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第1部   時代を拓く科学技術
第1章  戦後から現在までの科学技術発展の軌跡
第2節  1960年代
1.  成長のための科学技術


1960年代には経済の高度成長により我々の日常生活は物質的に豊かになったが,その原動力の一つは技術革新であった。1950年代前半に戦後復興を完了した我が国では,同年代後半には海外から導入した技術をもとに積極的な技術革新が行われ,新しい産業を興すための生産設備が続々と新設された。

1960年代に入り国民所得水準の上昇等によりいわゆる大衆消費社会が出現すると,家庭電気製品等の耐久消費財に対する需要が急速に増大したが,各産業ではこれらの需要にこたえ大量の製品を安価に生産するため,量産化,自動化等の技術開発を進めるとともに,需要を一層拡大するために品質,性能の向上を目指した技術開発を行った。その結果,例えば 第1-1-8図 にみられるようにテレビ,電気冷蔵庫等の家庭電気製品の普及率が著しく伸びた。テレビについてみると,カラーテレビの受像機の小型化,画面の明るさの改善等性能の向上が図られ,大量生産によるコストダウンともあいまって 第1-1-8図 に示すように従来の白黒テレビに代ってカラーテレビが急速に普及していった。また電気冷蔵庫については高温多湿の我が国の気候にあわせ自動霜取装置が取り付けられるなどの性能の向上が図られ普及していった。

第1-1-8 図主要家庭電気製品普及率

このような家庭電気製品等耐久消費材の大量生産やコストダウンが可能となった背景の一つに,鉄鋼の生産量が 第1-1-14図 に示すように1960年代に急速に伸びたことがあった。

鉄鋼の生産は,1950年代後半には需要に追いつかずいわゆる生産あい路(ボトルネック)の一つとなっていたが,1960年代には大型高炉操業技術及び圧延自動操業技術等の開発により大量生産が可能となり生産量が拡大した。

また,1960年代にはナイロン等の合成繊維,塩化ビニル樹脂等の合成樹脂及び合成ゴムといった合成高分子材料(以下高分子材料という。)による新しい製品が普及し,国民の生活に身近なものとなった。これらの製品は大部分が1950年代に工業化されたものであるが,例えば,ナイロン,塩化ビニル樹脂等について,原料を石油に転換する技術開発によって,さらに大量生産が可能となるとともにその品質も向上したように,高分子材料についても1960年代に大量生産技術,品質向上技術等の開発が行われ,国民の生活様式の変化等もあり,急速に普及することとなった。

なお,このような大量生産技術や品質向上技術等の開発は,これらの重化学工業製品について国内の著増する需要を満たしただけではなく,製品のコストダウンと品質向上を通じて国際競争力をも強化させこれらの産業を強力な輸出産業として成長させた。

ここでは,このような技術革新がどのように達成され,それが社会経済にどのような影響を与えたかについて家庭電気製品,鉄鋼及び高分子材料をとりあげ概観する。


家庭電気製品

我が国で家庭電気製品が市場に現われたのは,1930年(昭和5年)頃であり,国産又は輸入品としてラジオ,扇風機,アイロン,温水器,電動井戸ポンプ,電熱器,電気冷蔵庫,電気洗たく機,電気掃除機などが販売されていたが,戦前では一般に普及していたのは,ラジオ,扇風機,アイロン等であった。

戦後の家庭電気製品の生産は進駐軍向けの生産から始まり,各社が技術的蓄積を重ね,1950年(昭和25年)頃から市販を開始した。

家事労働の手助けとなる電気洗たく機,電気冷蔵庫,電気掃除機の生産状況は,1950年代は電気洗たく機が中心であったが,1960年代には電気冷蔵庫が,1970年代には電気掃除機が並び,現在は3製品とも年間約4百万台生産されている。また,一般家庭への普及率からみても,まず電気洗たく機が高い普及率を示し,1960年(昭和35年)には都市の非農家における普及率は第1-1-8図に示すとおり,電気洗たく機46%,電気冷蔵庫10%,電気掃除機8%であり,電気洗たく機は約半数の家庭に普及していた。しかしながら,1960年代には電気冷蔵庫の普及が著しく,1970年(昭和45年)には電気洗たく機92%,電気冷蔵庫93%,電気掃除機75%の普及率となり,ほとんどの家庭が電気洗たく機と並んで電気冷蔵庫を持つことになった。

1960年代にこのように電気冷蔵庫が普及したのは,食生活,流通機構の変化といった要因があるが,技術的には1950年代に行われた冷媒としてのフレオンガス使用による信頼性の向上,コストダウンによる低価格化などに引き続き1960年代も我が国における技術進歩が著しかったことによっている。すなわち,高温多湿の日本では庫内に発生する霜が特に問題となっていたが,自動的に霜取りを行い庫内の水分を蒸発させる装置が改良され,普及品にも霜取装置が付けられた。また,フリーザの普及に対応し,冷凍室と冷蔵室の温度調節に関する機能,ファンによる庫内急速冷却が開発された。このように電気冷蔵庫の機能に関する技術開発は1960年代にほぼ終了しており,1970年代に入ってからは生活様式の変化,ニーズの多様化に対応するため,2又は3ドア式大型冷蔵庫,個人用小型冷蔵庫等多くの機種が開発されている。

家庭電化の進展は家事労働の電気製品による代替ばかりではなく,潤いのある実庭生活をももたらした。すなわち,ラジオ,テレビの普及によって豊富な情報が提供されるようになったことである。

ラジオは戦後間もなく生産を開始することがGHQにより要求されたが,真空管の生産が追いつかず,1948年(昭和23年)頃の,従来方式に比べ混信が少なく感度もよりよいが真空管を1本多く使用するスーパーヘテロダイン方式への切替えも困難であった。しかしながら,その後部品及びセットの生産が軌道にのり,1951年(昭和26年)から民間放送が開始されたこともあって急速な伸びを示し,真空管も大型のST管から小型で高性能のMT管に移り,ラジオ受信機のポータブル化が進んだ。1955年(昭和30年)にはトランジスタラジオがS社により開発され,以降のトランジスタ,IC等を大量生産し,民生用機器に適用するという日本の電子機械工業の発達への途を開いた。

一方,テレビは1953年(昭和28年)から本放送が開始されたが,テレビ受像機の基本特許はRCA等欧米のメーカーが持っていたため各社は技術導入を行い,更に,大量生産技術の確立を図った。この結果,1953年(昭和28年)初めには約17万円であった14型テレビ受像機の価格は急速に低下し,1957年(昭和32年)には約7万円になった。1960年代前半におけるテレビの普及は目ざましく,普及率は1958年(昭和33年)に16%であったのが,5年後の1963年(昭和38年)には91%となり,本放送開始後10年でほとんどの家庭がテレビ受像機を有するに至った。この間のテレビ受像機に関する技術としては,ブラウン管の偏向角の拡大(70°→90°→110°),トランジスタの採用とポータブル化などがある。

以上のような1950年代後半及び60年代前半における家庭電化の進展は国民生活を著しく変化させた。例えば家庭婦人の生活時間の推移をみると, 第1-1-9図 に示すとおり,戦前は11時間近く家事に費していたが,最近は8時間弱となり,趣味,教養娯楽,運動等の時間は1時間強であったのが6時間半となっている。

特に増加の著しいのはテレビの視聴時間であり,1960年(昭和35年)には1時間20分であったのが,1975年(昭和50年)には5時間近くとなっており,そのうち3時間は「ながら」の時間となっている。

即ち家庭電化の進展は家事労働の軽減とともにテレビ等による教養・娯楽時間の増加をもたらした。

次に,家庭電気製品の中で技術進歩の著しかったカラーテレビに関する技術をみてみることにする。カラーテレビの研究は,1950年(昭和25年)頃から着手されており,1960年(昭和35年)から本放送が開始された。

カラーテレビも白黒テレビと同様に米国RCA等からシャドウマスク方式が技術導入された。しかしながら,当時のカラーテレビ受像機は,17型で約40万円と高価であり,画面が暗いなどといった欠点があったため1960年代前半の普及率は低く,小型・軽量化及び輝度の向上が必要となっていた。特にブラウン管は初期の段階では米国から大型用の21型丸形ブラウン管を輸入していたため,我が国に適した小型ブラウン管を生産する技術の確立が望まれ,1958年(昭和33年)にはNHK技術研究所が17型角形の試作を行い,1961年(昭和36年)にはT社が14型ブラウン管と14型セットを開発した。また,S社は米国の技術を導入したクロマトロン方式の商品化に世界で初めて成功し,続いて1968年(昭和43年)に新しい方式であるトリニトロン方式の開発,商品化に成功した。一方,輝度は,サルファイド系,希土類のけい光体が開発されたこと,1973年(昭和48年)にインライン方式によるブラックストライプ管がT社で開発されたことなどにより 第1-1-10図 に見るように向上した。

また,ブラウン管以外の部品についても, 第1-1-10図 に見るように,真空管式から真空管とトランジスタによるハイブリッド式,更にはトランジスタ式への転換,IC化が行われ,消費電力及び部品点数の大幅な減少が図られ,省電力,低故障率のテレビ受像機が製造されることになった。

さらに,製造技術の進歩等により,1970年(昭和45年)には14型の価格は10万円弱となった。

このようなテレビ受像機技術と後述の放送技術の進歩により,カラーテレビの普及率は1968年(昭和43年)には7%に過ぎなかったが,1973年(昭和48年)には78%となり白黒テレビの普及率を抜き,1975年(昭和50年)には91%とほとんどの家庭に普及した。

第1-1-9図 家庭婦人の生活時間の推移(平日)

第1-1-10図 カラーテレビ受像機の進歩


鉄銅

戦後における日本の鉄鋼業は,原材料輸入に有利で製品の搬出に便利な臨海部における大型一貫生産工場を中心に発展してきた。大型一貫生産に関連する技術は,前述のストリップミル及びLD転炉を始め多くの技術を外国から導入し,我が国独自に消化・洗練し,総合化することによって急速に発達し,今や技術水準,技術開発力で世界のトップレベルとなっている。

戦前の日本の鉄鋼業には,高炉一貫製鉄を行う企業もみられたが,インドからの安い銑鉄及び米国からの安いくず鉄を輸入し,平炉で製鋼する企業が多かった。その中でK社はトーマス転炉の建設,N社は日産1,000トン高炉の建設及びストリップミルの導入を行っており,これらの経験が戦後の1950年代におけるストリップミル,LD転炉の導入に際して技術的蓄積として生かされている。1960年代にはLD転炉,ストリップミルの普及に伴って高炉の大型化,そのための原料処理技術,高炉操業技術が発展した。更に,1970年代には高炉,転炉,ストリップミル等の加工工程の大型化に対応するため,転炉と加工工程を結ぶ分塊工程に連続鋳造法が導入され普及した。

この結果,造船,自動車,建設,電気製品等の産業に良質の鉄鋼が安価に供給され,これらの産業の発展が促された。現在の製鉄所の主な工程順に主要な技術の発展をみてみることにする。


1) 製銑工程(高炉)

製銑工程は原料炭から製造されたコークスにより高炉内で鉄鉱石を還元し,炭素含量の多い銑鉄を製造する工程である。製銑技術の発達は 第1-1-11図 に見るとおり高炉の大型化,出銑比の上昇,燃料比の低下によって象徴されている。

高炉の大型化は,1959年(昭和34年)N社が内容積約1,600m3 の高炉を建設したのを契機に1960年代は高炉の大型化が進み,1960年代の終わりには3,000m3 を超え,1970年代には5,000m3 の高炉が建設された。このような生産規模の拡大に伴い出銑比(高炉内容積1m3 当たり1日の出銑量)も1960年代に着実に増加し,1973年(昭和48年)には2.04と世界最良を示した。

また,銑鉄1トンの生産に要する燃料の消費量を表わす燃料比も着実に低下し,1978年(昭和53年)には461kg(うちコークス比429kg)となった。

これらの成果の基となった原料の整粒,焼結鉱比の増加,高温送風,高圧操業,重油の多量吹込み等の技術は,外国から導入された技術を更に発展させて大型高炉として具現化してきた。また,高炉内反応の分析,炉頂装入装置,炉体材料の改善等の技術開発が行われた。

第1-1-11図 製銑技術の動向


2) 製鋼工程(転炉)

製鋼工程は,銑鉄中の不純分を酸素等と化合させて除き,銑鉄を鋼にする工程である。戦前から1950年代にかけて主流であった製鋼法は平炉であり,鉄鋼各社は平炉の操業能率,原単位向上のため平炉による酸素製鋼を共同で研究し酸素製鋼を採用していた。

第1-1-12図 製鋼炉別粗鋼生産比率の推移

しかしながら,平炉の主原料である鉄くずは我が国では高価格であり供給が不安定であったため,鉄鋼各社は1953年にオーストリアのフェスト社及びアルピネ社で開発された鉄くずの使用量が少なくてもよいLD転炉(純酸素上吹転炉)に注目した。LD転炉の導入に際しては戦前からトーマス転炉の建設・運転の実績を持つN社がゼネラルライセンスを取得し,国内の各社にサブライセンスを供与した。

LD転炉は生産性が高く,国内各社も共同研究を行い改良に努めたため, 第1-1-12図 に示すようにLD転炉は操業開始後6年にして平炉と肩を並べて以後製鋼法の主流となっている。なお,平炉は1978年(昭和53年)以降日本では使用されていない。

LD転炉の急速な普及は銑鉄の大量処理が可能となり,前述の高炉大型化に大きな影響を与えた。


3) 連続鋳造工程・分塊工程

製鋼工程で精練された溶鋼は,インゴットケースで造塊され,再び均熱炉で加熱されたあと分塊・圧延され鋼片(スラブ,ビレット等)になるが,連続鋳造法は溶鋼から直接,連続的に鋼片を作る技術で,我が国には1950年代に技術導入されたが,普及したのは 第1-1-13図 で見るとおり1970年代からであり,現在では世界でもトップレベルの普及率と技術水準になっている。


4) 圧延工程

以上のようにして作られた鋼塊は,様々な用途に向くように成形,加工される。成形,加工の方法としては鋳造,圧延,鍛造等があるが主なものは圧延であるので,圧延工程をみてみることにする。圧延部門の中でストリップ(長い帯状の鋼板)を作るストリップミルは高度の技術を要するため,初期はもっぱら技術導入によっていたが国産化が進み,鋼の再結晶温度(約700゜C)以上で圧延するホットストリップミル及び以下で圧延するコールドストリップミルの生産性の向上は著しかった。特に自動車,家庭電気製品に用いられるコールドストリップは,ミルの速度の向上とともに厚みの均一化,表面処理等の品質面における技術,連続焼鈍等後処理技術などの技術進歩が著しく,自動車,家庭電気製品等の関連産業の製品の品質向上に大きく寄与している。

第1-1-13図 日本における連鋳基数と連鋳鋼比率の推移

第1-1-14図 粗鋼生産量と世界全体に対する比率


5) 鉄鋼と社会経済

以上のような技術と臨海部での立地によって鉄鋼の大型一貫生産体制は大きな発展を遂げ, 第1-1-14図 に見るとおり1960年代から70年代の初期にかけて粗鋼の生産量は飛躍的に伸びた。また世界全体に占める日本の鉄鋼業のシェアも高まり,1970年代では約16%を占めるに至り,ソ連,米国に次いで第3位の地位を占めている。

鉄鋼は「産業のコメ」として多くの産業分野で使用され国民生活に大きな影響を与え,1950年代から70年代にかけて日本の産業構造の変化に応じて,自動車,家庭電気製品向けに良質の冷間薄板類を生産するなど各産業向けに良質の基礎資材を安定供給してきた。

また,1960年代の工場の大型化に伴い発生する公害の問題が大きな社会問題となったが,原材料置場の防塵設備,高炉・転炉・焼結炉等の集塵機,高炉・コークス炉の脱硫設備・NOx低減技術等の公害防止対策の開発が行われ,工場緑化等の環境保全対策がとられた。


高分子材料

高分子材料は,1960年代に大きく生産が伸び国民生活に身近なものとなった材料である。現在我々が使用している高分子材料の多くは,1930年代に開発されたものであるが,この時期の高分子材料開発の背景には,1920年代のシュタウディンガーの高分子理論及び戦略物資である天然ゴム等の代替品開発の必要性があった。海外では1929年に塩化ビニル樹脂が工業化されたのに続き,1930年代には合成ゴムとしてネオプレン,ブナS,ブナNが,合成繊維としてナイロンが,合成樹脂としてポリスチレン,ポリエチレンが工業化され,1940年代にはポリエステル繊維が開発された。

戦前・戦時において,我が国でも塩化ビニル樹脂が小規模ながら軍需用に生産されるようになっていたが,特に技術開発が進んでいたのは合成繊維である。天然繊維の原料の大部分を輸入に依存していた我が国では,石炭,石灰,水力発電による電力等国内資源から繊維を製造することが望まれ,ビニロン,ナイロンを中心に研究が行われていた。ビニロンは,石灰を原料とするカーバイドアセチレンからポリビニルアルコールを作り紡糸するもので,京都大学を中心に我が国独自で開発し,K社が工業化の技術を有していた。

ナイロンは,米国デュポン社がアジピン酸とヘキサメチレンジアミンからナイロン66を作るのに対し,T社は石炭を原料とするカプロラクタムのみからナイロン6を作る技術を独自に開発した。

終戦直後の繊維事情は,1人当たり衣料消費量が戦前の4分の1強と,極めて悪化していた。このため,1949年(昭和24年)には商工省の省議決定「合成繊維工業の急速確立に関する件」及び資源調査会の勧告「合成繊維工業の育成」がなされ,国内資源から繊維を作る合成繊維工業を育成することとなり,上述のK社及びT社が政府の援助を受けつつ工業化することになった。

ビニロン,ナイロンともに,当初は,品質が悪い,加工技術が確立していない等の理由により衣料に用いられず,魚網等の産業用に用いられていた。

1953年(昭和28年)頃から衣料用の生産が本格化したが,合成繊維は全く新しい繊維であったため,紡績,編・織,染色,縫製等のすべての面でK社,T社等の合成繊維メーカーの技術指導が必要であり,系列化が進むとともにこれらの合成繊維メーカーは最終製品の販売に深く関与することとなった。

このような最終消費と結びついた装置産業という合成繊維産業の性格は,アクリル,ポリエステル等の新合成繊維に関しても続いた。

1960年代に入って合成繊維各社は基礎研究のための研究所とともに加工技術・商品開発のための研究所を相ついで設置し,合成繊維の品質改良と製造技術の改善に努めた。この結果ナイロンの多デニール化,ナイロン・ポリエステルの加工糸,ニット用アクリルの開発が行われ,製造技術の面でも従来のバッチ重合,チップ式紡糸から連続重合紡糸への転換が研究された。このようにして我が国は合成繊維の技術的改良を最も進めた国となった。

また,石油化学の工業化に伴い合成繊維各社は原料自給化による一貫生産を行うことによってコストダウン,品質改良を目指した。この中でT社のPNC法によるナイロン6原料のカプロラクタム製造技術,A社のイオン交換膜を使用したナイロン66原料の製造技術,K社のポリエステル原料の高純度テレフタル酸及び直接重合技術の開発などが行われた。更に,A社のソハイオ法アクリロニトリル製造設備に象徴される合成繊維原料の石油化学化が進むこととなり,合成繊維各社はこの時期に得られた技術的蓄積を基に1970年代には繊維以外の多くの高分子材料,化学品を生み出していった。

以上のような技術を背景に合成繊維糸の生産量は, 第1-1-15図 に見るように1960年代に急成長し,1966年(昭和41年)にはスフ糸,アセテート糸等の再生繊維糸を,1969年(昭和44年)には綿糸,毛糸等の天然糸の生産量を上回ることとなった。

このため,合成繊維各社は内需の増加と輸出の振興によって大量生産に見合う大量需要を創出することが必要となった。1960年代の初期には,合成繊維各社は従来ファッション性が薄く需要の大きくなかった水着等のレジャーウェアやビジネスウェアの分野でファッション・キャンペーンを行うことにより需要の創出を行い,1960年代の半ばからはパリモードのデザイナーと結びつきタウンウェア,レジャーウェアを中心に色・柄・形の豊富なファッションを普及させてきた。輸出に関しても市場の開拓に努め,1960年(昭和35年)には11%であった輸出比率も1969年(昭和44年)には44%となり,合成繊維糸の半量近くが輸出されることとなった。

合成繊維以外の高分子材料としては合成ゴムと合成樹脂があるが,合成ゴムは自動車工業の成長にも支えられて急成長し,1966年(昭和41年)から合成ゴムの消費量が天然ゴムの消費量を上回っている。しかしながら,合成繊維と並んで我が国の社会経済に大きな影響を及ぼしたのは合成樹脂であり,以下,塩化ビニル樹脂を中心に合成樹脂の技術及びその影響をみてみることにする。

第1-1-15図 繊維生産量推移(糸ベース)

戦前の合成樹脂はフェノール樹脂,ユリア樹脂等を中心とする熱硬化性樹脂であったが,戦後,熱可塑性樹脂の進展が目ざましく1957年(昭和32年)に熱可塑性樹脂の生産量が熱硬化性樹脂を上回って以来,合成樹脂の中心は熱可塑性樹脂となっている。なかでも塩化ビニル樹脂は1950年代,60年代をリードしてきた樹脂であり,製造技術の面でも大きな変ぼうをとげてきた。

塩化ビニル樹脂の有用性が本格的に我が国に紹介されたのは,終戦後のG HQ民間情報教育局の資料や文献及びフィルムやシートの裁断くずの輸入によってである。また,原料面では,食糧増産のため肥料工業が重点的に復興された結果,水力発電によって得られた電力で石灰石からカーバイドを作り,石灰窒素を製造するカーバイド工業も急速に成長しており,ソーダ工業も化学繊維向け等を中心に復興しつつあり,副産物である塩素が過剰となるなど工業化の条件が整っていた。このため,多くの化学会社が塩化ビニル樹脂の製造を企画し,製造を開始した。

当時の製造法は,アセチレンと塩化水素から塩化ビニルモノマーを作り,乳化重合することにより塩化ビニル樹脂を製造していたが,1950年(昭和25年)に製品の品質及び加工性の良い懸濁重合法が米国から技術導入され,国内の各社も懸濁重合法の開発及び転換を進めた。また,初期の塩化ビニル製品はベルト,レインコート,テーブルクロス等軟質品が主であったが,1950年代半ば頃から硬質押出しによるパイプの製造が始められ,硬質板,レコード,雨樋,床材,電話機など硬質品の分野でも使用可能となり,農業用塩化ビニルフィルム等軟質品とともに多くの分野で塩化ビニル樹脂が使用されることになった。このため 第1-1-16図 に見るとおり,生産量は急増した。

一方,石油精製業の復興に伴い,自動車の普及が遅れていた我が国ではナフサ(粗製ガソリン)が豊富に供給されるようになったこと,米国において石油化学が新しい化学工業として発展しつつあったことなどから,1955年(昭和30年)に通商産業省は「石油化学工業の育成対策」を省議決定し,石油化学関連の技術導入の認可が開始され,川崎,岩国,四日市,新居浜などで石油化学工業が発足した。合成樹脂ではポリエチレン,ポリスチレンが製造されたが,これらは輸入品による市場開拓及び塩化ビニル樹脂による加工技術,市場開拓が行われていたため 第1-1-16図 に見るように順調に生産を増加させた。

第1-1-16図 主要合成樹脂の生産量の推移

1960年代に入って,塩化ピニル樹脂は原料のアセチレン不足等の問題があり,原料の石油化学化が進んだ。塩化ビニル樹脂の石油化学化はEDC(エチレンジクロライド)法の導入に始まるが,EDCは石油化学コンビナートのエチレンと電解法に転換し大きな生産能力を有するに至ったソーダ工場の塩素の消費先として好適であったため政府もEDC法の導入に積極的であり,1964年(昭和39年)以降EDC法を採用する工場が多くなり, 第1-1-17図 に示すとおり1969年(昭和44年)からは石油化学による塩化ビニル樹脂の生産量が従来法によるものを上回ることになった。

石油化学方式による塩化ビニル樹脂原料製造技術としては,EDC法以外のものもあるが,このうちオキシクロリネーション法,オキシ/EDC併用法は導入技術の改良又は自主開発で実用化された。混合ガス法は高分子原料開発研究協同組合の基礎的な研究を基にK社が実用化したもので,ナフサ分解によりアセチレンとエチレンを併せて作り,アセチレン法とEDC法を組み合せて塩化ビニルモノマーを作るものである。K社は,更に,1970年(昭和45年)には原油を高温で直接分解してアセチレンとエチレンを得る技術も開発した。

また,この年代には重合技術の面でも重合缶の大型化・洗浄法の改良,電子計算機による制御,高性能触媒の開発,乾燥機の改良,ポリマーの改質,安定剤・添加物の開発が進み,東南アジア,欧米に塩化ビニル樹脂関連の技術を輸出するようになった。

合成樹脂工業は,1960年代に急速な発展を遂げ, 第1-1-18図 に示すとおりポリエチレン,ポリスチレンの価格も急速に低下した。このため,1960年代の初期にあったポリエチレンと塩化ビニル樹脂の価格差は1960年代末にはほとんどなくなり,塩化ビニル樹脂からポリエチレンへの代替,新規分野へのポリエチレンの進出等があり,1968年(昭和43年)以降はポリエチレンが合成樹脂の中で最も生産量の多い樹脂となった。

また,塩化ビニル樹脂は,1960年代に廃棄物処理問題,塩化ビニル製建材の発煙問題,アセチレン法塩化ビニルモノマー工場の水銀触媒問題等の公害問題が起こり,1970年代に入っても添加物の安全性問題,塩化ビニルモノマーの安全性に関する問題が起きたが使用法の改善,技術開発などによって対応してきている。

第1-1-17図 塩化ビニル樹脂の石油化学化率の推移

第1-1-18図 主要合成樹脂の価格の推移


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