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第1部   時代を拓く科学技術
第1章  戦後から現在までの科学技術発展の軌跡
第1節  戦後及び1950年代
1.  生存のための科学技術


戦争によって我が国は,全国119都市が空襲爆撃による戦災を受け,900万人にも及ぶ人々が焼け出されたが,このような戦災の焦土に海外からの復員者,引揚者が戦後2年間で600万人強加わり,国民の多くは今日明日の衣食住にさえ困窮する状態であった。

1945年(昭和20年)の農業は,夏の冷害に秋の水害,肥料不足といった悪条件が重なって大凶作となり,また戦後の混乱により農民の食糧供出意欲は低下し,量的不足をもたらしたため,配給量の引下げ,遅配,欠配と不足状態は深刻化し,国民は食糧入手に奔走した。1946年度(昭和21年度)の国民1人当たり供給カロリーは, 第1-1-1図 に示すとおり1,448カロリーで,戦前の1939年度(昭和14年度)に比較し70%弱,現在(昭和53年度)と比較すると60%弱であった。

しかもその内容をみると米の割合は低下し,いも類等の代用品の割合が高まり,粗悪な内容となっていた。また,家計に占める食費の割合も高く,1946年(昭和21年)の都市全世帯エンゲル係数は66.7%であった。

一方,伝染病は既に戦争が苛烈になった1943年(昭和18年)頃から流行の兆はあったが,海外からの復員,引揚げに伴って我が国に常在しない発疹チフス,痘そう,コレラなどの伝染病が爆発的な流行を示し,1946年には 第1-1-2図 に示すとおり全国的な流行となり,これらの患者数は数万人の多きを数えるに至った。そのほか腸チフスやパラチフス,ジフテリアなども流行し,また赤痢の全国的な蔓延をも見るまでになり,国民の保健・衛生状況は極度に悪化していた。

このような深刻な食糧難やしょうけつを極めた伝染病等に対処するため,食糧確保の面では開拓などによる耕地の拡大と既耕地における単収(10アール当たり収量)の増大を図ることが緊急の課題であった。特に米については戦前から開発が進められてきた品種改良の成果の結実,工業の再建による化学肥料の増産とこれに伴う施肥の合理化,海外から導入された新しい農薬等の普及,保温折衷苗代に代表される早期栽培技術,土壌改良,水管理の実施等によって単収は増大し,食糧事情は順次緩和された。稲作における科学技術の進展は土地生産性を高め,主食の安定供給をもたらすとともに労働生産性をも高め,農家に余剰労働力を生じさせた。余剰労働力は主として第2次産業に流出することによって,1960年代の高度成長を支える一因となった。

保健・衛生面では,伝染病の流行等に対し,当時医薬品工業は他の工業と同様ほとんど壊滅的な状態で,直ちにワクチン等医薬品の製造を満足に行える状況になかった。このため連合国総司令部(GHQ)のワクチン援助は,初期において大きな成果をもたらした。この間ワクチンやDDTの国内生産が始まり,また国立予防衛生研究所の設立など保健・衛生面の体制整備が進んだ。

我が国に常在しない発疹チフスなどの伝染病は1951年頃にはほとんど終息したが,戦前から死因に高い割合を占めていた細菌感染による「全結核」,「肺炎及び気管支炎」及び「胃腸炎」は戦後も依然として重大な問題であった。しかし,ストレプトマイシン,ペニシリンなど抗生物質をはじめとする化学療法剤が外国より導入され,また我が国においてもカナマイシンなどの抗生物質の開発がなされ,これらの病気の死亡率は1950年代半ばまでには急激な低下を示し,以後も低下傾向をたどった。これらに代わって脳血管疾患(脳卒中)や悪性新生物(がん)及び心疾患(心臓病)の国民の死因に占める割合が増加傾向となり,この対応に重点が移った。

以上のように,終戦直後は飢餓や疾病から逃れることが国民にとって重大事であり,まさに生存のための科学技術が要請された時代であった。以下においては,終戦直後から1950年代を中心にして,その具体的対応についてみてみることにする。

第1-1-1図 国民1人当たり供給カロリーとエンゲル係数の推移

第1-1-2図 戦前及び終戦直後の主な伝染病の推移


食糧増産

戦後の混乱期から1950年(昭和25年)の朝鮮戦争の頃まで,我が国農業の目標は食糧増産であり,開拓などによる耕地の拡大を図るとともに,農業技術の向上による既耕地の生産性向上を目指したが,この段階では食糧増産は主として既耕地における単収の増加などに期待するほかなかった。

このような事態の下においては,品質よりも収量本位の品種の育成・普及が急務とされた。水稲については,1927年(昭和2年)から国家的規模で育種が行われ,終戦直後においては旭等の在来種に加えて農林番号を付された良質品種の作付面積が増加していたが,当時の厳しい肥料事情に制約され,少肥栽培適応性の高い農林18号,陸羽32号が多く作付けされた。終戦直後に育成された多収穫品種としては,金南風(きんまぜ),藤坂5号,ギンマサリなどがある。

1950年代になると,国民の基礎的なカロリーはほぼ充足されるが,主食である米の不足は依然として続いていた。藤坂5号が1953年(昭和28年)の冷害年において耐冷・多収性品種としての真価を十分に発揮するとともに,金南風が1954年の米作日本一の栽培品種として注目を浴び作付面積も増加したが,工業の再建によって肥料供給事情が好転したため,化学肥料をできる限り多量にかつ効率的に吸収利用できる形質を備えた耐肥性多収品種の研究開発が進められ,例えば青森県農試藤坂試験地において藤坂5号よりも収量性が高いトワダが1956年(昭和31年)に育成された。一方,増収や生産の安定のための病害虫防除の徹底についての強い要請に対処し,農薬の海外からの導入,国産化が行われ,病害虫の防除に画期的な役割を果たすとともに,除草面にも著しい効果を示した。すなわち,病害虫に対する農薬としては,1938年スイスで合成された強力な殺虫剤であるDDTが導入され,農事試験場でエステル油乳剤に加工し,ニカメイチュウ幼虫に試験した結果,食入防止に効果があることが判明し,農林省認定農薬として実用化された。また,1943〜45年頃にフランス及びイギリスで独自に合成された強力な有機合成殺虫剤であるBHCに続いて,1944年ドイツで合成された有機リン殺虫剤であるパラチオンや殺菌効果を示す有機水銀剤が導入され,民間企業で試作され国産化に移された。これらの殺虫剤は,食糧増産の中心である稲作で効果を挙げ,水稲の主要な病害虫とされるウンカに対するBHC,ニカメイチュウに対するパラチオン及びいもち病に対する有機水銀剤が1953年(昭和28年)頃から全国に爆発的な普及をみた。

一方,除草剤は1941年米国で合成された植物成長ホルモン2,4-Dが戦後すぐ輸入され,1950年(昭和25年)には国産化にも成功して,1955年以降に全国的な普及をみた。

以上のような農薬の普及は,増収と生産の安定化に大きな役割を果たすとともに,除草に費やされる労働時間をも年々減少させ,炎天下の重労働を解放した労働節約効果は大きなものであった。

この時代における画期的な水稲技術として,品種改良のほかに保温折衷苗代の普及が挙げられる。この技術は,春先の低温から稲の苗を守るために1942年(昭和17年)長野県の一篤農家が試み,長野県農試によって技術的に確立されたものであり,1947年(昭和22年)保温折衷苗代と命名され,1950年(昭和25年)から農林省によって普及に移されたものであった。この技術の開発により発芽歩合の向上,苗の生育の健全化と斉一化に効果があがり,さらに播種期の早期化が図られ作期の前進が実現した。このことは稲の栄養生長期間の確保を可能にしで生産の安定化と増収をもたらし,1953年,54年と続いた冷害に大きな効果を表わしたことから,寒冷地の一般的苗代として従来の通し苗代に代わって定着した。保温折衷苗代普及本田面積は,1950年(昭和25年)には全面積の1.6%に過ぎなかったが,1956年(昭和31年)には11.5%を占めるようになり急速な普及となったが,それ以降保護苗代普及に寄与したのは,石油化学の発達に伴う合成樹脂製フイルムの出現であった。ビニル,ポリエチレンなどは保温力,防水性,光線透過率などの点で,従来の被覆用として利用されていた油紙よりはるかに優れた特質を備えていた。

1955年(昭和30年)を境として,我が国経済は高度経済成長に移行し,製造業や化学工業の著しい発展は,農業機械,農薬などの農業生産資材の開発を可能にして,その製品は豊富に農業部門に供給された。農業機械では,動力耕うん機が戦前の技術段階に相応する低速水冷式から脱却し,1950年(昭和25年)民間企業より中速水冷エンジンが発表され,高性能化,軽量化が図られ,中速水冷エンジンによる動力耕うん機の普及が始まっていたが,全国的な普及をみたのは1960年(昭和35年)以降であった。1950年代後半には,1950年代前半に国産化が進展した有機合成農薬が全国的な普及段階に入り,また高速軽量な空冷式エンジンが実用化されたこともあり,動力防除機が徐々に普及し始めていたが,1950年代の機械化の特徴は,原動機及び動力脱穀機の急速な普及であった。他方除草剤は,従来の水溶液から扱い易い粒状剤が開発され,これらによって稲作労働は更に軽減された。

水稲の品種については,食糧事情が緩和されるにつれて産米改良の機運が興ったが,高米価に支えられたこともあって引き続き多肥多収性品種の作付面積が多かった。1955年(昭和30年)には水稲の生産量は1,200万トンを超え,その後も同水準の生産を続け米不足は次第に緩和された。

以上述べてきたように,終戦直後における食糧難は1950年(昭和25年)頃には基礎的カロリーがほぼ充足され,その後における品種改良,化学肥料,農薬など科学技術の進展による農業生産の増大によって,1950年代後半には栄養価は2,200カロリー台と戦前を上回るようになり,終戦直後の農業の目標である食糧増産は一応達成した。また農業内部において特に水稲作における労働時間も 第1-1-3図 に示すとおり年々減少を示し始めた。

第1-1-3図 水稲における生産性の向上

この間農業生産指数は1951年(昭和26年)には戦前水準に戻ったが,この頃になると鉱工業の生産指数が急テンポで上昇し農業との格差が目立つようになり,また食糧難時代には都市よりも上位にあった農村の所得水準及び消費水準は逆に都市から引き離された。この生産性及び所得の格差は,農村の過剰人口に基づくものであった。

しかしながら,製造業を中心とした第2次産業は1950年代後半になると高度成長期に入り,新たな労働力需要を生み出し,農村における余剰労働力を吸収し始めた。

さらに,1960年代になると農業面,特に水稲作における科学技術の進展によって労働時間は短縮され,余剰労働力だけではなく農業を主業としていた男子労働力も 第1-1-4図 に示すとおり第2次産業を中心とした他産業に流出した。

このように,水稲作を中心とした農業面における科学技術の進展は,食糧の安定的供給に大きな役割を果たし,さらに生産を増大させるとともに,余剰労働力を第2次産業を主とした他産業に供給するという役割を果たした。

一方,製造業を中心とした第2次産業は科学技術の成果を第1次産業に供給することによって農業余剰労働力を生み出し,自らの成長のため不足する労働力をそれによって補った。

1960年代以降の農業技術は農業基本法制定を契機として,それまでの米中心の技術開発に加え,畜産,園芸等拡大部門の技術開発も並行して推進されるようになった。1960年代の水稲作技術についてみると,耐肥多収性品種が育成され普及し,1961年(昭和36年)に極短桿品種ホウヨクが生まれ,また,1966年(昭和41年)にはレイメイが放射線突然変異育種第1号の極短桿品種として誕生した。また,アイソトープの利用等による試験研究に基づき深層施肥技術,追肥技術等の施肥技術の確立,普及等もあって水稲の単収は飛躍的に上昇した。

水稲作における農業機械は,動力防除機,動力耕うん機が普及し,農業労働力の軽減が図られたが,水稲作労働の2大ピークを形成している田植と収穫の両作業は依然手労働中心で営まれていた。

第1-1-4図 農家世帯員の就業動向

収穫機械は,1960年代後半に動力刈取機及び動力刈取機と自動脱穀の機能を結合した日本独特の自脱型コンバインが開発された。残る未機械化工程は田植のみとなったが,これも1960年代末に我が国の水田に適合した田植機が開発され,1970年代に入って爆発的な普及をみた。

一方,1950〜60年代の農業生産に大きな役割を果たしたDDT,BHCなどの農薬は,長期間食品や環境中に残留するため,1970〜71年(昭和45〜46年)にかけて使用禁止になり,防除体系が大きな難関に遭遇したが,代わって低毒性農薬や残留性の低い農薬が開発され,従来の農薬に代替された。

食糧不足,米不足から出発した戦後の我が国の農業は,食糧確保という初期の目標を充たしつつも,米偏重の構造を生み出したが,現在稲作から麦,大豆,飼料作物等へ転換するための対策が進められており,重点畑作物の生産条件整備のための基盤技術の確立,生産力高度化技術の確立等の試験研究が実施されている。


保健・衛生

終戦直後における発疹チフス,痘そう,コレラなど我が国に常在しない伝染病の流行,その他腸チフスやパラチフス,ジフテリアの流行についてはすでに述べたところであるが,このような状況に対し,政府は防疫官を臨時に各地に駐在させ,実地に指導に当たらせるとともに,GHQの強力な指示並びに協力の下に各種の予防接種,特に腸チフス,パラチフスや発疹チフスの予防接種を広範に行った。これらの予防接種は,ワクチンなど国内生産が十分に回復するまでGHQの援助によるものであった。

1948年(昭和23年)には予防接種法の制定が行われ,広範囲にわたる疾病について予防接種を受ける義務が生じるなど強力な防疫体制が採られていった。

また,伝染病を媒介するしらみ等の駆除に著しい効果を挙げたDDTは当初GHQから原体の供給を受けたが,その生産は1946年(昭和21年)から開始され,各戸や街頭においてDDTの散布が強制的に行われるなど,衛生状態の悪化した環境の中での防疫に役立てられていた。

このようにして,戦後の混乱期に全国的な流行をみた発疹チフス,コレラ,痘そうなどの疾病は1951年(昭和26年)頃にはほとんど終息していった。

一方,戦前から終戦直後にかけての国民の死因の最も大きなものは,細菌感染による疾患で「全結核」,「肺炎及び気管支炎」及び「胃腸炎」の三つが主要なものであった。1935年(昭和10年)の死因のうちこれらの三者が占める割合は総死亡の32.8%に及びいかに重大な問題であったかがわかる。しかも,結核は将来性ある青年層をむしばみ,肺炎はまた新生児を脅かしていた。 第1-1-5図 のとおりこれらの死亡率は1950年代半ばまでには急激な低下を示し,以後この低下傾向は更に続くこととなる。

これらに代わって1951年(昭和26年)には脳血管疾患(脳卒中)が第1位となった。次いで1953年には悪性新生物(がん)が第2位に浮上し,更に1958年には心疾患(心臓病)が第3位になっている。この上位三者の死亡順位は以後変化がなく,この時期を境として我が国の疾病構造に大きな変化がもたらされたということができる。

このような細菌性疾患から成人病への変化には生活水準の向上,公衆衛生の向上等各種の要因が見出されるが,その中にあって疾病治療に直接大きな寄与をもたらしたのは,肺炎・気管支炎の死亡率と結核の死亡率の低下にそれぞれ多大の貢献をしたペニシリンやストレプトマイシンなどの抗生物質をはじめとする化学療法剤であった。

この間における世界の抗生物質開発の状況は 第1-1-1表 にみるとおりであり,数多くの抗生物資が開発されている。

抗生物質のうち医療の実際の現場で最初に本格的に使用されたものはペニシリンであるが,1941年のペニシリン再発見(ペニシリンの治療効果の確認)の後,米国において大規模な実用化への研究が行われた関係もあって,初期の有用な抗生物質の大部分は米国において開発され実用化されている。

また,このペニシリンの再発見が前世紀から拮抗現象としてそれぞれの分野において独自の立場から研究がなされてきた細菌発育阻止物質ひいては抗生物質の研究開発に,数多くの科学者・技術者を立向かわせる引き金ともなった。こうして1950年までにストレプトマイシン,クロラムフェニコール,クロルテトラサイクリン等の有用な抗生物質が開発され実用化されていった。

我が国においても,第2次世界大戦中外国からの乏しい文献を参考とし,陸軍軍医学校が中心となってペニシリンの研究開発を実施し,終戦頃には治療研究の域を出ないものの少量供給ができるまでになっていた。このような戦時中のペニシリンの研究開発によって培かわれた培養,抽出,精製操作技術などの経験が,その後の我が国の抗生物質の開発に与えた影響は決して小さなものではなかったといえよう。1948年(昭和23年)頃には我が国にもコリスチン,オーレオスライシン,フラジオマイシン(ネオマイシン)という抗生物質が開発されていたが,本格的な研究開発は1950年代に入ってからであった。実際に戦後我が国に入ってきたペニシリンは,我が国のものに比べて格段に精製されたものであったし,またストレプトマイシンにいたっては戦後初めて入ってきたものであった。

戦後の結核対策にとってストレプトマイシンは重要な比重を占めていた。

1949年(昭和24年)厚生省にストレプトマイシン研究協議会が設置され,研究用として200kgの輸入が行われ本格的に研究使用が始められ,また同年ストレプトマイシン生産確保要綱が閣議決定されたのをみてもその重要性が理解されよう。

1950年(昭和25年)前記ストレプトマイシン研究協議会はその中間発表を行い,ストレプトマイシンの有用性を指摘し,同年国内での製造が開始されるに至った。

我が国においてようやくペニシリンやストレプトマイシンの工業的生産が軌道に乗った頃,米国においては抗生物質研究開発が最も盛んになった時期であった。米国の製薬企業は競って新しい抗生物質を求め,世界各地の土壌中から有用な抗生物質を産出する微生物の検索を強力に押し進めていた。またこの頃になると抗生物質耐性菌の出現が見られるようになり,また,ペニシリン・アレルギーやストレプトマイシンによる聴神経障害などの副作用が一般に認識されるようになった。そして,これがまた新しい抗生物質探究の新たな刺激ともなっていた。

これらの成果がマクロライド系抗生物質であるエリスロマイシン,カルボマイシン,オレアンドマイシンなどの開発に結実した。

この間,我が国の抗生物質開発水準は徐々に向上し,その結果として1950年代に我が国の国立や民間の研究所で発見され,開発された抗生物質に,トリコマイシン,ロイコマイシン,カナマイシン,ペンタマイシン等がある。これらの中で我が国の抗生物質研究が世界的水準にあることを示したのがカナマイシンであった。

カナマイシンは国立予防衛生研究所の学者によって発見され,国立大学教授を中心とした研究班などで臨床効果が確められ,製薬メーカーによって工業開発され,1958年(昭和33年)に市販された抗生物質で,主に抗結核薬としてその頃出現していた耐性結核菌にも有効性が認められ,また,ストレプトマイシンに比較して聴神経に対する副作用が少ないなどすぐれた点がみられ結核対策に世界的に大きな貢献をした。

また,もう一つの注目すべき流れは,抗がん性抗生物質の研究開発の始まりであろう。1950年代には我が国の悪性新生物(がん)による死亡は死亡率順位で第2位となり,この頃からがん対策の重要性が強調されてきた。

このような抗がん性抗生物質の系統的な研究は,1951年(昭和26年)に我が国において最初に始められた。この研究の基本的な考え方は,抗生物質の化学構造が解明されて,各種の複雑な有機化合物として研究者に提供されたことから始まった。これらの中には従来知られていた有機化合物とは異なる多種多様なものがみられ,このようなものの中からがん細胞の増殖を抑制するものの存在が考えられた。この考えに従って国立や民間の研究所で各種の抗生物質が系統的にスクリーニングされ,1953年(昭和28年)にザルコマイシン,1956年にマイトマイシンCが,そして1960年にクロモマイシン,1965年にはブレオマイシンが開発され実用に供されていった。しかし,これらの抗生物質は一般的にペニシリンやストレプトマイシンなどの場合のような特効薬的な働きを期待することはできなかった。即ち,当時は,がんそのものの解明が十分に進展していない段階であり,また,1962年(昭和37年)に国立がんセンターが設立されたばかりの時期で,がん研究自体がようやく系統だって進められ始めた頃であったからである。しかし,抗生物質の領域で抗がん性抗性物質の開発という用途範囲の拡大をもたらした意義は大きく,その後の各種の有用な抗がん性抗生物質の開発への先鞭が我が国でとられたことは高く評価されよう。

このように1950年代は抗生物質の研究開発が米国を中心として大きく進展した時代であり,また我が国の抗生物質の研究開発が世界的になった時代でもあった。それと同時に伝染性疾患が終息し,代わって脳卒中,がんなどの成人病が国民の保健衛生上重要な問題となってきたのである。そのため,行政的には早くから厚生科学研究などに成人病の諸課題が盛り込まれ,成人病研究の推進が図られていた。研究は当初の治療面に関するものから次第に早期発見,集団検診,健康管理等の予防面へ移っていった。更に成人病関係の研究を充実させるため,1962年(昭和37年)には国立がんセンターが,また1977年(昭和52年)には循環器病センダーの開設が行われ,系統的に研究活動が行われる体制が採られていった。同時に人間ドックにみられるように各種医療機器特に診断・検査機器の開発に大きな進展がみられていた。

第1-1-5図 1950年代における主要疾患死亡率の推移

第1-1-1表 抗生物質の推移(1950年代中心)


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