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第1部   時代を拓く科学技術
第1章  戦後から現在までの科学技術発展の軌跡
第2節  1960年代
2.  社会経済基盤拡充のための科学技術


1960年代には前述のように鉄道,自動車,船舶等輸送に対する需要が大幅に増大したが,それとともに 第1-1-19図 に示すように旅客,貨物とも輸送量が著しく伸びた。これは技術的には輸送機関の高速化,大量化が図られたことによるものであった。

第1-1-19図 国内輸送機関別シェア

鉄道については,その代表は当時6時間30分を要した東京―大阪間をわずか3時間10分で結んだ東海道新幹線の開業であろう。新幹線の技術は今まで蓄積された鉄道工学の成果をもとに新たに技術開発を行い,これらを統合したものである。高速化を図るため,例えば高速運転を安全に行うための自動列車制御装置(ATC)の開発が行われ,また,大量化を図るべく大編成の列車を高密度に走行させるための技術開発が行われた。

自動車輸送については,1964年(昭和39年)の東京オリンピックを契機に東京をはじめとする大都市に都市高速道路及び都市間に高速自動車道路が建設されるとともに,自動車自体もエンジンの改良など高速に適する技術開発,貨物自動車の大型化などが図られた。また自動車の生産に関して自動化・省力化等の技術開発により生産工程の改善が図られたため,車両価格が引き下げられ,当時の国民所得水準の上昇による需要の増大ともあいまって自動車は急速に普及していった。

また海上輸送についても,経済の国際化等により 第1-1-20図 に示すように国際間の物的交流が活発となり,輸送コスト低減等のため,船舶の専用化が進み,油送船,鉱石船,自動車運搬船,コンテナ船などの大型化,高速化及び自動化が図られた。

なかでも油送船の大型化が目ざましく,1960年代には10〜20万トンクラスの油送船が続々と建造された。

通信についても,1960年代の社会経済の進展に伴って情報伝達量が増大するとともに,情報を迅速,的確に伝達する技術が要請され,テレビ放送,電話等の通信技術が進展した。テレビ放送についてはカラーテレビ放送技術の進歩によりカラーテレビが全国に普及するとともに,UHF放送技術の発達により,従来テレビの電波の届かなかった地域にもUHF中継局を通して電波が送られるようになり,さらに衛星通信技術の進歩により太平洋横断テレビ生中断などが可能となった。また電話についてはクロスバ交換機,同軸ケーブル方式及びマイクロ波通信方式等の技術進歩により全国自動即時化が促進された。ここではこれら輸送及び通信の技術革新がどのように達成され,さらにそれが社会経済にどのような影響を与えたかについて概観する。

第1-1-20図 海運による日本の輸出入量の推移


交通

交通は,旅客輸送と貨物輸送に大別される。ここでは,これらの国内輸送を各輸送機関別にみることにする。

1950年代の旅客輸送においては,鉄道では,中距離用電車(湘南電車)及び長距離特急用電車(特急こだま)などの開発が行われ,技術的にも他の輸送機関よりも優れ,輸送量においても独占的優位を保っていた。そのなかで,バスは,鉄道の補助的な輸送や鉄道のない地域の輸送を担いながら年々その役割を増大していき,トルクコンバーク,パワーステアリングなどの技術開発による車両性能の向上とあいまって,100kmを越える長距離運行が行われるようになり,そのシェアを拡大していった。

1950年代の貨物輸送においては,鉄道は,大量・長距離輸送を担っていたが,1955年(昭和30年)頃からの産業活動に伴う急速な貨物の増加に輸送力が対応できず社会経済の発展を妨げる一因になった事もあり,その改善策として電化・ディーゼル化の動力近代化及び輸送力の増強が行われた。また,自動車は,国鉄の輸送力不足と技術開発による8トン積みトラックなど車両の大型化及び自動車の持つドアードアの便利さとにより,主として担当していた近・中距離から中・長距離へと範囲を拡大し,それまで協力関係にあった鉄道と競合関係へと入って行った。一方,内航海運は,船の老朽化,及び国の日本国有鉄道(以下国鉄という。)貨物低運賃政策による内航貨物の国鉄への流出などのため鉄道の補完的状況にあった。

1960年代の旅客輸送においては,自動車では,乗用車が,生産工程などの技術開発による乗用車価格の値下げ及び国民所得の増加により軽乗用車から小型乗用車へと急速に普及し,輸送量も急増しつづけ,60年代の終りには,主要輸送機関へと成長していった。このなかで,乗合バスは,急激に輸送量を伸ばしつづけていたが,乗用車の普及に反比例して,まずローカル旅客の減少,続いて,旅客全体の減少傾向へと入っていった。また,鉄道では,交直流両用電車,特急用ディーゼル車,世界初の特急形寝台電車の開発などにより,スピードアップと快適度の向上が図られるとともに,東海道の輸送力増強及び質的向上対策として,東海道新幹線の開業を行うなどの近代化が図られた。しかし,自動車の普及に伴い,地方鉄道では,旅客数の減少がつづき路線の廃止が進められた。一方,大都市では,交通渋滞の慢性化に伴い路面電車が撤去され,その代替として地下鉄の整備が行われていった。

また,鉄道では,線路増設及び列車編成長増大などが行われ人口の都市集中化によって生じた朝・夕の通勤・通学輸送の混雑緩和が図られた。また,航空では,国産初の旅客機YS-11の開発が行われるとともに,国民所得の増大と国内線へのジェット機導入とがあいまって,新幹線の開業に伴い一部地域間で落ち込みをみせたものの,輸送量は順調に伸び続けた。なお,内航船では,高速で運行時間の短縮を図る水中翼船,ホーバークラフト船が登場してきた。この様な技術開発などにより,各輸送機関は激烈な競争関係へと入っていった。

1960年代の貨物輸送においては,自動車では,各種積載量の自動車から各種専用車(冷凍車,コンテナ車等)へと技術開発が進められ,産業界の輸送合理化に即応して輸送量も急増し,そのシェアの拡大が図られた。このなかで,鉄道では,交直流両用機関車,貨物の積み降しの簡略化を図るパレット輸送貨車の技術開発などにより輸送の近代化が行われたが,資金不足のため近代化が遅れ,利用者の要求を満たせず,輸送量が伸びなやみシェアも低落の一途をたどっていった。また,内航海運は,「内航海運対策要綱に基づく代替建造3ヵ年計画」に基づいて,木造船から鉄鋼船,一般船から専用船へと近代化,合理化を図るなど輸送量の増大に努めるとともにシェアも停滞傾向から拡大に転ずるなど輸送機関としての地位を確立していった。なお,“動く橋”として登場した自動車航送船(フェリー)は,大型・高速化を図り,自動車と結合して“動く道路”として活動範囲を拡張していった。

なお,外航海運は,大量・迅速かつ低コスト化のために原油輸送,自動車輸送専用船,及び雑貨輸送用コンテナ船などの船舶の自動化・高速化・大型化の技術開発を図り,産業活動の活発化によって急速に増加した輸出入貨物の輸送量を伸ばし続けていった。

次に技術面の進歩の例として新幹線,乗用車及び船舶の技術開発についてみることにする。


1) 新幹線の技術開発

新幹線は,1939年(昭和14年)鉄道省幹線調査会の答申に基づいて東京―下関間の新幹線建設(いわゆる弾丸列車)が決定され,新丹那トンネル工事などに着工していたが,1943年(昭和18年)から1944年にかけての戦局の悪化に伴い工事は中止された。

戦後,太平洋沿岸に人口,産業の集中が続き,東海道線の沿線では,ほとんど切れ目なく商工業都市が形成された。このため,国鉄は,1956年(昭和31年)に全線電化を完成するとともに,大型機関車の投入,線路の強化,待避線の増設,線路有効長の延長,操車場の改良,信号保安設備の改良・強化等あらゆる輸送力増強対策を行い,1958年(昭和33年)から東京―大阪間の日帰り可能の特急電車「こだま号」の運転を開始し,質的向上も行った。しかし,1955年(昭和30年)当時,東海道線の輸送は,60年代には完全に行き詰まることが予想された。

東海道新幹線は,鉄道斜陽論が強まっていたなかで,1958年(昭和33年)に経済企画庁に設けられた「交通関係閣僚協議会」における検討を経て最終決定され,翌年より本格的工事が始まり,5年余りの工期で建設され,1964年(昭和39年)に開業した。

この世界最新の超高速鉄道は,今まで蓄積された運転・車両・電気・土木・建築等鉄道工学の成果をさらに進展させ,最新の科学技術を統合したものであり,東京―大阪間を最高時速210km/h,所要時間3時間10分(開業時4時間)で結んでいる。

これを技術的にみると,高速列車運転の基本となる交流電化技術及び各部品のエレクトロニクス化を基にして,車両では,高速車両に必要な流線型,軽量化の技術,軌道では,高速乗り心地改良のロングレール,高速通過の振動を防止するノーズ可動分岐器,架線では,高速大量運転に耐える合成コンパウンド架線の技術,信号では高速運転を安全に行う自動列車制御装置(A TC),多数の列車を能率的にまた安全に集中制御する列車集中制御装置(C TC)などがある。この総合技術開発に対し,国内では内閣総理大臣表彰,海外ではコロンブス賞など多数を受賞している。

これらの技術開発のために,国鉄は,1957年(昭和32年)技術研究所に重点研究班を編成し,1964年まで高速運転のための軌道構造,信号方式,制御方式及び高速車両の運転などについて,173テーマを選定し集中的に研究開発を行った。また,この技術には,戦後国鉄に入ってきた旧軍の航空技術者の航空技術に負う所が多かった。例えば,振動力学の分野では航空機におけるフラッタが鉄道車両のハンチングに,構造力学の分野では軽量化がそのまま車両設計に,空気力学の分野では風洞実験が高速時のパンタグラフの安全性問題などに活用された。

その後,予想以上の旅客の増加に伴い列車本数が増加し,現在では1時間に10本という高速度長距離列車としては世界に例を見ない高密度の運転が行われているが,これを安全にかつ円滑に行うための新幹線運転管理システム(コムトラック)(昭和53年度科学技術庁長官賞受賞)の技術開発が行われた。また,列車速度については, 第1-1-21図 に示すように技術開発が進められ,1979年(昭和54年)に961形試作電車で電車としての世界新記録319km/hが達成された。

新幹線の社会への寄与についてみると,当初,国民の中に,210km/hというスピードに不安をいだいた人が多かったが,輸送人員は,当初の予想以上に伸びつづけ,死亡事故皆無で現在まで約15億人を輸送している。また,営業線区は1972年(昭和47年)岡山へ,1975年博多へと伸びた。なお,現在,昭和56年度開業を目標に東北・上越両新幹線の工事が進められている。

また,産業への寄与についてみると,新幹線の技術は,鉄道業界の技術発展のみならず,電気,電子,機械,土木業界など広範囲に及んでおり,また,世界における日本産業界の技術力の評価及びイメージアップなどに多大の貢献をしている。

第1-1-21図 日本国有鉄道における試験列車速度記録の推移


2) 乗用車の技術開発

戦後の我が国の自動車工業は,トラック工業を中心として再出発した。これに対し,乗用車工業は戦前の蓄積も十分でない上に1949年(昭和24年)までGHQによって製造を禁止されたので,その復興は著しく遅れた。しかも,当時の国産乗用車は小型トラックのシャシーに乗用車の車体を載せたもので,本格的なものではなかった。

乗用車工業技術の確立を図るために,1952年(昭和27年)から一部を除く自動車会社は外国企業と技術提携を行い,各車両の部品輸入による組立から出発し,順次国産化比率を高めて完全国産化を図る方向で進められた。1958年(昭和33年)から大量生産体制確立に必要な乗用車の量産工場のレイアウトに関する技術導入が行われ,1960年(昭和35年)頃から,商品価値の向上を図る必要上,ボディデザインに関する技術導入が行われた。

このような状況下で1958年(昭和33年)に本格的に対米国輸出を開始したが,高速自動車道路における長時間連続高速運転といった国内とは全く異なる使用条件のために,ユーザーからボディ過重,馬力不足,高速安定性の欠如など技術的な不満が続出し,一時撤退をよぎなくされた。

当時としては,乗用車は, 第1-1-22図 に示されているように一般国民にとっては高嶺の花であったが,量産化体制による車両価格の引下げ及び国民所得の増加により,個人用途が順次増加していった。

これは,各企業が1955年(昭和30年)に発表されたいわゆる「国民車構想」や1960年(昭和35年)経済審議会によって発表された「所得倍増計画にもとづく生産計画」に基づいて一般国民向けの軽自動車や排気量1000cc以下の乗用車の技術開発に努めたことにもよる。その後,各企業は「自動車時代元年」と言われた1966年(昭和41年)頃,排気量1000cc前後のいわゆる「大衆車」を発表した。この頃から乗用車は,ボディの溶接,塗装の自動化などの生産面での合理化,省力化により,車両価格が一層引き下げられたが,一方,国民の所得も増大したため,需要は急速に拡大していった。西ヨーロッパの経験法則では乗用車の価格が1人当たり国民所得の1.4倍以下になると需要が急増すると言われているが,我が国でも同じ現象が見られた。

第1-1-22図 車種別車両価格の推移

この間の技術開発についてみると,各社は1961年(昭和36年)頃からのQC(品質管理)の導入などで製品品質の維持改良を行い,1963年(昭和38年)に車両保証期間の延長を行った。1965年(昭和40年)前後になると自動車専用道,高速自動車道の建設が進み,各社は,乗用車の技術開発の対象をハイウエー時代に適する車へと向け,悪路用テストコースを高速度用を主としたコースに改良したり, 第1-1-23図 に示されるようにエンジン等の改良による単位排気量当たり最大出力及び単位車両重量当たりの最大出力の向上並びに駆動伝達装置,走行制御装置など高速に適する乗用車の技術開発を行った。これを特許公告件数で見ると 第1-1-24図 の通りであり,1965年(昭和40年)以後急増している。

一方,世界的な技術開発としては,西ドイツの会社の基本特許を基にT社で実用化したロータリーエンジン(昭和44年度科学技術庁長官賞受賞)と,トーチ点火機関を基にしてH社で実用化した低公害エンジン(CVCC)(昭和50年度毎日工業技術賞受賞)などがある。

また,各社は,現在まで排出ガスの有害3成分を減少させる排気ガス再循環,触媒コンバータなどの排出ガス低減技術開発,公害を引き起こさない電気自動車の技術開発,衝突時の安全性の向上を図るガラス及び衝撃吸収バンパの構造等の技術開発,及び今後とも発展を遂げる電子制御による燃費改善等の技術開発を絶えまなく進めるとともに,総合的な品質向上に努めて来た。このような技術開発の推進によって,日本自動車業界は,技術及び品質において世界をリードする一員へと成長してきた。

自動車産業は,今日では,日本の基幹産業へと成長し,輸出額も鉄鋼を追抜き第1位の地位を占めるようになっている。

第1-1-23図 乗用車の高性能化の推移

第1-1-24図 自動車関係(内燃機関を除く)の特許公告件数の推移


3) 船舶の技術開発

戦後の我が国造船業は計画造船等の施策により復興が始まったが,戦災による造船施設の損害が少なかったのに対し,戦前には高速船建造等世界最高水準に達していた造船技術は,戦時中の技術停滞により海外に比べ大きく遅れていた。このため運輸省造船技術審議会は「日本の造船技術を急速に国際最高水準まで回復させるためにはどのような措置が必要か」を答申第1号として出し,続いて「溶接技術の急速なる向上と普及を図るための建議」を出した。これらをうけてリベット(鋲接)工法から溶接工法への転換,ブロック建造方式の大幅な採用等さまざまな革新的技術が導入された。

この溶接ブロック建造工法に関して1950年代から現在までに多くの研究開発が我が国で行われた。その代表例としては,溶接船体のぜい(脆)性破壊に関する研究及び溶接性の良好な材料の開発,作業性のよい溶接法の開発,電子写真け(罫)書装置(電子写真技術を利用して,鋼板に切断用図面を直接描く装置)の開発などが挙げられよう。

1950年代前半までの造船に関する技術進歩は主に建造方式関連のものであり,旺盛な設備投資と政府の助成ともあいまって,スエズ運河が閉鎖された1956年(昭和31年)には日本の造船量は世界一となり現在に至っている。

また,同年に我が国輸出に占める船舶輸出の比率は10%を超え,以後我が国輸出の中心的地位を船舶が占めてきている。1950年代後半からは船舶性能に関する技術開発が進められ,1960年代に入って船舶の高速化,自動化,大型化が推し進められた。

高速化のためには造波抵抗の減少が最大の課題であったが,生成波の解析及びそれに基づく波消し船型理論(球状船首の反位相波による波消し)が東京大学で研究され,1960年(昭和35年)に瀬戸内海における「くれない丸」を使用した実証試験により,その有効性が確認された。以後造波抵抗を減らすための各種船首が開発された。この成功の背景として当時の造船技術の高さ,学界・造船界の強い連携及び革新的技術に関する導入意欲が挙げられる。

自動化に関しては1960年(昭和35年)に造船技術審議会が「船舶の自動操縦化の技術的問題点ならびにその対策」を答申し,造船業界の中でも経済性,安全性,作業環境の改善,船員不足対策等の面から自動化,遠隔操縦化への関心が高まり,1961年(昭和36年)に世界初の大型自動化貨物船「金華山丸」が造られ,その後船舶の自動化は急速に進展した。

大型化に関しては,まず1957年(昭和32年)造船技術審議会が「超大型船建造上の技術問題,並びにその対策如何」について答申し,これに基づき,造船業界の共同研究組織である日本造船研究協会を中心に関係官庁,大学等が超大型船の共同研究を3か年計画で行った。船舶大型化のための技術としては電子計算機を使用した設計手法の確立,全溶接が可能な材料の開発,建造方式の近代化,造船設備の大型化など多くのものがあった。船舶大型化に伴う経済効果として建造費及び 第1-1-25図 に示すように輸送費が低減するので,船舶の大型化傾向はますます進み,1965年(昭和40年)には造船技術審議会が「巨大船建造上の技術的問題点およびその対策如何」について答申し,運輸省が中心となって巨大船に関する技術開発が進められた。

第1-1-25図 船舶大型化に伴う輸送費の低減例(油送船)

船舶の大型化が特に進んだのは油送船であった。油送船の大型化は1950年代から進んでいたが,1956年(昭和31年)のスエズ運河閉鎖を契機に中東からヨーロッパに向かう油送船はアフリカ南端を回ることとなり,世界的に大型化気運が盛り上がった。特に,我が国は元来スエズ運河経由の必要がないこともあり,大型化はより急速に進み,第1-1-26図で見るとおり,1962年(昭和37年)の日章丸(13万2千重量トン)を始めとして,1966年(昭和41年)の出光丸(20万9千重量トン),1971年(昭和46年)の日石丸(37万2千重量トン)とVLCC(20万重量トン以上の油送船),ULCC(30万重量トン以上の油送船)が次々と造られた。我が国最大の油送船である日精丸(48万4千重量トン)は1回の航海で我が国の原油消費量のほぼ0.7日分を運ぶことができる。

また,鉱石専用船についても 第1-1-26図 で見るとおり大型化が進んだ。このような造船技術の進歩は,資源が乏しい我が国が輸入しなければならない原油,鉄鉱石などの素原料を大量に安価で運ぶことを可能にし,我が国の産業,国民生活の発展に寄与してきた。

第1-1-26図 我が国の船舶の大型化傾向


通信

通信手段は大別すると,輸送に依存した郵便と電気通信に分類されるが,ここでは戦後の技術革新が著しい電気通信を取り上げることにする。

我が国の電気通信は,戦前においては,有線電信が1854年(安政元年)にペリーによりもたらされて以来,電話,無線電信などが急速に普及発展し,またラジオ放送も1925年(大正14年)の開始後ラジオ受信機が増加し順調に普及してきていたが,戦禍のため終戦直後においては壊滅的打撃を受けていた。

しかしこの分野の復興拡充は,戦後の我が国の経済復興,自立,成長には欠くことのできない重要性を持っていたため,1950年代に大幅な技術導入及び自主技術の確立を進め,1950年代末から60年代にかけて電気通信手段は急速に普及発達した。この当初の状況を放送と電話を中心に概観してみると次のとおりである。

放送については,1951年(昭和26年)に我が国最初の民間ラジオ放送局が大阪,名古屋に誕生し,これに続いて全国各地で新しい民間ラジオ放送局が次々と開局していった。そして高性能化されたラジオ受信機の普及とあいまって,戦前に比べて質の良いラジオ放送が全国各地で聴取できるようになっていった。また,戦中,戦後一時中断されていたテレビの研究も1946年(昭和21年)から再開され,1953年(昭和28年)にはNHK及び民間放送会社によりテレビ放送が開始された。当初はテレビ受像機の高価格のため一般への普及は伸び悩んでいたが,1950年代末には価格も手頃となり 第1‐1-27図 のように急速に伸び始めた。逆に同図に示すとおり映画の1人当たりの入場回数は急激に減り,娯楽の中心が映画からテレビへと移行していった。

第1-1-27図 NHK受信契約数,テレビ普及率,映画の1人当たり入場回数

一方,カラーテレビの研究も1950年代に始まり,カラー画像伝送方式として,当初は米国で考え出されたCBS方式について研究されたが,この方式は白黒テレビ受像機でカラーテレビ電波を白黒画像として受信できない方式,すなわち「両立性」のない方式であったため,その後米国で採用された両立性のあるNTSC方式に研究の対象が移され,1956年(昭和31年)にはNHKにより,同方式のカラーテレビが初めて受像公開された。その後カラーテレビ放送実験局を開設して実用化の実験を重ね,1960年(昭和35年)にNHKを含む8局がカラーテレビ本放送を開始した。これは米国についで世界第2番目であった。

電話については,1953年(昭和28年),日本電信電話公社が電信電話拡充第1次5ヵ年計画をスタートさせ,これを早急に実現するため,クロスバ交換機,同軸ケーブル方式,マイクロ波通信方式などについて外国技術を導入し,その技術を体得するとともに,これらの機器やシステムの国産化に通信業界も含めて取り組んだ。例えば,最初のクロスバ交換機は1955年(昭和30年)に米国から輸入されたが,過去の技術的蓄積をもとに,翌年には国産クロスバ交換機が製作されている。また同軸ケーブル方式については,米国及び西ドイツからの技術導入によって国内で製造された960チャンネル方式が,1956年(昭和31年)に東京―横浜間で実用化され,これにより一挙に回線増を図ることが可能となった。さらにマイクロ波通信方式については,我が国で1940年(昭和15年)に実用化していた超短波帯多重電話伝送方式の技術を背景として,1954年(昭和29年)には東京―大阪間にテレビ中継回線及び超多重電話回線が開通した。その後,大阪―福岡間にイギリス製のマイクロ波通信システムが導入されたが,パラボラアンテナなどの新しい技術が我が国のマイクロ波通信技術に取り入れられるきっかけとなり,技術の発展に大きな刺激を与えた。そしてこれらの技術を基礎にして,増大する市外通話の需要やカラーテレビ中継回線の要求にこたえ,1957年(昭和32年)には札幌―鹿児島間で本土縦断マイクロ波通信網が完成している。

こうした1950年代の技術開発をもとに,1960年代は技術の改良,関連技術開発等が推進され,電気通信手段は急速に普及した。

1950年代末に登場したカラーテレビは,1960年代前半には放送品質の不安定さ,受像機の高価格により普及が伸び悩んだ。しかし1960年代にカラーテレビカメラ,送信機器などのカラー放送設備が大幅に改善され,放送品質が向上したこと,及び前述のようにカラーテレビ受像機の性能が向上し,かつ価格が大幅に低下したことに加えて,1968年のメキシコオリンピックや翌年のアポロ11号による月面からのテレビ生中継などが契機となり, 第1-1-27図 に見られるように1960年代後半から着々と普及していった。

1950年代にテレビ局の置局は大幅に進み,1960年(昭和35年)にほぼ一段落したが,テレビ電波が届かない地域はまだ残っており,その中に全世帯の20%余りが含まれていた。この地域の人々のテレビに対する欲求は非常に強く,これに対応するためには,小電力中継局(サテライト局)の設置が必要であったが,従来のVHF(超短波)帯チャンネル(1〜12ch)だけでは対応できないため,UHF(極超短波)帯の使用が検討された。このUHF放送技術は,1950年代後半から研究開発が進み,既に実用化の見通しが立っていたため,郵政省は1961年(昭和36年)にUHF帯による中継用電波を割当てる方針を明らかにした。そして,1963年(昭和38年),UHF帯を使用した最初の中継局が,NHKにより茨城県で本放送に入った。その後,1967年(昭和42年)には県域放送の充実の要望にこたえて,中継局だけでなく親局にもUHF帯チャンネルが割当てられることとなり,翌年からNHK,民間放送会社によるUHFテレビ局が続々誕生した。しかし,UHFテレビ放送を受信するためには,従来の受像機にコンバータ(周波数変換装置)を取りつけるか,オールチャンネル受像機を新たに購入する必要があった。このためUHF各局はUHF放送の視聴促進運動を視聴圏内の市町村で展開した。

FM放送の実験は,1957年(昭和32年)頃から実施されており,その後ステレオ放送の実験も行われ,1960年代初めには技術的に確立したものとなっていたが,郵政省は従来のラジオ放送との関係からFM放送の実施について保留していた。しかしステレオ放送に対する要望が高まってきたため,1968年(昭和43年)にFM放送を認める方針を決定し,この結果1969年から1970年にかけて,NHK及び民間放送4社がFMステレオ放送の本放送を開始した。

電話に対する需要は,1960年代の我が国経済の高度成長に伴い, 第1‐1-28図 の加入数,積滞数に示すように増加の一途をたどっていた。

このため日本電信電話公社は,積滞の解消と全国自動即時化を実現すべく,第2次以降の長期計画を推進した。このように電話が全国的なネットワークとして拡充するにつれ,通信回線,交換機,電話機などの品質管理を容易にし,かつ技術の統一性と主体性を保っため,技術の国産化が推進された。

第1-1-28図 電話加入数,普及率,積滞数及びダイヤル通話回数

例えば同軸ケーブル方式については,自主技術による大容量伝送方式の実用化が推進され,国際規格に準拠した2,700チャンネル方式が,1962年(昭和37年)に東京―静岡間で開通し,同軸アナログ伝送技術に関する欧米諸国との格差を一気に解消させた。一方,短距離伝送方式については,平衡対ケーブルを用いた24チャンネルのデジタル伝送(PCM)方式が,1965年(昭和40年)に実用化され,以来全国にわたって大量に導入された。

マイクロ波通信方式については,同軸ケーブル方式と同じく大容量化が目指され,1968年(昭和43年)に2,700チャンネル方式が世界に先駆けて完成した。また,世界最初の公衆通信用の無線デジタル伝送(PCM)方式も1969年(昭和44年)に実用化した。

クロスバ交換方式については,数々の改良が重ねられ,1964年(昭和39年)には従来型よりも価格で30%以上,床面積で40%以上と大幅に経済化された市外交換用交換機が実用化され,全国的に急速に導入されていった。

このクロスバ交換方式の導入及び伝送路の大容量化により,全国自動即時化が容易となり,電子交換機導入の下地が作られた。

電話機についても従来使用されていた4号形に代わり,1963年(昭和38年)に600形の本格的量産が始まった。この600形電話機は,4号形電話機の量産で取り入れられた品質管理の思想をもとに,個々の部品について品質と信頼性の向上が図られ,コスト低減を徹底させて量産化されたもので,従来形式の電話機としてほぼ限界の性能を持つものである。この電話機を基盤として,プッシュホンや各種の公衆電話機などが生まれている。

これらの研究開発が電話の需要を満足させるために有効に働き, 第1-1-28図 に示すように1960年代半ばから電話加入数が急激に伸びており,同時に住宅用電話加入数及び普及率も安定した伸びを示している。また,需要の伸びを裏付けるようにダイヤル通話回数も急伸している。

このように我が国の経済活動が活発になるに従って電気通信の需要も増加し,それに対応した技術開発が行われてきたが,我が国と外国との通信も,短波や海底ケーブルだけでは対応しきれなくなっていた。特に,テレビ放送の中継は従来の手段では不可能であったので,これに対応する新しい技術の開発が待たれていた。これに対するアイデアとしては,1945年にイギリスの科学評論家A.C.クラークが発表した静止衛星をテレビ放送に利用するというものや,米国のベル研究所のJ.R.ピアスが1955年に提案した直径30メートルのアルミ箔気球を静止衛星軌道に打ち上げて,この気球の電波反射を利用する方法があったが,一般的には現実的なものとして受け取られていなかった。ところが,1957年,ソ連が世界で初めて人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功したため,通信衛星の可能性が現実的なものとなってきた。1962年に米国が打ち上げたテルスター1号が,本格的な通信衛星の最初のものであった。

これに対し,我が国では1960年代に入って郵政省電波研究所,国際電信電話株式会社などで衛星通信の研究を開始した。そして1963年(昭和38年)には,リレー1号衛星を使用して,初めて米国からの太平洋横断テレビ伝送が成功し,しかもその受信した内容がケネディ大統領暗殺事件を報道するものであったことから,国民に大きな衝撃を与えた。翌年には,逆にリレー2号衛星を使用して米国へ,さらにテルスター2号衛星を経由してヨーロッパヘのテレビ送信実験が成功している。これらの成功に力を得て,1964年(昭和39年)の東京オリンピックのテレビ放送が,太平洋上の静止衛星シンコム3号を使用して全米へ中継された。この後,米国及びソ連により次々と通信衛星が打ち上げられ,また通信衛星を利用して国際通信を行うための組織であるインテルサット(国際電気通信衛星機構)なども設立され,1970年代には衛星通信は国際通信系の主要な部分を占めるようになった。

1970年代に入ると1960年代に創設されたサービスやシステムが拡大,充実された。カラーテレビ受像機の普及は1960年代後半に引き続いて著しく,また電話の積滞数は年々減少し,1970年代後半には「すぐつく電話」が可能となり,全国自動即時化もほぼ完成している。この全国自動即時化及び広域時分制の導入により,電話網を使用した不特定多数間のファクシミリ通信が可能となり,1970年代後半にはファクシミリが著しく普及し始め,同時に高速化,高品質化の要求にこたえて急速な技術革新が進められている。

また,1965年(昭和40年)に東海道新幹線で開始された列車公衆電話サービスは,1975年(昭和50年)には博多までの区間までサービス提供地域を拡大しており,1968年(昭和43年)に開始されたポケットベルサービスも,1970年代に全国的に普及している。このほか1979年(昭和54年)には,自動方式の船舶電話サービス及び自動車電話サービスが開始されており,どこでもいつでも使える電話を目指して研究開発が進められている。


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