第1章 4.2.(3)演劇教材を復活させる

 言語教育、特に口語表現の教材として演劇教材が有効であり、昭和30年代の教科書においては掲載されていた。しかし音読から黙読といった流れ、配当時間数の削減などのなかで演劇教材は姿を消した。現在の教育課程部会の審議においては言語活動の充実において音読などによる基本的な国語力の定着が議論されており、また「言語文化と国語の特質に関する事項」では、物語や詩歌を読んだり、書き換えたり、演じたりすることを通した言語文化に親しむ態度の育成についても触れており、その点からも演劇教材を教科書で取り扱っていく必要がある。

1 演劇的空間を創り出すための教材開発の提案

 はじめに、「(4)演劇教材の復活」という提言項目について若干の補説・修正を求めたい。
 「演劇教材」とは、どのような教材を指しているのか。歴史的経緯を紐解いても直接的には「演劇教材」なるものは存在していなかったと言える。協議の中での記憶を辿ると、それは「戯曲教材」のことを指していたように思われる。したがって、誤解を生まないような提言とするなら、明確に「戯曲教材の復活」とすればよいだろう。
 しかし、単に「戯曲教材の復活」という言い方では、文字通りの「復活」に止まってしまう。「戯曲教材」が現行の教科書から姿を消してしまったのには、それなりの理由があった筈である。提案者はその理由を、「戯曲教材」の国語教材としての意義が正しく理解されていなかったためと考えている。
 したがって、これからの国語教科書に再び「戯曲教材」を取り上げていくのには、単なる「復活」でなく、「復活」以上の意義付けを行っていかなければならないと考えている。
 そこで、提案者は標題のような「演劇的空間を創り出すための教材開発」を提案したいと考えている。もちろん、この教材の中には、後述するようにかつての「戯曲教材」も含まれていくものと考えている。

2 演劇的空間を創り出すための教材を開発する意義

a.ことばにおける身体性の復権

 この数年来、齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』(注1)がベストセラーとなっている。齋藤氏の当初の意図は必ずしも「日本語」云々というところにあったわけではない。齋藤氏の意図は「声に出して読む」というその行為自体が持つ意義の見直しにあったと判断している。
 しかし、ただ「声に出して読む」ということだけであれば、それは別段新しい提案とは言えない。国語科教育界ではすでに20~30年も前に読みの指導における音読・朗読の復権がなされている。齋藤氏の問題提起は従来の音読・朗読の復権や学習指導要領における「話すこと・聞くこと」の次元と異なってもっと深いところにあった。それはことばと身体との関わりを明確に位置付けている点である。齋藤氏はいわば「身体とことば」の一元論の提唱を行ったのである。
 齋藤氏はこの本の中で「声を腹からしっかり出し、息づかいの技をこら」し「自分の息づかいを楽しむ要領」(注2)で様々な日本語のヴァリエーションを味わって欲しいと述べている。齋藤氏は「息」「呼吸」をする際の「息づかい」の一点に学生時代以来ずっとこだわり続けてきた。「呼吸法」、これはまさに「生きる力」である。生きるために必要な力である。それを文章を読むことで鍛えていく。そういう問題提起をしているのである。「声」、「息づかい」とは「身体」そのものである。だから「声」というものは「言葉の本質」であり身体とことばとは一元的に結びついているのだという、そのような考え方を提起しているのである。
 齋藤氏は「毎日大きな声で暗誦・朗誦を続けていると、息が鍛えられて、腹式呼吸をやっているのと同じ効果」があると指摘する。また、本を読む際に「大事なのは、日本語のリズムの美しさや力強さをからだに徹底的に覚えさせること」であって、「内容がわかるわからないは、極端な言いかたをすればどうでもいい」(注3)ことだとまで言い切っている。
 そして、齋藤氏のこのような、ことばと身体の一元観に立つ提案のもう一つ奥を探れば、それは単に暗誦・朗誦だけにとどまる問題ではない。例えば、視写の問題、これは筆端で読む、指先で読むということである。あるいは指先で覚える、書きながら指先で覚える、つまり、書き手・作者の文体、作者その人を自分の指先を介して自分自身に乗り移らせるということである。このように、齋藤氏の問題提起はことばにおける身体性の復権という意義を有しているのである。

  • (注1) 齋藤孝 『声に出して読みたい日本語』 2002年 草思社
  • (注2) 齋藤孝 『声に出して読みたい日本語』 2002年 草思社、
  • (注3) 齋藤孝 「なぜ、暗誦・朗誦を私は勧めるのか」『いきいき』 2002年4月号

b.ことばにおける対話性の回復

 最近、「対話」という用語を身近にある教育雑誌などでしばしば見かける。例えば、「対話で話す・聞く力の基礎を養う」といった特集が組まれている。果たしてこのような文脈で「対話」という用語を使用してよいのだろうか。「対話」という用語を目に見える話し合いの形態というレベル、日常的な実践レベルで使用していてよいのだろうか。こうした用法は非常に危うい。「対話」の概念を表面的にとらえているからである。「対話」の「対」は「対(ついイコールペア)」の意味とは異なる。「対面(イコール向かい合う)」という意味である。
 「対話」は哲学的な概念である。「対話Dialogue」とは、本来は相異なる(イコールdia)論理(イコールlogos)という意義を含んでいる。だから、単に二人の人間の間での価値観の交流というだけではなく、自己自身との「対話」ということも有り得る。「対話」は人間の生き方に関わる問題としてとらえられていかなければならない。したがって、「対話」を単なる話し合いの形態や技術といった次元でとらえてはならないのである。あえて実践用語として用いる場合は、「対話的精神」とか「対話的能力」とか「対話的姿勢」といった形で使用すべきであろう。
 竹内敏晴氏は「対話する」とは、「単に単語を交換することではなく、声を発する以前に、身振りや表情を感じ取り、手で触れ、避け、そして声の調子にぎょっとし、など、からだ(とこころ)全体が相手と触れ、通じ、とけあい、了解し、自分と相手の関係が変わっていくということである」(注4)とも述べている。ことばを身体との関わりにおいてとらえ、対話の成立を身体ぐるみの次元で考えている。

  • (注4) 竹内敏晴 『話すということ―朗読源論への試み』 1981年 国土社

c.国語教室における演劇的空間の創造

 これまでの考察を通して提案したいことは、国語教室に演劇的空間を創り出していく必要があるのではないかということである。それは決して国語教室を演劇一色にしていくということではない。演劇的要素というものを加味した実践を創り出していくということである。そのための教材を開発していくべきであるという提案である。
 国語教室における演劇的要素と見なせるものとしては、従来行われてきた実践の中にも数多く見出すことができる。例えば、「音読」、「朗読」、「群読」である。また、「他己紹介」、「ロールプレイング」、「インタビュー」、「リレースピーチ」、「朗読劇」、「説得劇」、「シナリオ作りとその劇化」などと数多く挙げることができる。
 このような演劇的要素を導入することで、ことばの持つ身体性と対話性とを国語教室に取り戻すことができるのではないかと考えるのである。

ア) シナリオ・戯曲教材の見直し

 そこで、まず始めに考えられるのは「シナリオ・戯曲」教材の見直しである。以前は、国語教科書に戯曲教材が学年に一つぐらいは取り入れられていた。しかし、現行の教科書からは戯曲教材がほとんど姿を消してしまっている。
 佐藤学氏も「シナリオ教材」がどうしても必要だと主張している。佐藤氏は今の教科書が「モノローグ」教材一色で「対話の言語を教える場所がない」と指摘し、「言葉の身体性と同時に対話性を回復していかないと、言葉の根っこにあるもの、あるいは、言葉が生成されるプロセスが教育されていかない」(注5)と述べている。
 国語科教育の世界では、確かに以前から音読・朗読が復権し、新たに群読の実践が広く行われるようになってきた。しかし、なぜ音読・朗読なのか、群読をさせるのか、という点に関して、右のようなことばにおける身体性や対話性という問題が深いところでは議論されてこなかったと思う。

  • (注5) 佐伯胖他編 「〔座談〕教室の言語経験」における佐藤学の発言『言葉という絆(シリーズ学びと文化(2))言葉という絆』 1995年 東京大学出版会

イ) 「説得劇」の実践

 この「説得劇」は東京都羽村市立羽村第一中学校の水野美鈴教諭が「劇作りを通して説得の技術を学ぶ」(注6)という単元で行った実践である。この実践は「説得を重ねて相手の心を動かす過程を劇にしてみたら」という考えに基づいて構想されている。
 この実践では、「説得劇」の「台本」作りの過程で「書くこと」の活動が行われ、劇の上演の過程で「話すこと・聞くこと」の活動が成立するという一挙両得の成果が期待されている。この「台本」作りは基本的にグループで行われることになっている。
 例えば、「おこづかいを二千円アップするように子どもが親を説得」とか「テニスコートを増やしてもらえるように生徒が校長先生を説得」「ラーメン屋を継ぎたがる息子を高校に進学するように説得」といった題材で台本が作られている。この台本には、説得を目的としているので必ず複数の人物が登場する。ここに対話的な状況が生み出される契機が含まれている。出来上がった台本に基づいて、実際の説得の場面が上演されるので演劇的な要素が入ってくることになる。

  • (注6) 相澤秀夫他編 『新国語科「言語活動例」の具体化3説明・発表の学習』 1990年 明治図書

ウ) 「朗読劇」の実践

 この「朗読劇」については、高橋俊三氏が群馬大学の学生を対象として「群読」(注7)の授業として行った実践がある。高橋氏はこの「群読」の授業の創始者としてよく知られている。この群読の授業に高橋氏が取り入れているのが欧米諸国で行われている「リーディング・シアター(朗読劇)」の手法である。ここでは「群読」の授業と区別するためにあえて「朗読劇」として取り上げておきたい。
 高橋氏が実践したこの「群読」の授業としての「朗読劇」の実践は、「かさこじぞう」(岩崎京子作)を使用したものである。原作に登場する人物としての「じいさん」「ばあさん」の他にも「語り手(ナレーター)」や大歳の市で正月のお飾りの松やその他の物を売る売り子、六人の地蔵役などを配して、原作に若干の改作を施し、台本を作らせている。基本的には学生に台本を作らせて、それに指導者の手も加えたとのことである。
 この朗読劇の上演では、ウッドブロックや鈴、太鼓、カスタネットといった鳴り物を取り入れ、簡単な仕草・動作を導入することで、学習者にことばと身体との関わりを意識させることが可能となる。また、他者と声を重ね合わせることで、自分自身の声やことばが自分の身体であり、自分そのものなのだということも実感できるのである。

  • (注7) 高橋俊三 『群読の授業』 1990年 明治図書

エ) 「紙芝居」の実践

 小学校での「紙芝居」の実践はよく見かけるようになってきた。しかし、「紙芝居」を中学校で取り上げた実践事例は珍しい。しかも、既成の「紙芝居」の上演でなく、いくつかの絵を即興で組み合わせて、ミニ「紙芝居」として上演させるという実践は極めて珍しい。
 茨城大学教育学部附属中学校の栗原裕一氏は平成14年3月に新潟で開催された日本言語技術教育学会において「メディア表現能力」を育てる提案として「紙芝居」(注8)の模擬授業を行った。4枚の絵を見て、「紙芝居」のストーリーを考えさせ、そのストーリーを「紙芝居」の語り手として上演させるという趣向である。
 4枚の絵は順番を自由に組み合わせることを条件としているので、ちょっとした構想力が必要となる。興味深かったのは、創作した紙芝居のストーリーを「語り手」が二人の登場人物の声音を使い分けつつ、お話を語り進めるという部分である。紙芝居は「語り手」が「登場人物」の役もこなさなくてはならない。ここに演劇的な要素が求められることになる。
 このように、簡便な形で演劇的な要素を取り入れることのできる「紙芝居」づくりとその上演という活動は、結構応用範囲が広いと思う。例えば、小・中学校での物語の読みの学習で物語の一場面を「紙芝居」化する学習などを取り入れることもできよう。

  • (注8) 栗原裕一「紙芝居で育てる表現力」『実践国語研究』第235号 2002年8、9月号 明治図書

オ) 「詩のボクシング」の実践

 映像作家・音声詩人の肩書きを持つ楠かつのり氏が始めた「詩のボクシング」なるものがある。「詩のボクシング」はボクシングリングに見立てたリングの上で、二人の「朗読ボクサー」が自作の詩を朗読して勝ち負けを競うイベントである。勝敗の判定基準は「朗読ボクサーがくり出す声と言葉が『どれだけ観客を引きつけたか』にある」(注9)と言う。最初のタイトルマッチは平成9年10月に行われ、詩人で作家のねじめ正一氏が初代チャンピオンとなる。翌年は詩人の谷川俊太郎氏、以後、詩人の平田俊子氏、作家の島田雅彦氏などが朗読王の座を引き継いで、平成11年からは、一般参加によるトーナメント戦が地方大会として始まり、平成13年5月には第1回全国大会が開催されている。
 この「詩のボクシング」を見ると、「自分の身体を使ってパフォーマンスをしながら、身振り手振りをつけ言葉に乗せていくことによって、徐々に自分の感情が形をとり始めていく」様子がよく現れていることに気づかされる。「言葉という、自分が生まれる前からあったものに自分を乗せていくことを通して自分が見えてくる」(注10)ということ、つまり、自分の身体をことばに乗せていくことによって、自己との出会い、自己との対話を成り立たせていくことができるのである。

  • (注9) 楠かつのり 『詩のボクシングって何だ!?』 2002年 新書館
  • (注10) 前掲書 『言葉という絆(シリーズ学びと(2)』の〔座談〕における佐藤学の発言

カ) 付記

 上記のような考え方にやや近い問題意識によって研究された先行研究がわずかではあるが存在する。その中の代表的な文献を一つだけ掲げておくことにする。
 増田信一氏の「演劇的学習の建設」(注11)である。
 この書物では、日本における「演劇教育」の歴史を膨大な文献を駆使しながらたどり、その意義について考察を加えたものである。著者の増田氏は、その考察を単に「演劇教育」史の考察だけに止めないで、それを国語科の授業の中での実現を目指す方向での考察にまで発展させている。本書が『演劇的学習の建設』とされている所以である。したがって、本書の第3章では「演劇的学習の実践」と題して、4節にわたって具体的な実践的な提案がなされている。
 本書は、上記の提案のための有力な拠り所にもなるはずである。

(大内 善一)

  • (注11)増田信一著 「演劇的学習の建設」 京都女子大学研究叢刊40 2004年2月 京都女子大学刊

-- 登録:平成21年以前 --