明治150年記念「教育に関するシンポジウム」

 平成30年は、明治改元から満150年の節目の年に当たります。 開国以降、西洋の文明を取り入れながら発展を進めた日本。 教育についても、明治5年の「学制」公布より様々に広がり発展しながら現代に繋がっています。 今回、近代化を支えた明治期の教育を振り返るとともに、現代の教育を見つめ、未来の時代に求められる教育の姿を考えました。


シンポジウム概要

日時:平成30年12月19日(水曜日) 13時00分~17時00分(受付12時30分~)
場所:文部科学省東館3階講堂(東京都千代田区霞が関3丁目2番2号)
参加費無料
シンポジウムポスター(PDF)

 

プログラム

13時00分~13時10分  開会挨拶

13時10分~14時55分  第1部テーマ 高等教育

   13時10分~13時40分 基調講演            佐々木 毅      元東京大学総長、東京大学名誉教授
   
       13時45分~14時55分 パネルディスカッション    板東 久美子  日本司法支援センター理事長
                                                 片峰 茂       前長崎大学学長
                                    北川 源四郎    東京大学数理・情報教育研究センター特任教授、
                                                                                               前情報・システム研究機構長

                                                                         清家 篤     日本私立学校振興・共済事業団理事長、
                                                                                                慶應義塾学事顧問
                                   吉見 俊哉    東京大学大学院情報学環教授、
                                                                                                東京大学出版会理事長
         <休憩>

15時10分~16時55分  第2部テーマ 初等中等教育

   15時10分~15時40分 基調講演           小川 正人   放送大学教授、東京大学名誉教授
   
       15時45分~16時55分 パネルディスカッション     鈴木 寛      東京大学公共政策大学院教授、
                                                                                               慶応義塾大学政策・メディア研究科教授
                                  新井 紀子   国立情報学研究所社会共有知研究センター長
                                                                          小川 正人   放送大学教授、東京大学名誉教授
                                   門川 大作   京都市長

                                                                          工藤 勇一   千代田区立麹町中学校長
16時55分~17時00分  閉会挨拶


当日の模様(基調講演・意見交換の概要)

テーマ1:高等教育のこれまでの発展と展望



★基調講演(佐々木毅氏)

演題:高等教育機関における学術研究の芽生えと発展

 明治維新の遠因は、江戸時代(天明以降)の文物の流通、人々の知力の向上にあった。そこに、攘夷論等の思想が革命の近因として、大きな影響を及ぼしたといえる。
 江戸時代は武威をもって支配した「ご威光型体制」であったが、様々な学問が発展した。東アジアで最も大きな影響力を有した朱子学もその一つだ。この中国で生まれた朱子学は、科挙試験を基盤としているし、権力の正統性を問いただすもので、幕府には脅威だった。中国の思想と同時に輸入されるのが夷狄という評価だ。学問的には、日本は東の夷ということになり、日本のアイデンティティの問題が出てくる。やがて、徳川時代に豊かになった日本では、「自分達は、中国よりも進んでいる」という国学的な思想も出てきた。
 蘭学が入ってくると、中国よりも西洋文明に注目が行くことになる。そして、日本では、西洋が新しい中華であるという発想が生まれる。その結果、中国を中華帝国ではなくて、支那と呼ぶようになる。この頃、中国はアヘン戦争など、国際的な苦境に立つようになる。こうした状況下で、日本は、新しい中華としての西洋から他に先駆けて学ぼうとする底流が幕末から明治にかけて生まれた。
 そうして、19世紀型の「文明対野蛮」という二項対立で国の在り方の議論がなされる。福沢諭吉は、日本を文明と野蛮の中間にある「半開」と定義した。それは、日本は農業が盛んになり都市も出来たが、なおも「新しい知的挑戦」の機運が稀薄だ、という趣旨である。徳育教育は伝統的に盛んだったが、人がものを製造する能力がまだ劣っている、という意味である。ものを製造するための学問と知識の普及が課題だというのが、当時の日本に対する評価だった。
 このため、人的資源をいかに調達するかということで、高等教育の整備の重要性が認識されることになった。高等教育の整備と国の発展とは不可分のものとされた。
 
 高等教育に在籍する学生数は、明治期以降、増大した。学制公布時、0.018%だったところ、昭和20年(終戦時)には0.4%にまで至っている。予算も徐々に増加され、大学等の拡充が進められた。明治5年には、留学生の派遣の制度化がなされた。とても野心的な制度化だったようだが、国費の濫費との批判を受けて縮小するような動きもあった。さらに、お雇い外国人の雇用が進められた。
 明治以来、我が国の高等教育機関は、知的資源を確実に蓄積し、社会の役に立ってきたことは言うまでもない。一方、課題も残してきている。とりわけ、講座制に代表される安定した研究環境と私的な研究の自由の確保と、相応の資金が配当される仕組みは、長期的に有効な効果を上げたと考える。しかし、また、縦割りの問題が様々なところに出てきたことが課題となっている。大学においては、学部の比重が社会全体、入試を見ても、非常に大きく、これが日本の特徴となっているし、大学院の扱いが安定せず、課題として、現代まで残されてきたという問題がある。
 最近、我々がかつて西洋と呼んだ国でポピュリズムが出てきており、社会の方向性をめぐり社会的な分断が起こってきている。また、世界経済の重心は、西洋から東洋に、アジアに移ってきているという見方が広がっている。こういうこれからの画期的な時期、今までのストーリーの延長戦だけでは済まされない環境に我々は置かれており、日本はどのような新しい選択をしていくのか、高等教育をどう方向づけるべきなのか、それをしっかりと考えていかなくてはならない。



★ディスカッション

<1>  明治期の高等教育についての話題提供


[清家篤氏]
 明治期に、福沢諭吉が学問に関して提示した考え方について、話題提供をしたい。
 福沢は従来の門閥制度により、生まれながらの身分で人の価値が決定されていたことに対するアンチテーゼとして、「学問のすゝめ」で、人の価値は学問をしたかどうかで決まるとした。この学問とは、昔誰か偉い人の言ったことを覚える訓詁学ではなく、実証的に研究をして結論を得る「サイヤンス」であると福沢は言っている。そしてこの学問によって経済的に自立し、自分の頭で考えることで、政治的、社会的な独立も可能になると論じた。
 福沢は、国家と学問との関係も論じている。国民とは、国法に従って生活する良き市民という意味では国の「客」ではあるが、皆で寄り合ってその国法を作り、それを政府に施行させるのも国民であるから、その意味では国の主人であるとも言っている。そして、国家の発展のためには、国の主人、客人両方の意味での市民が、学問によって、生まれながらの身分の違いにかかわらず独立の生活を営み、自分の考えにもとづいて政治的、社会的に行動することが重要だ、というのが福沢の考え方である。
 加えて、福沢は、学問の在り様として、自由に学問をするということが学問の進歩に何よりも重要であることを強調している。そのためには学問をする者は国や民間企業などに頼ってはいけないとした。国や民間企業に頼ると、すぐに立つような研究が推奨される風潮となり、長い目で社会を進歩させるような本来の学問は育たないと考えたのだ。福沢は、学問によって新しいことを知ることができるという面白さこそ学問を進歩させる原動力と考えていたのである。そこで福沢は、学者にまったく好きなように研究させる、「学者飼い放し」の研究組織を理想としていた。
 つまり福沢は、学問によって人の価値が決まること、そして学問によって一人一人が経済的にも政治的にも他に依存しないで独立して生きていけるということが、よき国家を作り上げることになると考えた。そしてその学問は、知的好奇心に基づく自由な研究によって進歩すると信じていた。



[片峰茂氏]
 地方の大学の取組について、私が長年属した長崎大学の事例をもとに、話題提供したい。
長崎大学の創設は、江戸時代1857年にさかのぼるが、長崎大学の教育研究を特徴づけてきた二つの事柄がある。
まず一つは、1945年の原爆の被災である。学生、教職員900名が犠牲となったことである。その経験から、困難の中にある人々に寄り添うことの重要性、被爆者の救護活動、人道主義ということが大学の使命となっている。これは、長崎大学の創設に関わったオランダ人医師ポンぺが、「医師にとって病人という存在が救援対象の全てである。階級や貧困の差別は医師の関与するところではない」と唱えた伝統にも根差している。1962年には、原爆後障害研究施設を創設し、その後は、放射線健康リスク領域の研究成果が蓄積されてきた。それにより、福島県の原子力災害への対応の際に大きな貢献ができた。
 もう一つが、江戸時代には出島が、外来感染症の窓口として機能したこと、長崎県の離島が歴史的に風土病の重篤な流行地であったこと等から、感染症が長崎大学の重要なテーマとなってきたことだ。多くの医学者がアフリカなど途上国現場に赴き、そこで腰を据え、診療や研究に勤しんできた。日本で稼働していないBSL4施設の設置計画が最終段階にある。また、グローバルヘルス領域で世界のリーダーの育成を目指す卓越大学院プログラムが開始された。日本をリードする世界拠点を目指していきたい。
 最後に、直面する課題を述べると、まずは、地方大学の教育研究活動の説明責任が求められているということが言える。東日本大震災を経験し、市民と教育研究の距離が縮まり、この点は、加速しているといえる。また、地方創生のために大学の果たす役割が求められているという点が指摘できる。地方の人口流失をいかに止めるか、地方の産業をいかに活性化できるのか、大学に課せられた使命は大きい。さらに、18歳人口の減少に運営費交付金の減額が相まって、持続可能な大学戦略が求められていると言える。


<2>これからの時代の高等教育の方向性についての話題提供


[吉見俊哉氏] 
 我が国は「足し算」が得意で「割り算」、「引き算」が苦手な国だと考える。
 その「足し算」で言えば、東京帝国大学は、大学南校(文学部、理学部)、大学東校(医学部)、明法寮(法学部)、工部大学校(工学部)、駒場農学校(農学部)等の足し算で創設された。しかし、全体が体系化されていないと認識している。
 また、戦中期までの我が国の大学は、教育と研究の一致を目指すドイツ的なフンボルト型大学であった。国際的に見れば、これは大学院であったが、戦後、GHQは、これを大学とみなし、フンボルト型大学に対して、アメリカの一般教養教育がないぞと言ってきた。そのために、日本の大学は学部の前期課程がアメリカのカレッジ、学部の後期課程がドイツ型の教育、研究型で構成されることになった。これも「足し算」である。この学部課程の上に、屋上屋を重ねるように、教育、研究型の大学院が置かれた。これらを再編成することができてこなかった。
さらに、大学の授業科目数についての「足し算」の弊害を指摘する。日本の大学の学生は1学期に10から12の科目を取っている。一方、欧米は、1学期に4~5科目である。累積すると東京大学では学部で6千科目、大学院で6千4百科目余りある。海外に比べとても多い。これでは、個々の科目に対して、学生は、予習や復習、リーディングアサインメントに対応できない。必要だからという理由で「足し算」でカリキュラムが構成されている。そうなると学生は、出席することで精一杯になる。
 今後、こうした「足し算」で積み上げられた仕組みを「引き算」や「割り算」で整理していくことが今後求められていると考える。

 
[北川源四郎氏] 
 データサイエンスと文理融合について話題提供をしたい。
 20世紀に入り、学問研究の手法が変わりつつある。従来は、仮説をデータ等で検証して真理を探究する方法だったが、現在は、利用できるあらゆるデータを活用し、そこから新たな知識や価値を創造するという方法が求められている。こうした流れの中で、諸科学は理論科学・実験科学中心だったが、20世紀終盤には、計算科学が飛躍的に発展した。さらに、現在、第4の科学としてデータサイエンスが出現している。そして、データサイエンスを扱うデータサイエンティストは、膨大なデータの中から新たな社会的価値を創出できる人材として、データを読み解く能力を駆使した研究を行ってきている。
 アメリカでは、2005年頃から統計学が今後重要になると言われ、教育の強化が図られてきた。実際、2010年頃から学位取得者が急激に増えてきた。
 日本でも数理データサイエンスの授業が始まっている。6つの大学が拠点校として選ばれ、それぞれセンターを設置して取組を開始している。具体的には全学によるデータサイエンス教育の実施、全学標準的なカリキュラムの策定、公開である。特定の学部ではなく、全学、全生徒にデータサイエンティストを育成するということを目的とした活動を進めている。大学の全学生が受講可能な科目を提供する大学は、基礎的なものだと37%となっている。しかし、専門レベルになると、まだ15%程度である。しかし、現在までに50大学で専門の教育組織が出来ており、26大学で今後作られる予定になる。
 文理分断という課題が指摘されているが、データサイエンスは、方法、数理、統計、情報の横糸と、色々な領域の縦糸がマトリックス構造を取っており、一つの知識が他領域への知識の移転のハブにもなり得る。そうした意味で、文理融合を実現するためにも非常に重要な学問であると言える。



<3>自由討議


[板東久美子氏]
 これまで各氏に、明治維新以降の我が国の大学の強みや課題を述べて頂いた。強みの方の話が少なかったという印象もある。強みとしては、私学の発展、地方での特色ある取組が紹介された一方で、課題として、我が国の大学が引き算、割り算が苦手である現状、そして、文理断絶という課題の指摘もあった。他に、大学の強み、そして、課題として、さらに付け加えるべきことがあったらご発言を頂きたい。
 併せて、これからの時代に向けて、社会の変化の中で大学はどうあるべきかというお話も、現代の大学の課題や、大切にすべき財産としての強みということと併せて、ご提案を頂きたいと考える。

[片峰茂氏]
 地方大学は法人化によって、自由度を獲得するという意味で喜んだ。しかし、財政状況でしわ寄せがきがちだ。例えば、人文社会は社会的貢献度が見えにくいため、後回しになりがちである。しかし、AIの進化などで人文社会の出番は増していると考える。サイエンスの目的、人間的な幸せは何か、といった問いに答えていくためにだ。こういう中で、地方大学による戦略作りが課題だ。

[北川源四郎氏]
 今後、学生に対する教育方法自体が大きく変わっていくと考える。ITにより、個別化と平準化の相矛盾する双方が進む。一人一人に合わせた個別教育も可能になるし、一方で、海外の一流の教育の動画も多くの人が見れるようになる。大学の教育形態を、今後良く考えていかなければならない時代に入っている。

[清家篤氏]
 今後の高等教育に求められるのは多様性であり、これに関しては、私学の出番だと考える。変化の時代に社会の持続可能性はその中にどれほど多様性を内包するかに依存する。その点で建学の理念に基づく、独自の個性的な教育研究を行う私学への期待は大きい。私学の建学理念という「不易」部分によって、社会の変化という「流行」に対応するということもいえるかもしれない。
 また今日、文理融合も求められている。例えば技術革新について考えるときに、ELS(エシカル、リーガル、ソーシャル)の視点が重要だ。新しい技術をどう倫理的に、法的に、社会的に受容していくかという視点である。ただしここで注意が必要なのは、学際的な研究というのは、浅い研究をつぎはぎするということではないということだ。それぞれの分野の研究を深めていくことは大前提であり、その上で個々の学問と他領域との連携を図る、学問の融合を図るということである。

[吉見俊哉氏]
 我が国の高等教育の強みを3点挙げる。まずは、日本は、19~20世紀の欧米の知をアジア全域に翻訳していくセンターであり続けたい。明治期から、欧米の知を真っ先に漢字に翻訳してきたのは日本の知識人だった。そうした蓄積がある。この蓄積はとても大きい。
 次に、学生のクオリティーだが、私は昨年、ハーバード大学で教えたが、学部生のクオリティーは、東京大学もハーバードも変わりはない。大学教育自体の問題は、色々あるが学生のレベルは世界に遜色ない。
 最後に、ダイバーシティが我が国の強みである。宗教や食事など多彩だ。そうした土壌を大学の教育、研究に、もっと活かせないかと考えている。

[片峰茂氏]
 例えば、地方創生の視点で考えると、地域の産学官が連携して知恵を絞ることが大切であり、若者たちがグローバルな視点と同時に、地域を愛する気持ちを持つことが重要だ。そうした人材育成を行うために、高等教育の役割はとても大きい。

[清家篤氏]
 大学においては、教養教育と専門教育、そして、健全な学生生活などバランスよく発展させていかなければならない。そして大学において身に付けるべき最も大切な能力は、自分の頭でものを考える力だ。系統的にものを考える力ということで、それは問題を見つけ、それを説明しうる仮説を作り、その仮説を検証して結論を導くという学問の作法に他ならない。

[吉見俊哉氏]
 空間的、時間的に遠くまで見つめて考えること、これが大学の使命である。本日のシンポジウムは150年を振り返るというものだったが、私たちの大学の役割は150年先を見つめることではないかと考える。

[板東久美子氏]
 高等教育に関しては、グローバル化にどう対処していくかの問題や、人生100年時代にどう対応していくかなど、テーマが多岐にわたり、今日一日では、全てを語りつくせないと思う。本日は、先生方から多様な観点から重要なご指摘を頂いたが、皆様が我が国の高等教育の今後の在り方を今後、考えるヒントを頂けたのではないかと思う。


テーマ2:初等中等教育のこれまでの発展と展望


★基調講演(小川正人氏)
演題:我が国の初等中等教育の成果と未来に求められる教育

 今日の学校制度の礎となった明治期を起点として、これまでの学校制度の変遷と課題の流れを総括し、今後の学校教育の方向性を考えたい。
 明治初期、日本の学校は、後進国としての課題を当初から背負わされていた。明治期における教育基盤整備が急速に進められる。これが近代化の第1ステージだ。日本は、近代化の後発国であり、高学歴への崇拝や、子弟に高学歴を取得させようという願望、つまり、学歴インフレが生じた。イギリスの社会学者ドーアは、「学歴社会・新しい文明病」という著作のなかで、そうした現象を後発効果という概念で分析した。
 国家主導で教育制度は急速に整備されたが、政府は高等教育を重点的に投資をし、義務教育に関しては優先順位が低かったと言える。義務教育については、財政窮乏の下で、経費は町村負担、そして、授業料徴収は受益者負担で賄うことが原則とされた。明治初期、学校の事務は、町村が担うべきか、国家が担うべきか、また、一般行政が担うべきか、教育行政が担うべきかといった確執があった。
 1890年代に、教育は国家の事務であるという考え方のもとに、官選・官吏の知事など内務官僚の統制下で、教育行政の基盤が確立されることになった。こうして一般行政部局に学校指導権限が置かれた。一方、各地方では、自発的な研究職能組織である教育会が形成され、内務省系列の行政機構から教権の独立を主張する動きも見られた。
 その後、1900年頃からは、これまでの地域住民の努力も開花し、小学校就学率は、90%前後まで伸びることになる。
 近代化の第2ステージは、戦後改革である。戦前の官選による官吏の知事が公選、公吏へと転換し、内務省の解体によって、教育行政分野が一般行政から、独立した。分権型の教育委員会制度が創設され、新制中学校は義務化された。新制中学校の義務化は、世界的に見て、先駆的であった。国と地方とが連携をして新制高校、新制中学の新増設、教職員定数の確保などの需要に対応していった。
 1950年代から、こうした分権型のシステムは、集権型に改編されていくことになる。高度経済成長による国の財政拡大にも支えられ、教育費国庫負担金、補助金も増大し、重化学工業化を進めることにより、欧米へのキャッチアップを目指すことになる。そのための労働力、人材の育成、確保が国家の課題となる。優秀な人材の大学進学の促進や、国立大学理工系の重点的な整備、高専の創設、高校の拡充、多様化政策、学習内容の増大・現代化が進められた。一方、これらは学校の格差拡大、受験重視の教育を生み出していくことになった。
 1980年代に入ると、それらの弊害が指摘されるようになる。学校での学習があまりにも制度化され過ぎた学びに陥ったという認識や批判が広く受容されていった。そうしたことへの対応が、2000年代から導入された総合的な学習の時間や生きる力の育成に代表される諸改革である。
 教育と労働市場との関係でいえば、戦後から1980年代までは、学校は基礎的な知識・技術を身に付けてくれれば、あとは会社が、企業内のOJTや教育訓練で対応するということだった。しかし、製造業分野を中心に、工場などの海外移転が進み、また、国内の産業構造は、製造業から第3次産業へと移った。それにより、求められる資質能力にも大きな変化が生じた。個人の自己研さん力を重視した雇用人事へと転換が進むことになった。
実にそういう社会構造変化、産業構造変化の中で、21世紀型の新学力(資質・能力)育成が提唱され、OECDが唱えるキー・コンピテンシーという能力、つまり、一定の具体的な専門性や社会的な文脈などに裏付けられた深い内容の理解、学習を通した問題発見と課題解決に結びつく汎用的能力や社会関係力等の育成が求められるようになってきている。
 教育論において、知識が重要なのか、考える力が重要なのか、という旧来の論争はあるが、知識は個人の経験や価値観等を通じて、その個人内の知識の体系・構造(スキーマ)に組み込まれており、新しい知識とは、そのスキーマに組み込まれて理解され、初めて生きた知識、使える知識となる。意味のある学習とは、そうした個人のスキーマの補強、修正、再構築ということである。そういう一連の学習をマネジメントし、コーディネートする専門家・教師の役割というのは非常に大きい。
 ただし、現在の学校が抱える問題と言うのは、そういう新しい学力育成だけではない。子供の貧困、人口減少を背景にした少子化、地域間格差などによる学校の小規模化や再配置などの課題にも直面している。エドテックの効果的な活用や、学校の外の多様な主体との連携の可能性など、新たな要請にも直面している。学校は、働き方改革の問題も含め、その新しい在り方が今、問われ、また、模索されようとしている。こうした、これまで全く未経験の新たな様々な問題と課題にどう対応していくのかについて、このシンポジウムにおいても、議論を頂きたいと考えている。



★ディスカッション

<1> 明治期からの伝統に支えられた京都市の教育の事例について話題提供


[門川大作氏]
 明治の始め、京都市では、地域の協力、熱意により、学制(明治5年)発布前の明治2年より、学制に先駆けて、自治組織(番組)ごとに学校の設立(64校)が進められてきた伝統がある。なお、工業高校も芸術大学も日本で最初に京都市で創設している。
 地域の子供は地域の宝だとして、地域一丸となって教育を進めてきた。学校や教師が子供を変えなければ親や地域の信頼は得られない、そこがスタートであり、様々な取組を進めてきた。
過去に学校の統廃合が話題になったときも、「わしらがつくった学校だ」ということで、最初、統廃合は難しかった。しかし、学校を守るべきなのか子供の教育環境を守るべきなのか、徹底して議論をしたら、学校統廃合が進んだ。学校統廃合に向けた動きも、明治の時のように、地域の知恵を出し合って頑張っていこう、ということになったのだ。
 学校の信頼、教師への信頼を高めるために私も学校を回った。そして、地域も巻き込んで、議論をした。平成4年からは、学校ごとに、達成すべき課題や目標を明確にした。週間指導計画、単元別指導計画も、各学区の関係者で議論して作るようにした。恒常的に地域の人々も学校を参観できるようにして、学校は地域と一緒に、親と一緒に課題意識を共有し、危機感を共有するということを進めた。そうすると、学校を手伝おうという地域の人々が増えてきた。
 これまで学校支援ボランティアは、3万人に広がっている。外部評価を含めた学校評価システムも平成15年から全校で実施し、ホームページ等で公開している。
 開かれた教育課程を採用するなら、子供の学び、育ち全体を、学校、家庭、地域の全体で評価し合う関係にしていかなければならない。自らを振り返り、相手を評価し、ともに高め合う評価でなければいけない。そのような評価と一体になった学校運営協議会を進めていきたい。


<2>子供の現在とこれからについて話題提供


[新井紀子氏]
 明治期において、なぜ日本はこんなに急速に学校教育が広がったのか。それは、明治期の少し前に産業革命があり、それにより国民国家がヨーロッパで生まれ、民主主義が各国で広がったことと軌を一にするからだ。
 明治から昭和にかけて、高度人材が必要だという要請が生まれ、それが教育熱の高まりを生み出した。学校教育に投資をすれば、大きな結果となって返ってくる。そういう風潮があった。
 しかし、これからは、AIによって、状況が変わってくる。なぜなら定型的知識を定型的に活用する能力は、AIによって代替されてしまうからだ。多くの仕事がAIに代替される可能性が高い時代においては、教育投資はローリスク・ハイリターンの時代から、ハイリスク・ハイリターンの時代へと変わっていく。
 そのときに、一体、何を子供に学ばせることが汎用的で、最も確実な教育になるのか。過去の時代の教科書に大きなヒントがある。本日も、会場に、いくつか教科書を用意させて頂いた。
 例えば、ここにある中学校の数学の教科書だが、第1章の第1単元には、「産業の復興」という非常に具体的なことが書いてある。社会の教科書ではなく、数学の教科書であることに留意が必要だ。この教科書には、産業の進展によって、私たちの生活はどのように変わってきたのかということが扱われており、日常生活に必要な石炭、綿織物、鋼塊の生産について調べてみよう、という問題設定になっている。これは、生活単元学習と言われるものだ。
 その後の時代に、学力低下への批判があって、系統的な学習という流れとなっていくのだが、この生活単元学習に見られるような問題設定、つまり、「産業が復興するために、どんなことが我々に必要なのか一緒に考えてみよう」というような文章は、AIとっては腑に落ちて読むことのできない文章だな、と考える。
 AIにできず、人間にできることとは何か。まさにそれは、教科書に書いてあるような一定量のストーリーについて、その全体を腑に落ちる形で理解できるかどうかだ。その力は、人間には身に付けることができるものの、AIには、大きなフレームワークの読解ができない。そうした読解力を測定するテストとして、リーディングスキルテストを構築した。
 これからの時代、AIに身に付けることができない能力を、人が修得することが重要なのだという前提に立てば、その読解力のスキルが重要になる。しかしながら、リーディングスキルテストを通じて分かったことだが、現代の中学生は、読解力のスキルに大きな問題がある。教科書や新聞から100~150字で抜き取った文章を読ませると、3割以上が極めて理解力が低い。実は中学生の3割以上が、中学校の教科書が読めないまま卒業していることが分かった。公教育の本当の目標は、中学校を卒業するまでに「中学校の教科書が読んだら腑におちて、わかるようにする」ことの1つに絞った方が良いと考える。
 いくらでも読み進めることができる子供を育てることが、教師の多忙感を減らすことにつながるし、子供たちも幸せになる、これが人間に必要な汎用的な学ぶ力だと考えている。


[工藤勇一氏] 
 これからの変化の激しい社会を生き抜く子供たちをどのように育てていくべきか、について、学校現場からの視点でお話をしたい。
 麹町中学校で校長を務めているが、これからの時代に必要な非認知スキルの育成を重視していくとか、企業と連携したカリキュラムの実施、定期考査の全廃、宿題の廃止など、学校の当たり前をやめようという取組を進めてきた。
固定担任制も廃止した。チーム医療型である。子供が困ったら、その困った子供に対して学校全体でベストの対応をすることが重要である。ICTで個別最適化した数学の指導もしている。個別化して指導できるので、通常より2~5倍の速度で学習が進む。1年間140時間あるところ、早い生徒は30時間で終了する。
 IT企業の社長の協力を得て、スマホのアプリを開発する授業や、近隣の大学の大学生を呼んだ校内塾、部活がない日も泳げる温水プール、中体連を脱退してクラブチームに加盟をしたサッカー部の取組など、様々な活動を進めている。
 これからの子供は1つの会社に就職して、ずっと1つの会社で終わることはまずない。起業や転職を普通にする時代だ。しかし、学校では相変わらず、忍耐、礼儀、協調性、これらだけがクローズアップされる。実はこれらが子供の自律を阻んでいるということがある。
 学校の本来の目的、つまり、人は人と付き合い、つながり、社会のなかで生きていく。それを支援するのが学校だ。この過程でのインタラクティブなコミュニケ―ションを支援すること、これをまず、やっていかなければならいのである。
 しかし、カリキュラムをこなすことが目的となっているのではないか。教科をこなすこと、学習指導要領をこなすことが目的になっている。日本中、「やること・こなすこと」が目的になっているのではないか。学習者主体で考えなければいけない時代だということであり、学習者主体で必要なカリキュラムは何なのかを逆算する時代である。
 明治維新以来、一斉教授型の授業スタイルがずっと140年間行われてきたが、一方的に情報を伝達されて、それを暗記して得点を取るといったスタイルは、世の中ではほとんど役に立たない。一斉教授型ではなく、授業の中での人と人との学び合いスタイル、それが重要だと考える。
 また、カリキュラムの量が多過ぎる。学ぶべきことはミニマムにして、一人一人の多様性を上手に生かすような教育が必要なのではないかと思う。また、ICTの力も借りて、個別最適化された授業を行うことも必要になってくると考える。



<3>自由討議

[小川正人氏]
 麹町中学校のようなグッドプラクティスは、なかなか普及しない傾向がある。麹町中学校でうまくいっているポイントはどこなのか、教えて頂きたい。そして、その上でだが、そうしたポイントを学校教育関係者で共有しつつ、普及させるような仕組みを、教育委員会に作っていくということに向けた議論が重要だと考える。

[工藤勇一氏]
 本校の取組は、最初はトップダウンで進めた。5年前の赴任時の最初の1年間、課題は340項目あった。それを1年間で半分の170まで減らした。関係者を当事者にしていく作業が必要で、教員も保護者も、みんなで課題を出し合って解決策を全員で議論して考えていった。コミュニティスクールにも、生徒たちが参画している。
 また、生徒の自律を促すことが重要である。例えば、学力向上と言っても、生徒が出来ない問題を教員が教えるという方法は取るべきではない。生徒の自律を削ぐからだ。聞いて覚えるのが得意なのか、読んで覚えるのが得意なのかなど、課題を克服するルーチンは何なのかということを自分の生きるスタイルとして見出していく過程が重要なのであり、その発見を支援するのが教師の役割だ。


[鈴木寛氏]
 麹町中学校は、皆さんどういうイメージを持っておられるか分からないが、普通の学校である。私立に行かない60%の子供を引き受けて、公教育が行われ、学校教育法や文科省の通達にも一切触れることのない、特区でもない取組だ。既存のルールの中でこれだけのことを、現場の尽力でやってきているということだ。京都市の取組についても、全て現行法令のなかで行っておられるものである。
 ある意味、分権化のステージに1980年代、90年代から入っているが、学習指導要領はそのような分権の方向かもしれないが、大学入試は、実はここ40年間、変更がなかった。それが2020年から方向が合致していくことになる。こうして、どんどん分権が進んでくことは良いことだが、全国に約1万の中学校があると、取組のばらつきがどうしても出てきてしまう。
 残された時間は、グッドプラクティス、良い事例をどう横展開していくのが良いかを議論していきたい。それから、教育関係者も含め全ての人々が自分自身できちんと考えていく方法、どのように仮説や検証をしていくのか、客観的にPDCAを回していくべきか、といった点についても、御意見を頂きたい。

[門川大作氏]
 当事者意識を持った人々が、学校運営協議会、協議会に設置される理事会、さらには、企画推進委員会に参画し、学校を良くしていくことが、学校を良くするきっかけだった。統治と自治の緊張関係が重要であり、放任でまかせっきりではなく、緊張感を持たせた形で任せると、自主的な議論が進み、成果が出たということが言える。堀川高校は、がたがたの学校だった。しかし、教師を異動させないで、教師の意識と行動を変えて取り組めるように持って行けたときに改革が進んだ。

[工藤勇一氏]
 5年前自分が赴任したときは、教員が、子供に自分で自律して考えるように指導をしていなかった。教員自身も、学校も、教育委員会も、そもそも自律した組織になっていない。そういうことが全国で見られるのではないか。
 本校では、生徒会、体育祭、文化祭など、生徒に丸ごと委ねてあげて、生徒の権限と責任のもとで全ての取組をさせている。先ほど、門川市長は「統括と自治」と話されたが、責任だけ与えても動かない。
 その上で、目的をもって活動をさせることが大切だと考える。何のためにやっているかわからない教育活動を黙って鵜呑みにしてやる活動が良い方向に行くわけはない。関係者で対話をして合意形成をしたうえで目的を設定し、活動していくことが重要だと考える。

[新井紀子氏]
 グッドプラクティスは広がらないという、先ほどの指摘については、私は実感がない。
 リーディングスキルテストは、グッドプラクティスを広げようということで始めたのではなく、「生徒の読解力がない」という教師達の危機感とマッチしたから、数年で10~20万人が受ける調査にまで発展したのだ。実際、入学できる高校の偏差値とリーディングスキルの能力値の相関関係は、0.85もある。実感を伴うときには、良い取組は広がるものだ。
 また、同じ良い取組を画一的に広げることがグッドプラクティスなのではない。読解力の問題を考えるとき、色んなタイプがある。主語と述語との関係が分かっていない子、同義文が分かっていない子、定義が読めない子、それぞれにおいて、処方箋が異なる。そのような個々の処方箋を納得した上で対応することがグッドプラクティスなのではないかと考えるし、その納得が進まないと、きちんとしたPDCAが回らない。

[鈴木寛氏]
 その処方箋が個別最適化ということだと考えるが、その能力を教員にどう育成すべきか。

[新井紀子氏]
 全国学力・学習状況調査のB問題(活用型)で、課題がある生徒の分析をしてみると、そもそも問題文を解釈できていないようなケースが多い。まずは、問題文をきちんと読めるというところまでたどり着けることが重要であり、読めてイメージが掴めるようになれば、大体、問題は解けるのである。読めてイメージをつくることを小学校4、5年生でしっかり習得させること、そのような教育活動が重要だと考える。

[小川正人氏]
 諸外国、世界でも取り組まれている新しい学力の育成については、あまり浮足立つ必要はなく、学校現場で大切と思われていることをしっかりと行うことが大切なのである、ということを新井先生のお話を聞きながら考えたところだ。
 PISA 型学力が世界1、2位という順位に位置する国・地域(シンガポール、上海など)には、実は、受験志向が強い国も多い。そうした実態もあることから、PISA学力調査は、本当に新しい学力を測定できているのかどうか、また、従来の知識・技能をしっかり習得させる学習指導・形態のなかにも、新しい学力の育成に貢献できる部分もあるのではないかなどの指摘もある。PISA型学力やその指導方法などを巡っては諸外国では論争的なのである。

[鈴木寛氏]
 新井先生が言う読解力と、工藤先生が言うコミュニケーション力は、一体である。読めなければコミュニケーションも出来ない。肝心なのは、読解力を磨いた先に、質の高いコミュニケーション力や交渉力が身に付くなどというように、教育の目的を明確にすることだ。PISA調査でも、日本の子供の学ぶ意欲は極めて低い。教育の先に何があるのか、それを明確にすることが重要なのである。

[工藤勇一氏]
 現場の立場から、読解力を高める方法についてお話ししたい。これまでの時代は、文物を読んで、これが読めたかどうかが重視されてきたきらいがあったかもしれない。
 しかし、これからの時代は、自身の意図が、他人に伝わったかどうかが出発点だ。仮に、伝わらなかった場合には、相手が悪いからだということではなかろう。自身の意図が他人にしっかりと伝わるよう、他人を意識し、社会を意識し、言葉をうまく伝えたいと思うからこそ、言葉というものを学びたくなる。それが能動的な学習の始まりなのである。
 したがって、他人や社会に自身の意図を伝えたい、という目的なしには、読解力は深まらないと考える。そうした目的に根差した実践が重要なのである。

[鈴木寛氏]
 本日のシンポジウムは、明治150年の節目に際しての議論で、論点も多く、そもそも一つの結論に集約することは難しい。おそらく150年間、こうした議論を我が国、あるいは、世界で積み重ねてきたのだと考える。熟議や実践を重ね続けることで、常に改善を図っていくということになるのだろう。
 本日のような議論は、何かのノウハウとかハウツーを得るというものではなかろうが、教育の本質や学びの本質を、それぞれの現場で考えて頂くという、そうした一つの契機になれば良いということを最後に申し上げておきたい。



お問合せ先

総合教育政策局政策課

電話番号:03-6734-3277

Get ADOBE READER

PDF形式のファイルを御覧いただく場合には、Adobe Acrobat Readerが必要な場合があります。
Adobe Acrobat Readerは開発元のWebページにて、無償でダウンロード可能です。