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第1部   時代を拓く科学技術
第1章  戦後から現在までの科学技術発展の軌跡
第2節  1960年代
3.  科学技術振興策の進展


これまでみたように我が国の経済成長を支えた技術革新は1960年代には主として民間企業を中心に行われたが,政府は長期的観点から我が国の科学技術の画期的な進歩を図るべく,1959年(昭和34年)に内閣総理大臣の諮問機関として科学技術会議を設置し,同会議に対し「10年後に目標を置いた科学技術振興のための総合的基本方策」の諮問を行った。翌1960年に同会議から答申を受け,政府はこれに沿って,1960年代に研究活動の拡充整備,人材養成等各種の施策を実施するとともに,さらに原子力開発,宇宙開発など我が国にとって重要な研究開発ではあるが,市場機構の下では民間で行うことが困難ないわゆる巨大科学技術などの研究開発を推進した。


(1) 研究活動の拡充整備

科学技術会議は上記答申において,研究活動の拡充整備を行うために,我が国全体の研究投資の増額を図ることとし,その目標を国民所得の2%(その後1966年(昭和41年)の意見で2.5%に引き上げられた。)とした。1950年代には欧米各国では研究投資はすでに国民所得に対して2〜3%を占めるに至っていたが,我が国においては1%にも達しておらず,その絶対額においてもはるかに先進諸国に及ばない状況にあったため,研究投資の増加が必要とされていた。このため政府は国の研究開発費の増額を図るとともに,民間企業の研究開発を振興すべく税制面,金融面をはじめとし種々の施策を講じた。

まず税制面では1967年度(昭和42年度)に増加試験研究費の税額控除制度が創設された。この制度は民間企業等において試験研究費が一定の条件で増加した場合は,増加部分の一定割合を税額から控除するというものであったが,これにより民間企業等における自由な創意工夫に基づく研究活動の展開が一層促進され,これによる減税想定額も1979年度(昭和54年度)には210億円となっている。

このほか,税制面では技術移転及び我が国技術開発の促進並びに対外取引の多角化を図るための技術等海外取引に係る所得の特別控除制度が1959年度(昭和34年度)に,教育又は科学技術振興のために試験研究法人等に対する寄付金の損金算入制度が1961年度(昭和36年度)に新設された。

さらに金融面の助成策としては,技術的,経済的にリスクを伴う新技術の企業化,商品化に必要な資金を低利,長期の条件で供給し,新技術の開発を促進し,国産技術の振興を図ることを目的とした日本開発銀行の技術振興融資制度が1968年度(昭和43年度)に創設され,1979年度(昭和54年度)には融資枠は1,090億円となった。

以上のような施策と,当時の高度経済成長によって我が国の研究投資は1960年代に大きく伸び,総額では1969年(昭和44年)には1960年(昭和35年)の約5倍に,対国民所得比も1.9%にまで増大した。またこの当時民間企業においては,経済成長による資金的な余裕と技術革新時代の到来による組織的な研究活動の必要性等から,近代設備を誇る中央研究所が多数設立された。

このほか,1960年代に始められた主な科学技術振興施策には次のようなものがあった。

当時民間企業において行われた技術革新の大部分は,外国から導入した技術をもとにしたものが多く,国産技術をもとにしたものは少なかった。この注)ため国産技術の開発を強力に推進することを目的とし,新技術の委託開発,新技術の開発成果の普及活用及び新技術の開発あっせんの業務を行う新技術開発事業団が1961年(昭和36年)に設立された。同事業団は設立以来1979年までに委託開発については「地熱発電用蒸気の生産技術」など120件の開発に成功し,また,開発あっせんについては152社に対し121件のあっせんを行った。

また1961年(昭和36年)には鉱工業の生産技術向上を図るために鉱工業技術研究組合法が制定され,これに基づき各種の研究組合が設立され,民間企業等が資金や研究者等を集中し,協同して試験研究を実施できることとなった。

さらに1966年(昭和41年)には,通商産業省工業技術院に大型工業技術開発制度(大型プロジェクト)が発足し,多額の資金と長期の研究開発期間を要する大型工業技術の研究開発が国及び民間の協力のもとに推進され,1979年度(昭和54年度)までに超高性能電子計算機等のプロジェクトが実施された。

注)国民経済上重要な科学技術に関する試験研究の成果であって企業化されていないもの。

このほか,科学技術振興に関する諸事業を総合的に推進する目的をもって,1960年(昭和35年)に科学技術振興財団が設立されたが,同財団は,設立以来科学技術振興に関する民間の中枢的機関として,科学技術に関する普及啓発事業をはじめ各種事業を実施している。

以上のように民間企業の研究開発に対し各種の振興施策が講じられ,それぞれ成果をあげつつあったが,国の研究開発に対する社会的要請も高まりつつあったことから,政府は国の研究機関の刷新充実方策を科学技術会議に諮問した。1962年(昭和37年)科学技術会議は「国立試験研究機関を刷新充実するための方策について」を答申したが,この答申では,国立試験研究機関の刷新充実をはかるために,国立試験研究機関の性格を明確化し,重点化すべき業務の分野を定め,人材の確保を図り,さらに,立地条件及び施設設備の改善を図ることなどが提案された。これらのうち国立試験研究機関の立地条件及び施設設備の改善に関しては,試験研究を効果的に推進するため,過大都市をはなれた地域に国立試験研究機関を集中的に移転させる必要があることが提案された。

この国立試験研究機関の集中移転は,当時の東京及び大都市の分散計画等ともあいまって茨城県の筑波に研究学園都市を建設することとなり,移転計画の作成,用地買収等の後,1968年(昭和43年)から移転機関の建設第1号として科学技術庁国立防災科学技術センターの大型耐震実験施設の建設が筑波研究学園都市の北部において開始された。

その後,国関係の研究教育機関等の新設,移転が進むとともに,民間の研究機関等も加わり,筑波研究学園都市は高水準の研究及び教育を行うための拠点として1979年度(昭和54年度)末をもって施設が概成し,約11,000名の研究関係者が集中することとなった。


(2) 科学技術者の養成

前述のように,1960年代は技術革新による民間企業の設備投資が活発に行われ,高度経済成長が達成された時代であったが,このように経済規模が拡大するに伴い技術革新を支える科学技術者が大量に不足することが予想され始めていた。科学技術会議は1960年(昭和35年)の答申「10年後を目標とする科学技術振興の総合的基本方策について」において,今後10年間に理工系の科学技術者が約17万人不足することが見込まれるので,1961年以降,逐年大学における理工系学生定員の増加を行い,これに対処する必要があると答申した。

これらの要請に基づき文部省は,従来の科学技術者の不足及び将来の伸びを考慮し,1957年(昭和32年)の理工系学生8千人増募計画に引き続き,1961年(昭和36年)から理工系学生2万人増募計画を実施することとなった。この結果,1961年から1963年の3年間に大学,短期大学及び1962年に新たに設置された高等専門学校を合わせて20,663人が増員された。

また,戦後のベビーブームの影響により,1966年(昭和41年)から大学入学志願者が急増するため入学定員の大幅な増加が1965年(昭和40年)から図られたが,このような理工系学生の計画的養成及び大学入学志願者急増対策により大学における理工系学生数は, 第1-1-29図 に示すように1960年代に急速に増加した。

第1-1-29図 大学における理工系学生数及び就職率の推移

このように理工系学生数が大幅に増加されるに伴い,大学における理工系学生の就職状況も変化していった。1960年前後は第1-1-29図に示すように,卒業者のうち就職する者の比率(以下就職率という。)は90%以上を示し,1960年代及び70年代を通じ最も高い状況にあった。また,これらの就職者のうちいわゆる技術者として就職した者も1960年代前半には 第1-1-29図 に示すように85%以上を占め,まさに大学における理工系卒業者が求められた時代であった。

しかし,1960年代後半には理工系学生の就職率は同前半に比較するとかなり低下し,1969年(昭和44年)には84%となり,また,技術者として就職する者の比率も80%に低下した。さらに1970年代には就職率は年次によっては若干の上昇を示したものの全体的には低下傾向にあり,また,技術者として就職する者も1979年(昭和54年)には69%まで低下し,事務従事者及び販売従事者として就職する者の比率が増大し始めた。

以上のような大学における理工系学生の就職状況の変化等をみると,1950年代後半から顕在化していた科学技術者不足も1960年代の大量養成等により70年代に漸次解消されつつあったといえよう。


(3) 巨大科学技術の推進
原子力開発

1960年代の高度経済成長を支えた民間企業の研究開発活動に対し,前述のように政府は様々の振興,助成策を実施してきたが,同時に原子力開発,宇宙開発などいわゆる巨大科学技術については,国が中心となってその推進を図った。

原子力開発については,原子力委員会が1957年(昭和32年)に決定した原子力開発利用長期計画を内外の原子力開発の進展状況に適応させるため1961年(昭和36年)に改訂し,1961年から1970年までの10年間の原子力発電,原子力船,核燃料及び放射線利用の発展形態を示すとともに,各開発段階で行うべき具体的な方策を示し,原子力の研究開発等を計画的に推進することとした。

1962年(昭和37年)には日本原子力研究所において国産1号炉(JRR-3)が臨界に達したが,これは我が国が原子力開発に約10年も遅れてスタートしたという不利な条件を克服して,先進国の原子力技術を急速に摂取して国内技術を高めてきた成果が実ったものであり,ようやく自らの手で研究炉の開発を行いうるようになったという点で意義のあるものであった。次いで日本原子力研究所では1963年(昭和38年)に動力試験炉(JPDR)により,出力2,000KWの我が国最初の原子力発電に成功するとともに,さらに1966年(昭和41年)にはコールダーホール改良型炉(完成出力16万6千KW)により我が国最初の商業用原子力発電の運転が開始された。国産の動力炉の開発については,1966年に原子力委員会によって高速増殖炉と新型転換炉(重水減速沸騰軽水冷却型)とを自主的に開発することが決定された。このナショナルプロジェクトを官民挙げて実施するため1967年に動力炉・核燃料開発事業団が設立され,高速増殖炉実験炉「常陽」及び新型転換炉原型炉「ふげん」の建設のための準備が進められた。

また原子力の船舶動力への利用については,原子力委員会は前述の「原子力開発利用長期計画」において原子力船技術の確立及び乗組員の養成訓練に資するため,1968年(昭和43年)ないし1970年に竣工することを目標として,原子力第1船を建造することが必要であるとした。

1963年(昭和38年)には日本原子力船開発事業団が設立され,原子力第1船の建造が進められることとなった。原子力第1船(総トン数8千トン,主機出力1万馬力,加圧軽水冷却型原子炉をとう載)の建造は,1968年(昭和43年)に開始され,1969年には進水して「むつ」と命名された。

放射線の利用については,我が国ではすでに戦前から物理学等の基礎的な研究分野のほか,医療や工業の実際にも用いられ,その技術水準もかなり高いものであったが,1960年代には新たに放射線化学の工業化あるいは食品保存のための放射線照射などその利用分野が拡大しつつあった。

一方,このような原子力利用の拡大にともない,1960年代には原子力関係施設の安全の確保,放射線障害の防止等を図るため,関連法規の整備をはじめとする安全対策が進められた。


宇宙開発

我が国の宇宙開発は,1955年(昭和30年)に東京大学生産技術研究所でペンシルロケットの発射テストが行われて以来,東京大学を中心に進められたが,当時はまだ国内の研究開発体制が未整備で,国としての将来の宇宙開発の方向も明確にされていなかった。このまま推移すると,すでに1950年代に人工衛星の打上げに成功しているソ連及び米国をはじめ世界の宇宙科学技術の進歩にはなはだしく遅れをとり,国の将来に悔いを残すおそれがあるとの認識のもとに,1960年(昭和35年)に内閣総理大臣の諮問に応じて宇宙の利用及び宇宙科学技術に関する重要事項を調査審議する宇宙開発審議会が設置された。同審議会はその後約8年間にわたり我が国の宇宙開発に関する基本方針を答申,建議してきたが,同審議会が1967年(昭和42年)に行った答申「宇宙開発に関する長期計画及び体制の大綱」を受け宇宙開発委員会法が制定され,宇宙開発審議会に代って宇宙開発委員会が1968年に設置された。同委員会は,宇宙の開発に関する国の施策の総合的かつ計画的な推進とその民主的な運営に資するため設置され,宇宙開発に関する重要事項について企画,審議及び決定を行い,その決定に基づき内閣総理大臣に対して意見を述べることとされた。同委員会は1969年(昭和44年)には「宇宙開発計画(昭和44年度決定)」を決定したが,これはその後10年程度の我が国の宇宙開発を展望しつつ,1969年度から向こう5〜6か年程度の間の人工衛星の開発に関する基本的な計画を定めたものであった。その後我が国の宇宙開発は同委員会の決定した宇宙開発計画に沿って推進されることとなった。この間,世界ではソ連及び米国が有人の宇宙船,通信衛星等を打ち上げるとともに,1969年には米国がアポロ11号によって人類初の月面着陸に成功するなど宇宙開発は1960年代に飛躍的な進歩を遂げた。一方,我が国では科学研究の分野においては,1964年(昭和39年)に東京大学に宇宙航空研究所が設置され,L(ラムダ)ロケット,M(ミュー)ロケット等のロケットや人工衛星の研究開発が進められ,1970年(昭和45年)のL-4 S-5ロケットによる我が国初の人工衛星「おおすみ」の打上げ成功へと発展した。また実利用の分野では,通信,気象等の分野で,郵政省電波研究所,気象庁等により米国の人工衛星を用いて,その利用技術の開発が始められており,1963年(昭和38年)に人工衛星を介した我が国最初の本格的なテレビ中継実験が行われた。

このように外国の人工衛星を利用する一方,将来我が国自身が実利用の人工衛星の打上げ能力を持つことが不可欠であるとの考えのもとに,科学技術庁は航空宇宙技術研究所と宇宙開発推進本部を中心に液体ロケットエンジンや誘導方式等の研究開発を進めていたが,1969年(昭和4年)に宇宙開発事業団が設立され,実利用衛星とその打上げ用ロケットの開発が本格的に進められることとなった。


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