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第1部   時代を拓く科学技術
第1章  戦後から現在までの科学技術発展の軌跡
第1節  戦後及び1950年代
3.  科学技術の重要性認識及び体制整備


戦時中,我が国の科学技術活動は,軍事関連を除きほぼ停滞していたが,この間欧米先進国では既に産業界を中心に技術革新が始まっていた。終戦時において我が国と欧米先進国との科学技術格差は歴然としたものであり,「日本を復興させるには科学技術しかない」といった声もあがり,科学技術の重要性は戦後すぐに認識された。しかしながら,占領当時は,科学技術政策もGHQの管理下に置かれ,科学部等の指導や助言をうけていた。

資源に乏しい我が国の国情を踏まえ,資源の開発と有効利用を図るため,積極的に近代科学の成果を取り入れることを目的として資源委員会が1947年(昭和22年)経済安定本部に置かれた。

科学技術政策面では,1947年学術体制の刷新を推進するため,内閣総理大臣の諮問機関として学術体制刷新委員会が設置され,その答申案を基に1949年に日本学術会議が発足した。また,日本学術会議と緊密に協力して,科学技術を行政に反映させるための方策や各行政機関相互の科学技術に関する行政の連絡調整に必要な措置を審議することを目的として同じ年に科学技術行政協議会(STAC)が総理府に設置された。また,1948年には工業技術庁(1952年工業技術院に改称)が設立され,1949年には新制大学が発足した。

この当時,国民の多くは伝染病の流行等や食糧難に脅やかされており,まず第1に生きるための科学技術が要請された。保健・衛生面の体制整備としては,終戦直後の伝染病対策はもとより広く厚生行政の科学的基礎づけを行うため,1947年(昭和22年)国立予防衛生研究所が設立され,1948年には地方公衆衛生の向上に寄与するため,以前からあった細菌検査所,衛生試験所その他の試験研究機関を統合し地方衛生研究所が発足した。農業面における体制整備としては,1950年(昭和25年)戦前専門別に分化独立していた機関を整備統合するとともに,基礎研究を主とする農業技術研究所,応用研究を主とする地域農業試験場,実用研究を主とする公立農業試験場とに編成替えした。

この間,民間における科学技術活動は,極度の社会経済の混乱の中でほとんど見るべきものはなかったが,電子部品,輸送用機器,化学などの一部に技術者を創業者として技術開発による新製品の開発がスタートしていた。

1950年代になり,経済の復興がなされるに従って科学技術の重要性の認識が高まり,1953年(昭和28年)経済審議会から「経済自立のための3目標・4原則」が発表され,4原則の一つに科学技術の振興が掲げられた。これは「輸出商品の国際競争力を強化し,また国内資源の合理的開発を図るには,科学技術の振興が必要で,これは同時に新産業の育成,雇用機会の造出にも役立つ」としたものであった。

本格的な経済成長は,1955年(昭和30年)頃から始まるが,科学技術政策もこの時期には急速な展開をみた。

1955年閣議決定された「経済自立5か年計画」は高度成長を目標に掲げ,施策の第5に「科学技術の振興」を挙げている。この施策の内容は,先進諸国に比べ著しく立遅れを示している科学技術水準を向上させるため,研究者の創意工夫と自立性の尊重,研究体制の整備強化,研究の計画的推進,研究成果の普及浸透の促進等を挙げ,さらに原子力の平和利用についても述べたものであった。

戦後我が国における原子力に関する開発研究はしばらくと絶えていたが,1952年(昭和27年)に対日講和条約が発効するとともに次第に原子力の平和利用に対する関心が高まり,1954年には我が国最初の原子力予算が成立した。

1955年にはジュネーブで原子力平和利用国際会議が開催され,我が国も参加したが,この会議を一つのきっかけとして原子力の研究開発体制整備の必要性の認識が高まり,12月にはいわゆる原子力三法(原子力基本法,原子力委員会設置法,原子力局の設置を規定する総理府設置法の一部改正法律)が公布されるに至った。1956年(昭和31年)には,「原子力の研究開発及び利用に関する国の施策を計画的に遂行し,その行政の民主的な運営を図る」ため原子力委員会が設置された。また同年,原子力の研究体制の整備を目的とした日本原子力研究所と核原料物質及び核燃料物質の探鉱,採鉱,製錬,管理を行う目的で原子燃料公社(1967年動力炉・核燃料開発事業団に改組)が設立された。

原子力委員会は1957年(昭和32年)「発電用原子炉開発のための長期計画(原子力開発利用長期基本計画)」を策定し,それに基づいてコールダーホール型改良炉の導入が図られることになった。また,我が国初の原子炉であるウォーターボイラー型原子炉JRR-1が米国から輸入され,1957年には臨界実験に成功し,東海村に日本最初の原子の火がともった。

宇宙開発については,本格的な開発は1960年代になるが,1955年(昭和30年)東京大学生産技術研究所のペンシルロケットが初テストに成功した。

また,航空技術については,敗戦により研究が中断されていたが,1954年(昭和29年)に総理府に設置された航空技術審議会の答申に基づいて,1955年航空技術研究所が総理府附属機関として誕生し,試験研究体制が整った。

そのほか,この時期には民間でトランジスタラジオ,電子顕微鏡,エサキダイオードなど新しい研究開発が進められた。

1955年には衆議院に科学技術振興対策特別委員会が設置されたのに続いて,1956年には一般会計予算中の主要経費として新たに科学技術振興費が設けられた。

1952年(昭和27年)講和条約が締結されると我が国の政治体制は本来の姿となったが,同時に科学技術行政の総合的推進官庁を設置すべきであるという意見が各界から高まった。1956年(昭和31年)総理府の内部部局であった原子力局,総理府の附属機関であった科学技術行政協議会の事務局,資源委員会を改称した資源調査会の事務局を中心として,我が国の科学技術行政の総合的推進官庁としての科学技術庁が発足した。さらに,総理府の附属研究所として設置された航空技術研究所は,科学技術庁発足と同時に附属研究所となり,また,金属材料の品質の改善を図るため,金属材料技術研究所が同庁発足後設置をみた。

一方,科学技術の研究開発を効率的に推進するためには,情報流通体制の確立が必要とされ,1957年(昭和32年)日本科学技術情報センター(JICST)が設立された。

また,科学技術庁が発足した同じ年,農林水産試験研究機関の有機的連携の強化と試験研究の効率的運営を確保することを目的として,農林省農林水産技術会議が設置された。

1957年「新長期経済計画」が閣議決定されるが,この計画では,適正な経済成長率6.5%を長期にわたって保証するのは技術の進歩,特に世界的技術革新であるとみなした。

1950年代後半において,国民の科学技術に対する認識や関心を高めたものとして,1957年のソ連の人工衛星スプートニクの打上げ成功とともに我が国の南極観測参加があげられる。1957年から1958年にかけては国際地球観測年に当たり,我が国も南極観測をはじめとして全観測種目に参加した。特に南極観測の予算は,1956年度(昭和31年度)7億5千万円計上されたが,これは,同年度の科学技術振興費に対比して7%に相当し,また文部省科学研究費に対比して60%以上に相当するといった大きなものであった。

さらに1957年(昭和32年)には,11省庁の閣僚からなる科学技術関係閣僚懇談会が設置され,新しい科学技術振興政策の検討が始められた。この結果,理工系大学の拡張と科学技術行政機構の強化が決定し,1959年科学技術政策に関する内閣総理大臣の諮問機関として科学技術会議が発足した。内閣総理大臣は,科学技術一般に関する基本的かつ総合的な政策の樹立に関することや科学技術に関する長期的かつ総合的な研究目標の設定に関することなどについて,関係行政機関の施策の総合調整を行う必要があると認めるときは,科学技術会議に諮問しなければならず,科学技術行政上の強力な機関として位置づけられた。科学技術会議は1960年(昭和35年)に閣議決定された「所得倍増計画」に対応して,「10年後を目標とする科学技術振興の総合的基本方策について」を第1号答申として以来, 第1-1-5表 に示すとおり現在まで8件の答申及び7件の意見具申を行っているほか,多数の報告等を取りまとめている。

第1-1-5表 科学技術会議の答申


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