早稲田大学 教育・総合科学学術院教授 菊地栄治氏インタビュー概要

1.実施日 

平成22年12月2日(木曜日)

2.インタビュー対象者 

早稲田大学 教育・総合科学学術院教授 菊地栄治 氏

3.概要

(現状認識について)

 高等学校は実社会や高等教育機関に進んでいく直前の学校段階であり、非常に重要な校種といえる。しかし、いま、高校教育の内実と生徒の現実との間に大きなずれが生じ始めている。
 もともと高校教育のカリキュラムや教育方法は、大学での学びを前提に組み立てられてきた。高校教育はアカデミックなカリキュラムを中軸とすべきという意識は教員の中に根強く存在する。この伝統的な価値にそぐわない、あるいはその準備が充分でない生徒は、義務教育ではない高等学校においては、ともすると自己責任の名の下に充分な手立てを講じられにくい傾向がある。つまり、将来大人になってどう生きていくかを見据えた高校教育だったかというと、必ずしもそうではない。
 もちろん高校教育にすべての責任を負わせるというわけにはいかないが、特に就職において、生徒の現実と乖離する部分が肥大化し始めている。今までは問題が外に出ていなかったが、就職状況は悪化している現状では、問題はより複雑で深刻である。
 つまり、生徒が卒業するときに本当の意味で生きる力を身に付けているのかということを、今までの高校教育の論理ではなく、観点を組み直して再吟味していく必要がある。

(取組内容の共有について)

 まず、文部科学省を含めて、生徒にそのような力を身に付けさせている学校の営みをしっかりみて、どういうヒントがあるのかつぶさに検証することが必要である。
 たとえば、専門高校にすればいいのではないかという意見も研究者等にみられるが、必ずしもそうではない。普通科をどうしていくかが文部科学省でも切実な課題となっているようであるが、普通科のままであってもやり方によっては逆に力を付けられるケースがある。専門高校で狭い方向水路づけるよりも、現実社会と向き合う場を提供する中で、人として生きていくためのさまざまな力を付けていくことができる。そういう取組から学ぶというスタンスが必要である。これまでは、そのような機会があまりにも乏しかった。
 ある特定の学校の取組は、その学校が特別だからできるのだと分析する当事者も多い。しかし、そのような取組には共通する「何か」がある。それを共有していくことが必要である。ベーシックなスキルに関する共通の教材のようなものを集約して、共有できるとよい。丁寧に向き合って鍛えられた知恵の共有が、高等学校の場合はとりわけできていない。
 取組の内容を検証するに当たり、進学校から大学進学させることが高校の役割だと認識されると、ほんとうにエンパワメントを必要とする生徒たちへの支援そのものが色あせてしまう。「指導困難校」での実践がどれほど豊かでも、「参考にならない実践」として処理される危険性がある。しかし、ほとんどの人は職業としてアカデミックな生活を送るわけではないのであるから、学力的に困難な生徒に知識を注入しできばえを測定してもあまり意味がない。そうではなく、私たちは、高校生たちが社会に出て大人として生きていく力を付けているかどうかという視点で取組を評価し、かれらを応援するシステムが必要である。

(リアルな学びについて)

 学ぶことの切実さということでいえば、学校の枠の中の学びだけでは狭いし、リアルではない。情報化の進んだ今日、学校のリアリティを飛び越えたところでリアリティがどんどん入ってくる。それを超えて行くには、人と仕事というのはどのようにつながっているのか、例えば、自分がこういうことをするとこの人が困るんだという、リアルな学びが求められている。
 もちろん、高校教育全体で同じ内容を提供する必要があるとは思えない。しかし、一人前の大人への学びをもっと高等学校が応援していくべきである。もちろん、教員には自分の免許教科の内容を責任をもって教えることをミッションとして認識する場合が多く、教員自身がそれを一歩超えていくような動きにはなかなか結びつかない。しかし、社会のいろいろなリアルさを体験し、感じ、考えることは、社会で生きていく上では必要である。そのような取組を応援していくようなメッセージが国には必要である。生徒をエンパワーしている人をエンパワーするような仕組みが鍵となる。
 その内容は、キャリア教育とも関係している。キャリア教育の典型ともいえる「産業社会と人間」のような科目が、総合学科だけでなく一般の高校でももっと真剣に受け止められてしかるべきである。進学校であってもある程度やっていた方がよい内容も少なくない。中学校における体験学習的な内容よりも更に進めて、進路との関連に検討を加えるべきである。いずれにしても、もっと学びの切実さをとぎすませたようなカリキュラムにしていくことが必要である。
 特に昨今は社会に出ると、自己責任ということで、放置される傾向がある。だからこそ、リアルな学びに内容を変えていく必要がある。高校の責任の範囲ではないといわれればそれまでだが、次の世代を担う子どもたちが希望をもって未来をイメージできるように試みを展開したいものである。社会と真剣に向き合い、そこから学びを深め、更には社会をよりよく変えていこうと思えるような希望に満ちあふれた高校教育を具体的に創っていく必要がある。
 リアルなものと接することで、自信を失う生徒も出てくるかもしれない。それでも適切な介入によって、周りの人間との関わり方次第で人と語れるようになったり、仕事をこなせるようになったりするものである。高校での学びが一色になりすぎないことが肝要である。どこまでリアルにするかは、生徒の現実をふまえて一定程度教員が適度に「調合」することも必要である。社会に放り込めばすべてうまくいくというものではないようである。

(取組の進め方について)

 具体的には、たとえば、大阪府立布施北高等学校でやっているデュアルシステムが参考になる。生徒自身が自分にとって必要なものを考え、社会の現実とかれらの日常世界をふまえて4つの活動領域を設定している。デュアル=製造業というステレオタイプに引きずられると、生徒のリアリティとの決定的なずれが生じてしまう。生徒の「これが学びたい」という思いとつながる必要があり、1年時から適切に導入し展開させていくことが大事である。教員も行政も、生徒にとってどうすればいいか、どことどことをつなげばいいかという軸に沿ってもっと忌憚なく語り合える関係性が望まれる。
 そのような学校の取組を具体的に応援してくれる場も必要になる。布施北高等学校のある東大阪市には数多くの中小企業があり、熱い思いをもった地域の人々がいる。中心になって関わる人がいて、そこからネットワークがじわじわと広がっていった。生徒が経験し気づいたことの発表を聴くにつけ、この街の人々の暮らし、風景が浮かび上がってくる。街とのつながりの中で生きるというのはどうすることかというような市民教育としての側面を高校教育はもっていたはずである。いま、もう一度そこに立ち戻ることが求められる。このところ高等学校では進学へのシフトが強まっているが、(進学は進学としてやるべきことはあるが)これ以上ズレを拡大しないように従来見過ごされてきた高校教育の部分に力を入れる必要がある。
 リアルな体験の必要性に学科の差はないが、新しい学科が従来の枠組みの中にとどまる解釈図式にもとづくとき柔軟性を欠くことがある。「従来の学科にないので難しい」という対応でなく、もっと現実分析をふまえて柔軟に対応できる方がよい。新しいからこそ先頭をきってやることに意味がある。
 教育委員会が音頭をとって新しいタイプの学校を設置していくという改革は広がってきているが、中心になるコンセプトが見えにくい。ニーズのある学校、みんなが行きたくなるような学校を創ろうというねらいは見えるが、一方では選ばれない学校も出てくる。知恵を共有することが期待される。
 自治体や地域を直接支える貴重な人材を育てていることを実感できるような高等学校でありたい。地方分権における地域づくりと同様に、地域で育ち、その地域を支えるという生き方がすばらしいと思えるような社会にしていくことが不可欠である。簡単に地方分権と言うが、地域に雇用がないとやっていけない。そう考えると学校だけでは収まる話ではない。地域づくりを総合的な視点でやっていくことが求められる。
 また、高等学校の場合は、専門的かつ限定的な力ばかり付けてしまうと、それが必要とされなくなった場合に困ることになる。専門性の育成自体は評価できるが、大半の人はそれだけでは生きていない。自分で情報を集め、消化し、解釈し、伝え、人と折り合いを付けながら生きている。そういう意味でのリアルな経験も大事である。
 生徒を信じ、生徒が立ち上がって表現する場を与えるような高校教育ができないだろうか。生徒の力は捨てたものではない。もちろん、教員など大人たちとのコラボレーションが条件となるが…。

(指導要領の在り方について)

 現実がある意味進みすぎていて、指導要領を「こなす」ことが中心になってはいないか。旧態依然とした意識が変わるのであれば、大綱化も一定の意味を持つだろう。
 大綱化は、先生方が指導要領をどう受け止めるかという問題であり、生徒の身に付けるべき力へのこだわりを曖昧でいい加減にしてよいという意味ではない。先生方の意識と制度改革の趣旨の間にあるズレを埋めること、制度の趣旨を教員にうまく伝えることが肝要である。代わりになるものをどうするかということ、そのときに何を用意できるかということは、国だけでなく幅広い層にわたって真剣に問われなくてはならない。
 そのときに、知恵を共有することが意味をもつ。共有するためには、どこかが強いメッセージを出していくことが有効である。高校の場合、「勝手にどうぞ」では質が伴っていかない。ある程度方向性がなければ、そこに都道府県が予算を付けようとは思わないだろう。そういう意味で、国がどう動くかは依然として重要なテーマであり、今後の検討が必要である。

(国の役割について)

 高校教育のビジョンについても、国がおおまかな方向性を示すことはあってもいい。そのとき、「こうやりなさい」ではなく、「このやり方はいいですね」というように、励ますという役割を国が果たすことが望ましい。コーディネーター、場を創る主体としての役割が大きいのではないか。励まし方に国の姿勢は表れる。
 文部科学省のやるべきことは、制度を「末端」におろしていくことではなく、学校を元気にしていくことだろう。地方にゆだねる部分はゆだねていく、その仕掛けを文部科学省が進める方がよい。
 雇用について調べてみると、中小企業などについては、後継者不足で工場がつぶれているという例は少なくない。仕事の需要をさることながら、当該産業に人が行かないこと、誇りを持ってその仕事に就けないということこそが問題なのである。そういう事実を知らないままに、「中小企業は不景気で先行きは暗い」というマイナスのメッセージが一人歩きしてしまう。現実をよく知り、かつ前向きなメッセージを広げていくということが、本当に豊かな高等学校を創ることにつながる。
 分析も重要であるが、それにとどまって満足していてはならない。実践と研究の架橋を中身のあるものにしなければならない。

(以上)

お問合せ先

初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室

(初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室)

-- 登録:平成23年03月 --