに,国家的な学術研究振興機関として1932年に設立された日本学術振興会は,学術奨励団体として存続することとされた。その後,1967年特殊法人となり,学術振興事業の中核的実施機関となった。

また,1947年に教育基本法及び学校教育法が制定され,さらに,1949年には国立学校設置法が公布され,旧制大学のほか,多数の大学が新制大学として設立された。

戦争により途絶えた海外との科学技術分野における交流をいかに早急に回復していくかが戦後の大きな課題であった。この海外との交流をみると,1948年には,戦後初めてごく少数であるが我が国の科学技術関係者の海外渡航が実現した。さらに,外貨事情が厳しい中で,1950年には科学技術関係者の海外渡航費が政府予算に計上され,自主的渡航が再開されるに至った。さらに,1951年にはフルブライト制度が発足,これにより我が国から多数の人材が米国に留学し,これらの人材がその後我が国の経済及び科学技術の発展に大きな役割を果たした。

占領下における我が国の研究は,研究費の不足,研究設備の不備,研究者の質,量両面における不足から,全般的に低調であり,特に,民間企業においてこの傾向が著しかった。

なお,戦後の混乱期でありながら,1949年にノーベル物理学賞を日本人として初めて湯川秀樹京都大学教授が受賞した。これは1934年に発表された同教授の研究が認められたものであり,戦前から地道に続けられてきた我が国の基礎研究が,ようやく世界的にも認知されるようになってきたことがうかがえる。

(科学技術推進体制の整備)

1950年代は,経済の自立のための科学技術の役割が重視され,技術導入に過度に依存したそれまでの状態の中で,自主技術開発の重要性が認識されだした時代である。この時期に,行政組織を含む科学技術推進体制の整備が本格的に進められた。

-原子力及び航空技術-講和条約が1952年に発効したころから,科学技術に関する大きな動きが出てきた。

1953年,米国のアイゼンハワー大統領により国連総会において原子力平和利用(アトムズ・フォー・ピース)演説が行われ,我が国において原子力の平和利用に対する関心が次第に高まってきた。1954年には,我が国最初の原子力予算が,国会における修正案として提出され成立した。また,同時期に,米国の水爆実験による放射性降下物によって我が国のマグロ漁船が被害を被り,一般の原子力に対する関心は急速に高まった。1955年には,ジュネーブで開催された第1回原子力平和利用国際会議に我が国も参加,この会議を一つのきっかけとして原子力の研究開発体制整備の必要性に対する認識が高まり,原子力基本法,原子力委員会設置法等が制定された。翌1956年には,原子力の研究,開発及び利用に関する政策等に関して企画,審議,決定する原子力委員会が発足するとともに,原子燃料公社 日本原子力研究所が発足した。翌1957年にはJRR-1(研究用第1号原子炉)が臨界を達成し,我が国に初めて原子の火がともり,放射線医学総合研究所が発足,さらに,1963年にはJPDR(動力試験炉)が我が国初の発電に成功している。

また,占領中禁止されていた航空機の生産・研究に関しても,講和条約発効から動きが活発化し,1954年に総理府に航空技術審議会が設置され,その答申に基づいて1955年には航空技術研究所(現航空宇宙技術研究所)が発足し,研究体制が整備された。また,1958年には航空機工業振興法が制定され,1962年の国産の旅客機YS-11の初飛行へとつながっていく。

-科学技術行政組織の整備-

講和条約発効のころから,科学技術行政の総合的推進官庁を設置すべきであるとの意見が各界から高まってきた。

1954年には,審議未了で廃案になったものの,議員立法による科学技術庁設置法案が国会に提出された。また,経済団体連合会から科学技術に関する総合的行政機関の設置が要望された。これら一連の動きの結果,1956年には,科学技術の振興を図り,国民経済の発展に寄与するため,科学技術に関する行政を総合的に推進する科学技術庁が設置された。科学技術庁は総理府の内部部局であった原子力局,総理府の付属機関であった科学技術行政協議会の事務局,資源調査会の事務局を中心として発足した。また,航空技術研究所が付属研究所となり,また,金属材料技術研究所も同庁発足後設置をみた。

1957年には,我が国における科学技術情報に関する中枢的機関として内外の科学技術情報を迅速かつ適確に提供することにより,我が国における科学技術振興に寄与することを目的とした,日本科学技術情報センターが設立された。また,欧米諸国のコンサルティング・エンジニアと類似の制度を我が国に設け,その育成を図ることを目的として,技術士法が制定され,技術士制度が発足した。

また,財団法人理化学研究所を継承した株式会社科学研究所は,財政的に困難な状況が続いていたが,1958年に,科学技術に関する試験研究を総合的に行い,及びその成果を普及することを目的とする特殊法人理化学研究所として再発足した。

-科学技術会議の発足-

1959年には,政府の科学技術政策を総合的に推進するため,科学技術会議が設置された。科学技術会議は,内閣総理大臣を議長とし,関係閣僚,有識者で構成され,科学技術一般に関する基本的かつ総合的な政策の樹立に関すること,科学技術に関する長期的かつ総合的な研究目標の設定に関すること,この研究目標を達成するために必要な研究で特に重要なものの推進方策の基本の策定に関すること等について審議し,内閣総理大臣に答申し,あるいは,必要に応じて意見を申し出ることを主たる任務としている。以後,科学技術会議は我が国の科学技術政策において重要な役割を果たしていくこととなる (第1-2-5表)。

第1-2-5表 科学技術会議の基本政策の流れ

このように,1950年代には,科学技術行政体制の整備が積極的に進められた。

(大学等の動き)

1950年代の大学等に関連した特徴的な動きをみると,1951年には国際連合教育科学文化機構(ユネスコ)への我が国の加入が承認された。

1953年には,国立大学附置研究所で全国の国公私立大学等の研究者の共同利用のためのものとして初めて東京大学に宇宙線観測所,京都大学に基礎物理学研究所が設置された。1956年には国際学術連合主催の国際地球観測年(1957年7月から1958年末まで)事業に参加するため,観測船「宗谷」が東京を出発,翌1957年に南極の東オングル島に昭和基地を設営し,南極観測を行った。また,1955年に初テストに成功した東京大学生産技術研究所のペンシルロケットに始まった我が国のロケット研究は,上述の国際地球観測年に,上層大気の観測手段として成果をあげ,その後の我が国の宇宙開発への本格的な取り組みにつながっていく。


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