ここからサイトの主なメニューです

宇宙研究開発

衛星自主開発路線への転換(森本 盛氏、青江 茂委員)

 対談する森本氏と青江委員

日時

平成21年4月21日(火曜日)14時~16時

場所

文部科学省庁舎 東館18階 宇宙開発委員会 青江委員執務室

参加者

森本 盛(元宇宙開発事業団職員)

青江 茂 (宇宙開発委員会委員)

メインテーマ

衛星自主開発路線への転換

(敬称略、肩書きは対談時点)

青江:宇宙開発事業団(NASDA)での衛星技術開発は、ざっくり言って二つの流れがあったように理解しております。ひとつは、通信衛星(CS)、放送衛星(BS)、気象衛星(GMS)という実用3分野の衛星を一刻も早くモノにする、そのためには外国からの技術導入、部品の輸入も大いに活用しながら決めたタイミングをきちんと守って順次経験を積み重ねていく、もうひとつは、技術試験衛星(ETS)でもって自主技術を開発していく、そして、自主技術開発の成果を逐次CS、BS、GMSの開発過程に投入して自主技術によるCS、BS、GMSを作り上げていく、といった戦略で臨んできたように考えています。そこで今日は、後者の方、ETSによる自主技術開発の流れについてお話しを伺わせていただければと思っています。 まず、ETSの1号機の立ち上がりあたりの状況はどのようなものであったのでしょうか?

森本:スタートは、郵政省が4者協議会というものを始められました。4者というのは郵政省と、NHK、KDD、それからNTTですね。私はNTTにおりました。

青江:これはNASDAができる前ですか。

森本:発足前後といったところです。衛星については郵政省が旗振りをなさって、国策としてスタートするから協力せよということで始まりました。

青江:始まりは郵政省と、そういう感じですかね。

森本:郵政省の考え方は、まず実用衛星について、NTT、NHKの意見を聞くということでした。KDDはインテルサットがありますから、オブザーバーですと最初から明言していました。私はNHKの研究所の方といろいろ話をしました。事業部門の意向としては、安くて信頼性のある海外のものを使いたいと、NHKもNTTも上の方はそういう意向でした。ただお上に逆らう訳にはいきません。NHKは、もともと国産化するつもりはなかったようですね。仕様書が書けるように裏打ちされた技術を確立したいのだというようなことを言っていたように思います。

青江:NHKらしいといえばNHKらしいですね。

森本:NTTの方は、自主開発でないと研究予算が組めないので、すべて自分たちで作るということでやりはじめました。ただ私が室長をやっていた頃から、どうも雲行きが怪しくなってきたのを感じまして、口では言わないのですけれども、事業部、要するにNTTのトップは、衛星は輸入したいという感じでした。

青江:そうするとNTTは2つに割れていたということですか。事業部、つまりトップと、研究所とが2つに割れていたと。

森本:私はトップと意見が合わないので辞めたのです。

青江:郵政省はやっぱり自分で、自前の衛星をやりたいという強い意向はあったのですね。

森本:それはやりたかったのだと思います。たくさんの人を送り込んでいましたからね。ところがそういうことがありまして、やっぱりNTTもNHKも通信衛星と放送衛星の国産化は無理、早急に調達でき、しかも安くて信頼性のあるものを輸入することもやむなし、というのが4者協議の結論になりました。

青江:郵政省は何とか自前のものを作ろうと、NTTとNHKを引きずり込んで動き出したのが、だんだん怪しくなっていたというところでしょうか。

森本:それは最初から乖離があったと理解しています。NTTにNHK、それに気象庁も後から加わりましたが、みんな米国のものを買わないと時期を失するということでした。それでETSの方はどちらかというと、電波研のエンジニアの方が中心になって進めておられました。NHKとNTTはETSにはほとんど係わっていなかったとご理解ください。係わっている時間的余裕はありませんでしたから。

青江:通信衛星、気象衛星、放送衛星といった実用衛星というものを考えれば、NTT、NHK、気象庁の方はETSというものに係わっている余裕はなかったということですね。ところが一方で、技術試験衛星Ⅰ型(ETS-Ⅰ)、電離層観測衛星(ISS)、それから技術試験衛星Ⅱ型(ETS-Ⅱ)が開発されている訳ですよね。そちらにはどのような方が関与されていたのでしょうか。

森本:ETSをやりたいという意志は郵政省、特に電波研の方々が強く持っておられました。何とかして自分たちで衛星を作りたいと思われていたと思います。

青江:そうすると電波研の方々が中心となって、NASDAができて若手の技術者も採用したでしょうから、そのような方も加わって技術試験衛星Ⅰ型というのを手掛けたということでしょうか。

森本:そうですね。そういう理解ですね。理事でこられていた平井さんも電波研ですし、中心になってお仕事をされていた石澤さん、宇田さんという方も電波研でした。そういう方がETSをやっておられました。

青江:技術試験衛星の1号目、ETS-Ⅰが打上がったのは1975年(昭和50年)ですね。NASDAが発足したのは1969年(昭和44年)ですから、発足してから6年後に、自分たちが手掛けた最初の衛星を打ち上げたということですよね。それは、良くやったという気もするのですが。

森本:N-Iロケットは良くやったということなのですけれども、ETS-Iについては、実用衛星としての開発要素はない、というのが私の本音です。何でこうなったかといいますと、ETS-IはN-Iロケットの追跡が目的だったんですね。その電波を出すのが至上目的であるという経緯で開発されたものでしたので。

青江:国産のものを目的にしたけれども、宇宙研の科学衛星等で培われた既存の技術を集大成しただけで、衛星開発という側面からすると、何か新規に開発したもの、挑戦しようとしたものは、ほとんどないということですか。あえていうと、NASDAが初めて衛星を手掛けた、その経験は残ったと言えますかね。

森本:そういったことだと思います。NASDAが衛星について本格的に勉強したのは、ETS-Iの次のISSとETS-Ⅱではないかと思います。ISSは電離層観測衛星で、電波研のミッションそのものですよね。これは、三菱電機が自力で作ったのですけれども、一機目はバッテリーが温度上昇で壊れてしまいまして、二機目は成功しました。

青江:ISS、うめ1号は1976年(昭和51年)に打ち上げられていますね。うめ2号はその2年後の、1978年(昭和53年)ですね。

森本:うめ1号はほとんどだめになってしまいました。ここで三菱電機は、どういうところが危険かと、どういうところを注意しなければいけないかと、かなり勉強しているはずです。この経験がかなり役に立っていると思います。

青江:これは100%国産ですね。三菱電機が本格的に手掛けた初めての衛星でしょうか。

森本:そういうことですね。三菱電機は勉強したでしょうね。次のETS-Ⅱですが、これはハードウェアは全部アメリカのフォードから買ってきました。

青江:これも三菱電機ですね。

森本:そうです。それで三菱電機がETS-Ⅱで何を勉強したかと申しますと、衛星をどうやって作るかというその組み立てのプロセスを、向こうの方にも来ていただいて勉強したと思います。これは製造技術として役に立ったようです。組み立てる場所の温度や湿度の制御といった製造環境ですとか、それにトレーサビリティ、信頼性保証に係わることですけれども、何月何日に誰が何をとりつけたかなどを全部書かなければいけないのです。そうしておくと、あとで事故が起こった時に、これでこうなのだからここを直しなさいということが分かるのです。まさにアメリカの、NASAのやり方ですよね。これらを勉強して、三菱電機は技術を身につけました。

青江:三菱電機はここでフォードの技術を相当勉強したのですね。そうすると、ETS-Ⅱと同じ年の1977年(昭和52年)に、通信衛星「さくら」(CS-1)が打ち上げられていますが、こちらも三菱電機ですよね。ここでも三菱電機はフォードの技術を教わったのですか。

森本:CS-1の方はですね、ほとんど向こうで作っています。

青江:いってみれば海外の衛星の調達に近いようなものですか。

森本:ええ。のせる通信機だけNTTのつくったものを、一個だけのせるという話です。

青江:そうしますと、国産化率はETS-Ⅱが40%でCS-1は23%ですが、その程度の違いではなくて、ETS-Ⅱは、それなりに三菱電機がかなり手を入れたということですか。

森本:国産化率をお金の尺度でみますと、ETS-Ⅱの方は、人件費になって、その分人間が勉強しています。CSの方は、NTTの通信機器が乗っているだけです。NASDAの人間も一緒に勉強させていただきました。職人の技というものですね。衛星というのはこうやって作るので、こういうことに気をつけないと、後で失敗してしまう、ということですね。

青江:CSの方とは勉強の度合いが相当違うのですね。ところでETS-Ⅱは日本ではじめての静止衛星ですよね。

森本:はい。ETS-Ⅱの開発では、静止衛星に係わる様々な技術の修得を目指しました。また初期のNASDAは衛星の追跡が重要な業務でしたが、NASDAは自前の地上システムで静止衛星の追跡の運用を行い、システムの確認と職員のトレーニングが出来ました。ETS-Ⅱの衛星の価値はずっと高いと思います。

青江:なるほど。ISSとETS-Ⅱでかなり日本も力をつけたということですね。実用衛星のCSやBS、GMSというものは、流れとしてはありますけれども、ほぼ海外からの調達、ないしはノックダウンということで、ある程度は国産化に貢献したのかもしれないけれども、自主技術の開発という意味では、次に来るのはETS-Ⅲですね。ISSとETS-Ⅱでここまでいったのだから、もうちょっと進歩させようかというのがETS-Ⅲですよね。ETS-Ⅲでは何をしようとして、何が達成できたのでしょうか。

森本:経緯を申しますと、それまで衛星の姿勢制御はスピン方式が主でしたが、一方三軸姿勢制御の技術も必要ではないかと、当時宇宙開発委員会の委員であった山内 正男さん※ 、後にNASDAの理事長をされておりますが、その山内さんがおっしゃいまして、今東芝に余力があるものだから、東芝に三軸姿勢制御を勉強させようとして始まりました。ただ東芝はやりますと請け負ったのですが、スケジュールをなかなか掴みきることができませんでした。GEは量産していて、既存の技術を使って技術開発の要素がありませんから、短いスパンでできますよね。ですからGEはそのままのスケジュールを提案してきた訳です。それをそのまま受けてしまいましたので、向こうの技術を持ってきて、東芝が勉強して自分のものにする時間がありませんでした。それに気づくのが遅くて、抜き差しならない時期になっていました。ユーザーや搭載する機器も決まっていましたし、GEとの契約もありますから、もう戻れないところでそれが分かったのです。齋藤成文先生がお怒りになって、結局私からすると、失敗だったと思うのですが、結果的には、GEのものを買ったわけです。

※山内 正男氏は、1979年(昭和54年)9月10日~1980(昭和55年)6月17日まで宇宙開発委員会委員を務められ、その後1980年(昭和55年)6月18日~1984年(昭和59年)6月17日まで宇宙開発事業団の理事長を務められた。

青江:いわゆる技術の一番肝のところは、アクセスできなかったということですか。

森本:自分で消化して確認する時間が無かった訳ですよね。だからこれは、逆に言うと、ある意味GEの戦略だったとのではないかと、私は悪意に解釈しています。

青江:なるほど。思うような成果は上げられなかったのですね。

森本:三軸姿勢制御というものを、初めて日本の企業が体験したという成果はあります。また、三軸姿勢制御のオペレーションの勉強をNASDAがすることはできたと思います。

青江:三軸姿勢制御が重要なのではないかと言うことでトライして、狙い通りとは行きませんでしたが、ある程度は、スピンではない三軸姿勢制御という技術は修得できたし、NASDAはオペレーションの勉強をできたという訳ですね。衛星の発展の変遷をみると、三軸姿勢制御をやらなきゃいけないという山内さんの着眼は、いいところをついたわけですよね。

森本:それまでCSとGMSはスピンでしたけれども、BS-1は三軸姿勢制御で、それはGEがやっていましたから、的を射た指示であったと思います。山内先生が宇宙開発委員会委員の頃にそういう指示をされて、その後にNASDAの理事長としてイニシアティブをとられたと記憶しています。

青江:次はETS-Ⅳですよね。これは何をしようとしたのでしょうか。

森本:N-Ⅱロケットの追跡用の電波を放つのが主目的でした。ダミーウェイトですね。でもそれだけでは予算要求が難しいからというのでいろいろなミッションを集めているのを、私は横から見ていました。

青江:衛星の技術としてはどのようなものがあったのでしょうか。資料をみると「大型静止衛星への技術試験」と書いてありますね。

瀬下:主な搭載機器は、スキャン型地球センサ、パルス型プラズマエンジン、ガリウムひ素FET増幅器などです。

青江:そのような部品技術にトライしたわけですね。このへんを見ますと、こういう機会をもっと利用して、バス技術についてトライすればよかったのにと、素人目にはそういう気がするのですが。

森本:私もそう思います。これは三菱電機が開発したのですが、後で聞いてみたら、期間がありませんということでした。静止衛星で使うようなバスを作るには、軽くしなければならないわけで、作って、壊して、作り直して、そういう時間が必要であるということでした。三菱電機はISSで失敗しましたから、その経験でもって、2年で8億円が必要だと、すぐ即答がきました。だから彼らは彼らで検討していたと思います。ただN-Ⅱロケットのスケジュールは、それを許すようなことではありませんでした。

青江:N-Ⅱロケットのスケジュールがしっかり決まっているのだから、そのスケジュールからすると、衛星バスの自主技術にトライする時間的余裕はなかったわけですね。それでどうにか、宇宙空間で実証できるものはなにかないかと、部品技術などをかき集めてやったと、そんな感じでしょうか。衛星の都合でもってロケットの打上げを遅らせてくれとは言えないということですね。
 そうすると次のETS-Ⅴは、打上げられたのが1987年(昭和62年)ということで、ETS-Ⅳ※の打上げから6年以上経つわけですが、ETS-Ⅳで衛星バス技術を本格的にトライする機会を逃したので、今度のETS-Ⅴでは、その機会は逃したくないということではじまったのでしょうか。

※ETS-Ⅳの打上げは1981年(昭和56年)2月11日で、ETS-Ⅲ(1982年(昭和57年)9月3日打上げ)より先に打ち上げられた。

森本:じつはその前に、私はNASDAに入ったときにAMES(Aeronautical Maritime Engineering Satellite)という航空海上技術衛星を担当していました。三菱電気とNECに検討をさせたのですが、NECはアメリカのヒューズで構体を作り、日本でねじ止めをするということで、国産ではやらないということなので却下しました。それで三菱電機にどれほどできるかということでやらせてみたら、重くて、通信機器がほとんど乗らない結果となりました。4分の1しか乗らないのです。その時に、何故ETS-Ⅳの時に軽量化しなかったのだと三菱電機に言いましたら、先ほどの話ですが、2年と8億円あればできますと、即答が来ました。あぁやらせれば出来るんだなぁと思いました。ただ2年伸ばすとなると、N-Ⅱロケットのミッションでは無理だということで、衛星計画そのものがなくなりました。しかし静止衛星バスの自主開発のきっかけになったという点で、AMESの貢献度は甚大だと思います。

青江:ETS-Ⅳの次にAMESで、バス技術の開発にトライしようとした。ところが自前でそれを手掛けるからには、時間と金、特に時間がいる、とういうことで、結果的にはロケットとの関係で中止になったわけですね。それでも、そこでトライしようとしたことが、もととなって、ETS-Ⅴで自前のバス技術をやってみようではないかと、そういう風に発展していったという感じですね。それでETS-Vで、NASDAははじめて、自前バス、静止衛星の自前バスにトライをした。そこはそんな簡単には行かなかったと思うのですが。

森本:理想までは行きませんでしたが…。H-Iロケットの打上げ能力ですと、燃料混みで1tまでは良いのです。それで燃料をとると550kgですね。更にアメリカのレベルを求めると、550kgの14%に構体を抑えないといけない。それを越えると通信機器が乗らなくなりますからね。

青江:この条件を満たすということは、割合順調にもっていけたのですか。

森本:実際は17%や18%で妥協しました。三菱電気はISSで懲りていましたからね。

青江:少しは多めにみたけど、かなりの線はいけたと言うことですか。

森本:通信機器が乗ることはできました。

青江:100点満点ではないけれども、ETS-Vで衛星バスができたというのは、AMESでNASDAと三菱電機が一緒になっていろいろ苦労してやっていたからですか。

森本:AMESの時は、みんな絶望感を感じていましたからね。ミッションを達成するなら、アメリカから買わざるを得ない。ふがいないとみんな思っていました。

青江:挫折し、その挫折過程でそれなりの勉強をし、その積み重ねがあるから、そのくらいまでたどり着けたという訳ですね。そうするとETS-Ⅴの最大の課題は構体の重さ、これをどこまで落とし込んでいけるか、ということですか。もうひとつは三軸姿勢制御ですね。

森本:ETS-Vのもう1つの目玉は三軸姿勢制御です。三軸姿勢制御技術に関しては、三菱電機は順調にいきましたね。構体よりはやりやすかったんだと思います。安定させる技術は、船のジャイロスコープと同じで、コマを回して安定させる。だからうまく真空でコマを回るように信頼性をあげればよいわけです。そこは意外とうまくいきましたね。むしろ構体の方で苦しんで、もっと頑張れといったのですが、首がかかっていますからと泣き落とされました。

青江:構体というのは経験がものを言うからですかね。ETS-Vでは三軸姿勢制御はちゃんとできた訳ですよね。

森本:細かい技術は日本はちゃんと持っているのだと思います。

青江:軽量化をはかった構体と三軸姿勢制御、それらを狙いとしたETS-Ⅴは、それなりの目的を達成し、自主技術の静止バスはそれなりのところにたどり着いた言うことですか。

森本:それから後はこの技術を改良していけばどうにかなるだろうと言うところまでにはたどり着いたと思います。

青江:ETS-ⅤからETS-Ⅵへの流れなのですが、一般的に日本の衛星バスがだいたい仕上がったのはETS-Ⅵと言われていますよね。

森本:私はむしろ、ETS-Ⅴは三菱電機でETS-Ⅵは東芝ですので、二つのメーカーがそれぞれの技術を育てたと理解しています。

青江:なるほど。

森本:ETS-ⅤからETS-Ⅵで技術が飛躍的に伸びたとは思っていません。例えば家の強度について、阪神淡路大震災の時に、木造の家のどこが弱いかということを学びました。あれと同じで、いっぺん壊れて学んでおくと、その経験が大事となるのです。

青江:失敗の経験ですか。

森本:失敗してみると、どこが危ないかは分かるのです。

青江:東芝は大失敗の経験はしていないでしょう。

森本:ETS-Ⅵの時に、作って壊すということをやらせました。

青江:なるほど、開発過程でそのような経験を踏ませたのですね。ところで、三者体制の残りのNECのバス技術への取り組みはどうだったのですか。

森本:NECは構体はやらないと言っていました。彼らは電気屋ですから、そこに機械屋をいれるのは難しかったのではないでしょうか。私も何度もNECに言って話したのですけれども、意欲的な返事はかえってこなかったですね。

青江:それは、構体はアメリカのヒューズから持ってくればよくて、自前でやる必要はないということですね。電気屋として肝心なのは通信機器の部分であるという感じでしょうか。
 ETS-Ⅵに話を戻したいと思いますが、ETS-Ⅴが550kgで、ETS-Ⅵが2tですよね。550kgと2tとの間の、技術的な進展はいかがですか。

森本:550kgから2tへの過程では、技術的に特に大きなことはなかったのではないかと思います。ETS-Ⅴの開発過程で、これから破壊試験にかけるという時に、ISAS(宇宙科学研究所)の野村民也先生が、ISASの三浦先生に見てもらえとおっしゃるものですから、見ていただいたところ、三浦先生は小型の科学衛星の経験から、ここらへんとこのへんが弱いのではないかなぁと2箇所指摘したのです。それで振動試験にかけてみたら、その通りその2箇所が壊れたのです。私はびっくりしましたね。建物の強度などを見ても、根底にあるのは大きい小さいに関係なく同じなのですね。

青江:そういうことで、1987年(昭和62年)のETS-Ⅴと1994年(平成6年)のETS-Ⅵで2トンの衛星バスが日本の自主技術でできるという状態にまでいったわけですが、当初の目論見は、80年代末にETS-Ⅵを打上げ、ETSのⅤとⅥの成果をもって90年代前半にCS、BSⅣで国産の通信衛星、放送衛星を作り上げよう、というものでした。当時、私はたまたま旧科学技術庁の宇宙開発政策を担当する部署にいたものですから記憶しているのですが、CSにしろBSにしろ、ユーザー、即ちNTT、NHKですが、そのユーザーとNASDAが資金を分担して協力してそれらの衛星を開発していました。CS、BSのⅢまで開発した後、あと2回即ちCSのⅣとⅤ、BSのⅣとⅤまでの開発・運用を行えば、日本の衛星は世界の市場で競争できる力を持つことができるようになるだろう、あと2回、CSとBSの開発をそれまでのやり方で進めようと関係者の間で話し合っていました。ところが、“日米90年合意”です。それまでの目論見は吹っ飛んでしまいました。目の前にあったCSⅣとBSⅣの計画は放棄せざるを得なくなりました。そしてETS-Ⅵの計画もこのような状況の下で大幅に遅れてしまいました。これが当時の状況な訳ですが、大幅に遅れたにしろ、ETS-Ⅵを仕上げたところで日本メーカもかなりの力をつけてきたんだと思うのですが、その後の状況を見ると海外メーカとは全く太刀打ちができていないですね。このあたりをどう見ますか。

森本:技術的には心配ないと思いますが、コストの面と、やはり軌道上の実績が少ないのが辛かったと思います。

青江:技術は届いていたのだけれども、なにぶんにも、1つはコストで、1つは実績。ユーザーからすれば実績・安定が大事ですから、その2つの点でどうしても見劣りがして、オープンテンダーでは勝てなかったのでしょうか。

森本:ユーザーの目からすると、どうしてもそうなるのだと思います。それから通信衛星に関しては、ユーザーがそれほどいなかったというのもあったと思います。海外では商売として成り立っていたのですが、日本は狭い国ですから、距離が短くてニーズが弱かった。インテルサットはできるけど、国内衛星通信は非常災害と離島通信をメインの目的に標榜するといった状態でした。

青江:衛星通信、衛星放送の分野は国内ではあまり延びない。そうすると衛星の数も限られる。しかも強い海外メーカーがいる。そういうことだと日本の衛星メーカーに何か支援の手を差し出したとしても、間接的な手では辛かったかもしれないということですか。

森本:事業の立場から見れば、海外の量産している安いものを買ってきてやればいいという考えにどうしてもなりますよね。

青江:そのような苦しい時代を経て、三菱電機がスカパー!JSATのスーパーバード・C2、シンガポール/台湾の通信衛星と2機の商用衛星を獲得するに至るわけで、大変すばらしい出来事と思うのですが、それに先立つDRTS(データ中継衛星)とETS-Ⅷ(技術実証衛星)の開発を通じ日本の3トンバスを作り上げようとの成果が三菱電機の標準バスに繋がっていったことも特筆すべきことのように思います。

森本:大メーカーでないとできないことだと思います。どのメーカーにも、3年に1個くらいの仕事じゃ人材を確保できない。勘弁してくださいとよく言われていました。三菱電機はよく頑張ったと思います。

青江:それとかなり重なるのですが、外国のメーカーは比較的早い段階で標準バスというものを打ち出して確立させているようなのですが、他方、日本のメーカーではそれに比べて随分遅れているように思えるのですが、いかがでしょうか。

森本:昭和50年の始めのころには、アメリカは標準バスというものを言っていましたね。

青江:1975年頃ですか。ずい分早いですね。

森本:その頃NASDAの中でも、中高度ですが、標準バスとはこういうものだというのを検討しております。概念設計の段階で皆で集まって検討したのですが、標準バスというのは、このミッションはこう、このミッションはこうと考えると、どうしても無駄が出てくるのです。バスの形を決めると、ミッション機器を搭載する方からすると載せづらいという話もあって、いろいろ議論したのですが効率が悪いのです。日本のように打上げ能力がまだあまりない時代では、数も少ないですから、個々に最適設計にしてぎりぎりでやっていった方が、全体としてお金の効率が良いのではないかという結論になりました。それで効率の点と、搭載する機器への柔軟性ですね、その時々に合わせればいいということで、いっぺんは検討はしたのですが、1980年(昭和55年)くらいに辞めようという決断をしています。打上げ能力にゆとりがあれば、それなりに遊びがあってもよいのですが、打上げ能力が乏しく、ぎりぎりでしたから、標準バスというものを考えると、ミッションの方がうまくいかなくなるのです。ゆとりができてくれば少しくらい、という考えはあったと思うのですが。

青江:いろいろな事情があったのでしょうけれども、ETSのプロセスも含めて、世界と勝負する日本バスを作り上げる、ミッション側に少し遠慮してもらってでも、20年くらいのスパンで、ものを考えてもよかったのではないかと思うのですが。

森本:そういう長期的スパンでの戦略までは及ばなかったですね。

青江:一個一個のミッションをこなしていくのが精一杯だったという事情、時代環境というものは、なんとなく感じとしては分かります。今日の日本の衛星技術、おしなべていって、それなりのところまでいっているのだけれども、やっぱりどうしても重い、大きいというのが、日本の弱点ではないかと言われていますが、その点はいかがでしょうか。

森本:むしろ量産でないからコストの方が弱いと思います。国際競争力という点では、コストと実績が重要です。

青江:3つ4つの製造ラインが同時並行で動いている工場と、1個1個を細々とやっている工場、そこの競争力の差、そこが一番大きいと言うことですか。

森本:どうしても人件費が高く付きます。それがフル回転の状態になっていないと、全部かかってくるのです。それに、アメリカはヘッドハンティングがあって、技術者がどんどん動きますが、日本の場合は抱え込んでしまいますから。産業としては数が少ないと大変厳しいですよね。

青江:これまで衛星開発の歴史を回顧していただいたのですけれども、最後に、今後に向けて何かありますでしょうか。

森本:そうですね。我が国の衛星開発は、そのときそのときの条件で、一生懸命やってきたとは思うのですが。今後は、やはり世界の中で雄飛して欲しい。そのためには、キーとなる部品・コンポーネント・技術の開発を、やはりJAXAが引っ張らないといけないと思います。そして最も肝心なのは数だと思います。地球観測のような社会的・国際的貢献度が大きい分野をはじめとして、政府ミッションの数を確実に増やしていくことが重要だと思います。

(了)

お問合せ先

研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付

 

(研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付)