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第1部   時代を拓く科学技術
第1章  戦後から現在までの科学技術発展の軌跡
第1節  戦後及び1950年代
2.  経済復興・自立のための科学技術


我が国は明治以来,欧米諸国の進んだ技術を積極的に取り入れ,その消化吸収に努め,昭和の初めには外国に比肩できる水準のものもみられるようになっていた。しかしながら,1941年(昭和16年)太平洋戦争に突入し,外国との接触がと絶え,世界の中で我が国は孤立を深めつつ敗戦を迎えた。

終戦時における我が国の工業は,生産施設の破壊,原料不足などで崩壊にひんしていた。特に生産施設の破壊は大きく, 第1-1-2表 に示すように生産能力の低下は各業種にわたった。

このような混乱のなかから縮小再生産が始まったが,戦時中にも自主技術開発が一部にはなされたものの戦争による欧米諸国との交流のしゃ断は,技術の著しい格差を生み出し,また破壊を免れた生産設備も老朽化したものとなっていた。

第1-1-3表 は終戦直後における世界と日本の主な技術格差を「技術白書(工業技術庁編 昭和24年)」に基づき整理したものである。

この表からわかるように,戦争による孤立は我が国に技術の大幅な停滞をもたらし,一方,世界(特に米国)においては著しい技術の進歩を遂げていた。主要部門における日本と米国との技術の隔たりは,造船部門では戦時戦後のわずか8年間で約30年のギャップといわれ,鉄鋼部門では技術水準が20年,著しいものでは30年の隔たり,紡績部門においても機械化の進展が約10年の隔たりをつくったといわれる。また労働生産性においても著しい隔たりができて,例えば石炭では5%以下,化学工業全体として5%,人絹工業で20%以下,ゴム工業としても10%程度という低率になっていた。

このような技術格差や生産格差を生んだ主要な原因は,米国において生産設備の目ざましい機械化,自動化が行われたことと,工場の科学的管理方式が極度に発達したことによるものであった。

政府は鉱工業の復興を図るため,石炭の2割の増産は工業生産を4割増産するという考えから,石炭3,000万トン生産のための傾斜生産方式を決定し,次いで鉄鋼と石炭の超重点対策を打ち出した。

また,非能率化した設備,資材,技術等の生産要素によって,生産力を急速に回復しなければならず,その技術的生産条件の再建整備に当たって,これを最も無駄の少ない,能率的な形で達成するため,工業製品の規格を統一する工業標準化法が制定され,これによって工業の規格は国際的な関連を持つようになった。更に技術を国際水準へ直接接近させるため,研究者の海外への渡航や研究用機械の輸入の促進がなされるとともに外国技術の積極的な導入を図ることとなった。

外国技術の導入は,1950年(昭和25年)に制定された「外資に関する法律(外資法,甲種技術援助契約)」によって活発に行われた。「外資法」制定当時の国際経済取り引きの基本法としては,1949年に制定された「外国為替及び外国貿易管理法(乙種技術援助契約)」があり,「外資法」はこの基本法の特別法として特定の外資導入を積極的に行おうとするものであった。すなわち,「外資法」は戦争による我が国技術の立ち遅れを急速に取り戻すために,特定の技術に関して長期の技術援助を積極的に認可し,長期にわたって技術料の対外送金を保証することにより,我が国に対する優良外国資本の投下のための健全な基礎を作ることを目的として制定された。

以下においては,1950年代の外国技術導入の状況と主要分野の技術導入について述べることにする。また,このような技術導入に加え,この時代には現在の我が国の技術を支える品質管理の手法も導入され,オートメーションも導入されたが,これらについても触れることにする。

第1-1-2表 終戦時における生産能力の被害

第1-1-3表 終戦直後における世界と日本の主な技術格差




外国技術導入

「外資法」及び[外国為替及び外国貿易管理法」によって,外国技術の導入は1950年以降年々盛んになり,1950年代は甲種1,029件,乙種1,303件,合計2,332件の技術導入がなされた。外国技術導入の年度別推移は 第1-1-6図 に示すとおりであるが,契約期間又は支払期間が1年を超える甲種技術援助契約の件数増加と対価支払額増加は著しいものであった。また,分野別及び国籍別件数は 第1-1-7図 に示すとおりであり,分野別ではすべての分野にわたって技術導入がなされたといってもよく,特に機械,電気,化学製品,鉄鋼・非鉄金属の基幹産業4分野で全体の70%以上を占めていた。国籍別件数では米国が全体の約3分の2を占めており,第2次世界大戦前後の米国における技術の進展が伺われる。

このように,1950年代の外国技術の導入は年平均230件にも上ったが,外国技術導入が開始された直後と,朝鮮戦争が休戦した1953年(昭和28年)以降とでは技術導入の内容がやや異なっていた。すなわち,外国技術導入が開始された当初は,もっぱら外国技術との立ち遅れを埋めるための技術導入であった。 第1-1-4表 は1950年(昭和25年)から1952年にかけて導入された甲種技術270件のうち,主要部門における主な導入技術30件をまとめたものである。

これらを含めて,この時代に導入された技術は,第2次世界大戦前あるいは大戦中に諸外国で開発された技術で,我が国の戦中,戦後の技術の立遅れを回復するために効果的なもの,あるいは鉄鋼におけるストリップミル,テレビ製造技術,螢光灯製造技術,石油精製技術など従来我が国において技術蓄積の空白な分野を埋める技術が中心であった。

第1-1-6図 外国技術導入の認可件数及び対価支払金額

第1-1-7図 外国技術導入実績

第1-1-4表 1950 〜1952年(昭和25 〜 27年)における主な導入技術

1950年(昭和25年)朝鮮戦争勃発は,我が国に大量の特需をもたらし,輸出が増大した。生産が急速に伸びて,鉱工業生産指数は1950年のうちに戦前(1935年)の水準を突破し,これを契機に産業界は,資本蓄積をもとに設備の近代化を進めた。1952年末から1953年にかけて技術導入ラッシュが始まるが,この期以降の技術導入は戦前の軍需用から戦後民需用に転換した産業部門における技術導入と戦後の最新技術の導入が中心であった。

以下,1950年代における主要分野の技術導入の状況についてみてみる。

1) 石炭鉱業は傾斜生産のための設備増に対応するために,採炭,運搬,選炭,掘進等様々な技術導入を行った。特に,採炭における摩擦鉄柱カッペ(鉄製のはり)の技術は1947年頃から日本に紹介され,1953年(昭和28年)に西ドイツから技術導入され,その後の炭鉱の機械化に寄与した。また,立坑開さく技術も西ドイツから導入され,従来の斜坑方式から立坑方式への転換が行われた。
2) 重電機産業は,技術格差が大きく機械が大型で研究開発を行う余裕が少ないなどの理由により技術導入の比重が高く,有力なメーカーであるT社,M社,F社はそれぞれ米国又は西ドイツのメーカーと包括契約を結んだ。
3) ラジオについては,テレビの特許との関連もあり,RCA社と技術援助契約を結んだが,その後トランジスタラジオを含めAMラジオ,FMラジオについて技術援助契約を結んだ。テレビについても当初外国の3社(後に1社を加え4社)の特許に関し,技術援助契約が必要であり,1952年(昭和27年)4社,1953年32社が技術導入を行った。なお,1953年頃のロイヤリティは4.7%であったが,1959年(昭和34年)には2.85%になった。
4) トランジスタに関する研究は,ベル研究所の発表後日本においても徐々に行われており,1953年頃には量産試作の段階にまでなったが, トランジスタに関する基本的特許はWE社が有していたため,S社をはじめ各社はWE社から技術導入を行い,更にRCA社,GE社からも技術導入を行った。
5) 鉄鋼業は,その生産の回復が急がれ数多くの技術導入がなされたが,大きな影響を与えた技術はストリップミルとLD転炉である。 鋼塊から長い帯状の鋼板を作るストリップミルは,戦前にも導入されていたが,本格的導入は1951年(昭和26年)にF社が技術導入したことに始まり,以後製鉄会社及び製鉄機械メーカーが相次いで技術導入した。ストリップミルにより,鉄鋼業は造船業,自動車工業,家庭電気製品工業等に良質な鋼板を大量に供給することが可能となった。 純酸素上吹転炉(LD転炉)法は,転炉において純酸素を上から吹き付けて鋼を精錬する技術で,1953年オーストリアのフェスタ社等において工業化され,日本では1956年(昭和31年)に,従来から転炉の経験を持つN社がゼネラルライセンスを取得し,1950年代末までに各社にサプライセンスを供与している。
6) 石油化学工業は戦後に始まった産業であり,主要技術はほとんど技術導入によっている。石油化学の原料となるナフサ分解によるエチレンの製造技術は,S&W社の技術であったが,主要製品であるポリエチレンの製造技術については多くの技術導入がなされた。また,1960年代に入ってからは,プロピレンの有効利用技術としてポリプロピレン,アクリロニトリル等の製造技術が導入され臨海部におけるコンビナート形成が促進された。
7) 合成繊維は,デュポン社がナイロンを開発し急速に進歩したが,T社は戦時中独自にナイロン6(デュポン社はナイロン66が中心)の製造技術を開発した。この技術は,デュポン社の技術と異なるものであったが,編・織,染色加工等の技術に関する特許をデュポン社が有しているため,T社は1951年(昭和26年)に技術導入を行った。ポリエステル繊維は,ICI社が世界的に特許権を持ち,1953年にデュポン社,1955年にICI社が製造を開始したが,1957年(昭和32年)にT社とE社が技術導入を行った。
8) 医薬品,農薬については前に触れたが,ストレプトマイシン(1951年),サルファ剤(1951年),クロラムフェニコール(1951年),DDT(1951年),2,4-D(1950年),パラチオン(1953年)などの技術導入が行われ,国民の健康増進,食糧増産に寄与した。
9) 造船業について見れば,技術水準の向上は溶接率の向上を起点として始まっている。日本の造船業の溶接率の向上には,運輸省船舶局の試験輸入等が寄与しており,溶接機は1951年(昭和26年)にユニオンメルト溶接に関する技術導入が行われ,1951年,1952年頃は造船業の近代化は溶接関係の投資を中心に行われた。以後スタッド溶接(1956年),ユニオンアーク溶接(1959年)等の技術導入が行われた。
10) 土木技術については,米国をはじめ先進諸外国の新技術の導入があらゆる面でみられた。 機械化施工技術としては,パワーシャベル,ロードローラ,トラックコンクリートミキサー,土質検査機,大型トラクターなどが導入され,土木工事の能率を飛躍的に増大させ,建設工事の合理化をもたらす要因となった。 ダム建設技術,高速自動車道路に関する技術も1951年(昭和26年)から数多く導入された。 また,プレストレスト・コンクリート技術も1952年(昭和27年)に導入され,1950年代後半には急速に普及した。

外国技術の導入は,各企業が新技術を導入することによって技術水準を高め,競争力を強めるために行われたが,その努力の結果は急速な国際水準への接近となった。朝鮮戦争における特需に引き続き輸出が増加し,金属機械,化学,繊維など我が国の基幹産業に多くの需要をもたらした。その結果,重化学工業の発展を急速なものとし,活発な設備投資が行われた。これらの部門では,導入技術を消化吸収しそれを基にした技術革新によって,その製品は国際水準に比肩できうるものとなった。国際市場への参入は,技術面では外国技術の導入によるところが大であったが,品質向上面,生産性向上面においてもその努力は大きな役割を果たしていた。以下においては品質管理及びオートメーションについて述べることにする。


品質管理及びオートメーション

製品の品質を維持し,その向上を期するために用いられる経営管理の手法を品質管理というが,日本の製品に対して,戦前は「poor quality but cheap(質は良くないが安い)」であり,戦後においては「poor quality and high(質が良くなくて高い)」との評判が輸出市場にたちつつあった。技術の力によって1日も早く良質かつ低廉な製品を世界市場に供給するという願いは,戦後経済再建の中で大きな目標であった。

1949年度(昭和24年度)の工業技術振興運動の標語は「光る技術に明るい輸出」で,品質管理の必要性を的確に表現していた(工業技術庁編技術白書)。

統計的手法の生産工程への応用は,日本でも大正期から検討されていたが,米国ではシューハートを中心に品質管理手法の開発が進められ,第2次大戦後に日本に導入された。当初は通信網の回復を目指し,通信機メーカーが対象となっていたが,1949年(昭和24年)に工業標準化法によるJIS表示制度の発足及び日本規格協会,日本科学技術連盟による品質管理講習の開始があり,1950年にはシューハートの門弟であるデミングが来日し,品質管理の講演が行われた。このときのデミングの講演録の印税等をもとに,1951年に日本科学技術連盟がデミング賞を制定した。また,1953年(昭和28年)には抜取検査通則等が品質管理に関するJISとして制定された。これらの動きにより,品質管理は通信機メーカー以外の多くの企業にも導入され,初期のデミング賞受賞会社をみると電気以外では鉄鋼,薬品,化学,繊維関係の会社が多く,1950年代及び60年代の成長を担った産業が品質管理の導入に努めていた。

1950年代後半には,品質管理への関心が技術者のみではなく管理者,経営者にまで広がり,これらを対象として講習会も開催された。1960年代に入ってQC(品質管理)サークルの動きが始まり1963年(昭和88年)にはQCサークル大会が開催された。また現場での品質管理を容易にするため「7つ道具(パレート図,特性要因図,散布図等)」も普及した。このように1950年代後半から60年代前半にかけて,品質管理の技術と関心は企業の中に浸透し,全社的あるいは総合的な品質管理が行われるようになった。近年,日本の工業製品は,輸出市場において品質管理が良くなされており優れていると評判が高いが,品質管理手法が生まれた米国では専門家の手にゆだねられており,企業全体のものとはなっていない。この意味から,品質管理は外国で生まれた手法ではあるが,日本の土壤に適合し,育成され開花した技術であると言えよう。

1950年代前半に,米国の自動車工業で採用されたオートメーションは,我が国においては1955年(昭和30年)頃から多くの紹介が行われた。我が国の場合,労働力が欧米先進国に比べ豊富低廉でかつ移動性に乏しいことから,オートメーション化の促進は労働力不足に対処するというよりも「我が国経済発展のために必要な生産性及び品質の向上並びに重化学工業化の推進のための有力なテコ」と位置付けられた。以来多くの産業で機械化,合理化が進み,オートメーションは我が国産業の国際競争力強化に貢献してきた。


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