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宇宙研究開発

輸送系ロケットの開発(五代 富文氏、松尾 弘毅委員長)

 対談する五代氏と松尾委員長

日時

平成21年3月9日(月曜日)14時~16時40分

場所

文部科学省庁舎 東館18階 宇宙開発委員会 委員長室

参加者

五代 富文(宙の会 代表幹事、元宇宙開発委員会非常勤委員、宇宙開発事業団副理事長)

松尾 弘毅 (宇宙開発委員会委員長)

メインテーマ

輸送系ロケットの開発

(敬称略、肩書きは対談時点)

松尾:五代さんの宇宙の仕事は、富士精密、NAL(航空宇宙技術研究所)、NASDA(宇宙開発事業団)、SAC(宇宙開発委員会)、「宙の会」というのが基本的な流れですね。

五代:そうですね。

松尾:割に知らないのは、NALに入られる以前の、富士精密のころの話ですね。そこで宇宙と取っかかりができて。

五代:そうです。

松尾:それでNALに移られたのでしょうけど、その辺のきっかけとか、動機とかというのを伺わせていただければと思うのですが。

五代:私は1957年(昭和32年)に東大の航空学科を出ましたが、それが、航空学科戦後再開第2期なのです。そのときの学生は、全部合わせて15人かな。その中で、いわゆる宇宙、今でいう宇宙ロケットをやる人は、もちろんだれもいなかったし、講義はひとつもなかった。ジェットエンジン最盛期ですよ。それで、ジェットエンジンはあまり好きでない回転機械だし、飛行機は今さらと思っていましたからロケットをやろうと思いました。
 戦争が染みついていた私にとっては、軍用は嫌でした。そうすると、始まったばかりの東大ロケットしかないですね。東大ロケットをやっているところは、航空研がありましたが、学のある方じゃないし、あのころはみんな企業に行く時代でした。それで、熊谷清一郎先生に相談したら、「それは富士精密だよ」と言われました。富士精密は、御存じのように、その後、プリンス自動車、日産自動車に、今はIHIエアロスペースに変わりましたけど、東大ロケットをやっているのはそこだけだった。
 富士精密には設計一課・二課、研究一課・二課とあって、設計一課の一部が東大ロケット設計だった。設計二課は誘導ミサイルのサイドワインダーです。設計一課に入って、東大ロケット担当者がよほどいるかと思ったら、だれもいないんですよ。いたのは、課長代理の板橋宗雄さん。

松尾:板橋さんね。

五代:板橋さんが全部を見ていたんですね。それで、そこにいたのは、垣見さんですよ。

松尾:垣見さんもお元気ですね。

五代:垣見さんが1人で、あとは、あのころ設計屋さんといって図面を引く人が4人ぐらいいました。そこに私が入ったわけですね。ど素人が東大ロケットの設計に入ったわけです。
 今みたいなコンピューターはない時期です。あるのは、ヘンミの計算尺と、手回し機械式のタイガー計算機、製図板、それだけですね。ろくろく資料もないし。設計というのは、要するに、計画まで含めてやるんですけど、ともかくそれしか人がいない。垣見さんがいて、私がいて、あとは、図面を引く人だけ。そのころつくったロケットは、ろくなのができるはずはないですね。
 私が最初にやったのは、カッパー初のK128の図面をかきましたね。それから、尾翼の設計などやりました。そういう地上発射型ロケットと並行して、今は世の中から忘れられているロックーン(気球に観測ロケットを吊り上げて高空に達した段階で発射するという手法)を担当しました。バルーンから発射するロックーンが、地上発射のカッパーシリーズと並行して開発されていて、IGY(国際地球観測年)の高度目標 100kmまで上げるというのが、日本の目標になっていた。それで、垣見さんが地上発射型のカッパー、ラムダを、私はロックーンをやれと。
 日本のロックーンはかなり怪しいものでした。ロックーンは、ヴァン・アレン帯を発見したヴァン・アレン博士が考案したもので、空気の濃いところはバルーンで上がり、高度20kmぐらいから上はロケットで飛べば、非常に効率的にロケットが飛ばせるというので、大変な成果を上げたわけです。あのころは、米国では立派な船の上から、ロックーンをやってうまくいっていました。船が風下に向かって走ると相対的に風がなくなりますから、船ならばバルーンが上げやすい。
 そういうことで、私が入社するほんのちょっと前だと思いますが、日本もロックーンをやることになりました。要するにIGY用に、地上発射ロケットが駄目でも、ロックーンならという2つの天秤ですよ。糸川英夫先生がそれをいいだして、実際には東大原子核研究所の先生方、要するに、理学の先生方が、それはできるものだと思って電離層観測をめざして一生懸命やられました。ところが、まず上げるロックーンがなかなかできないわけですね。
 どうしたかというと、さっきの船の話ですが、アメリカは立派な船だからうまく放球できたけれども、日本では気象庁の涼風丸の甲板でバルーンを放しても、風も強いし、船の甲板は狭いし、船足は遅いし……

松尾:余りスピードが出ませんでしたからね。

五代:それで、バルーンに船が逆に引っ張られる格好になって、結局、放球もできなくて、失敗して帰ってきたんですね。
 それではだめだというので、無風の朝なぎに、広い海岸から気球にぶら下げたロケットを放そうというのが、それ以後の日本のロックーンですね。あのころはカッパーもトラブルばかりでしたが、ロックーンにももう1つバルーンというトラブル源がありました。大気球は今みたいに安定したものじゃなく、気球専門家はいませんでした。宇宙研の西村純先生が見るに見かねてバルーンを担当されました。西村先生は別に大気球の専門家でも何でもない……

松尾:先生は原子核物理ですよ。

五代:観測する側から入って、気球の方をやるようになり、気球の大御所になられました。
 それで、ロケット部分の担当は富士精密の私で、できた気球に吊せばばいいということでやりました。名前はシグマ・ロケットと言ったんです。そのころには、まだ液体ロケットはありません。固体ロケットの中でも全面燃焼型のダブルベースから、今のコンポジット推進薬に移るときですね。それで、秋葉鐐二郎先生が日本冶金……

松尾:日本冶金?僕らは日本油脂しか知らない。

五代:ダブルベースという無煙火薬は、日本油脂とか、そういう火薬メーカーしかできなかったんですが、コンポジット推進薬というのは、あんこをこねるようにつくるわけですから、別に火薬屋じゃなくてもできるわけですね。それで、新しい推進薬の開発競争みたいになって、1つが、富士精密が日本油脂と組んでやった今の流れですね。もう1つが、森コンツェルンの日本冶金がやった推進薬です。それでできたのがパイ・ロケットです。
 パイ・ロケットというのは、聞いたことありますか。

松尾:さすがに聞いたことがない。シグマがもうぎりぎりで。

五代:日本冶金と、富士精密・日本油脂連合、それぞれのロケット会社が競争試作をして、燃焼試験の競争をしたのが私の第1回目の秋田の道川海岸への出張です。
 パイ・ロケットというのはアイデアのつまったロケットで、推進薬というよりもつくりがおもしろい。パイというのはπで、要するに、コンポジット推進薬の周りにプラスチックをグラファイト製ノズルも一緒に巻き込んでつくったものでした。もっともロケット自体が曲がっていましたね。秋葉先生と吉山巌さんがやった。
 それを燃焼試験して、その次に私たちのシグマ・ロケットとパイ・ロケットを一緒に飛ばした。そうしたら、パイ・ロケットの方は、飛んであるところまで行ったら、垂直に上がった。要するに、壊れて飛び上がって、ボンと目の前の海に落ちたんですよ。
 そんなことがあって以来、東大の宇宙研というか、日本の固体ロケットは日本油脂のコンポジット推進薬と日産ロケット型になったのです。その後、私がNALに行って宇宙開発推進本部に関係してから、推進本部は日本油脂だけじゃなくて、旭化成、ダイセルで小型ロケットをやってもらいました。私はそのころは推進本部の監督官の役もやっていましたから、そちらにも行きましたけれども駄目でしたね。
 ロックーンに戻りますと、海岸からバルーンを上げようというので、最初に飛ばしたのは茨城県の五浦。岡倉天心が始めた日本美術院発祥の地で、今は茨城県の観光地になっていますね。そこは磯に六角堂が建つきれいな海岸です。そこの海岸でやったわけじゃなくて、すこし陸に入った平地でした。
 あのときは本当にみんな金がないので、麦畑を、どのくらいですかね、たかだか100mぐらいを、お金を払って早く刈り取り、そこをちょっと平らにして、ロックーンの放球場所にしたんです。実験グループは原子核研究所の先生が中心のロックーン委員会、メーカーとしては、電子機器は明星電気、松下通信機が入りましたね。ロケットは富士精密。バルーンが藤倉航装でした。
 西村先生が苦労したせいもあって、今のバルーン工学は発達しましたけど、当時はひどいものでしたね。ロケットもひどければ、バルーンはもっとひどいし、放し方もよくわからない。そこで暴発を起こし、新聞1面トップに出ました。
 要するに、地上ですこし水素を入れてバルーンを膨らまして、バルーン下のロープに付いているフックにロケットを引っかけてぶら下げ、それを静かに放球するのが理想の姿です。それで、上がっていってバルーンが膨らみ、1時間ぐらいで高度20kmに到達して、そこでロケット発射です。バルーンは偏西風で海の方へ出て安全だという話です。あとで思えば、地上そばでは東風が吹くから、ちっとも安全じゃないですよ。それから、当時はヘリウムがありませんから、水素です。水素とロケットを地上から一緒に上げるのですから、とんでもなく危険なことだったんですが、そういうものだと思って、みんな必死にやりました。
 ちなみに、その実験は、斎藤成文先生が初めてロケット実験に参加されたときなのです。「五代君、怖かったね、あれは」とよく言われたほど想像外の出来事でした。
 それはどういうことかというと、本当は少しでも風が出てくる前、朝なぎのときに上げる。ところが、あのころの電子機器というのはみんなかなり程度が悪く、取り扱いもひどいものでした。電池が放電して回路のぐあいが悪いので、現場の畑に行ってからロケット頭胴部をあけ出したわけです。そのうちに1~2時間たって直り、「これでいいぞ」というわけです。
 気球に水素を入れ出したら、ほんの1~2mの風が吹きました。それでも、風にあおられて引っ張っているバルーンのひもが切れ、バルーンはロケットの方に近づきながら上がっていったわけです。「引っかけろ、引っかけろ」と言うので、ロケット担当の私はフックに引っかけた。バルーンは先へ行っていますから、ロケットは振り子みたいになってしまって抑えきれず、ドーンと麦畑に落ちたわけです。だけど、私の設計したロケットだからよかった。丈夫だったというのではなくて、その瞬間に火がつかなかった。あれに火がついていたら、日本最初のロケット人身事故で、中に私が入っていたことは間違いない(笑)。
 実はその前の設計打ち合わせ会、場所は学術会議の廊下だったと思うんですが、固体ロケット・イグナイターに5秒間のディレイをつけておいた。ロックーンの場合、ロケットの下に天秤みたいな棒を吊り下げて、そこにコントロールボックスとか、電源ボックスとかが並んでぶら下がっている。その様は、とてもロケット実験とは思えないものでした。それがロケットと一緒に麦畑に激突したわけで、そのときに点火スイッチが入ってしまった。スイッチが入ったんですが、ロケットが着火するまでの5秒の間、みんなが「あー、あー」と言う間に、地上をずるずる引きずられながら電信柱ぐらいの高さまで上がって、ほとんど垂直姿勢になった。そこでゴーッと。あんなに近くでロケットの熱風を浴びた人はないでしょうね。そのノズルから噴き出す火炎が猛烈にきれいに見えました。ほとんどの人は麦畑の中に、それこそ尻隠さずのかたちで隠れました。
 問題は、そのときに周りから大拍手が起きたんです。というのは、中学生、高校生の課外見学で200人ぐらいいたと思うけど、それが、きれいに目の前で上がったもんだから拍手したわけですよ(笑)。我々は真っ青になってね。
 その騒ぎの中で隊員の正木さんが、ロケットの飛行軌跡をずっと目で追っていた。私も遅ればせに見たけど、きっちり飛んで落ちる方向もわかった。「あれは那珂湊市だ」と言うわけですよ。結果的には市街地を越えて、常磐線、国道4号線、送電線が並ぶ、崖と海岸までたかだか200mの狭いところに落ちたのですね。それでも高圧電線を切らずにその間を通って、畑のおばあさんが腰を抜かしたぐらいで済んだんです。これが日本で最初のロケット事故で新聞に大きく出ました。

松尾:その後、NALに行かれるまでは、推進本部に行かれたんですか。

五代:いえ、推進本部に勤めたことはなくて、NALに行ったんです。ロックーンを富士精密で4年ぐらいやって、一番最後のロックーンが106km上がったときには、既にIGYは時間切れになりました。NALに移る数ヶ月前ですが、ともかく飛んで終わり。
 ロックーンでは、バルーンのあらゆる実験を、今から思えば偉い大先生が懸命にやりました。自動車で有名な平尾収先生が、ロックーンを技術的な面から見なくてはというので、全部見直しました。松尾さんがロックーン因縁の土地にこの前行きましたね。館林?

松尾:熊谷じゃなくて、上尾じゃなくて、本庄。

五代:松尾さんが講演に行ったところ。

松尾:ああ、あの辺ですよ。

五代:本庄もふくめて、いろんなところで放球実験をしました。筑波がまだ森林のころにもやりました。それから、本格的にやったのは六ヶ所村ですね。六ヶ所村は今でこそ原子力施設ですごいですけれども、当時はまだ何もなくて、そこで放球の実験とか、打上げ実験をやりました。ロープが切れてバルーンから下に向かってロケットを発射してしまったとか、いろんなトラブルがあったけど、海上はるかなので人に危険はなかった。
 私はその頃、会社にいたときに、1.4mのミューロケットチャンバーの設計をちょっとやった覚えがあるんですよ。

松尾:そうですか。1962年(昭和37年)~63年(昭和38年)の話ですね。だから、NALに移られる直前ぐらいから名前としてはあったと思います。

五代:あったんですね。例のハイテン(高抗張力鋼)チャンバーの話なんかがありました。

松尾:私の卒業が、さっきおっしゃった……。五代さんは1957年(昭和32年)でしょう。私が1962年(昭和37年)ですから。実に5つも年が違うんですよ。

五代:5つしか違わない(笑)。

松尾:それはおいても。僕が入ってからすぐミューの話が始まりましたから、大体1962年(昭和37年)とか、そんなころだと思います。

五代:ちょうどそのころです。当然、その前にラムダロケットはありましたけど。

松尾:先ほどのロックーンの話を今きちんとこれだけできる方は、恐らく五代さんをおいて、もういないでしょうね。垣見さんがまだ少しわかっているかな。

五代:彼は知らないでしょう。

松尾:知らないですか。そうすると、もう五代さんだけになってしまいましたね。秋葉先生も怪しいでしょう。

五代:秋葉先生はロックーンとは余り関係ないですね。

松尾:そっち側の方は、ロックーンの方はね。

五代:直接は関係ないでしょう。

松尾:大変なことだったようで、後に僕らも何かのはずみでロックーンをやるようなことになってしまって。

五代:そう、そう。

松尾:そうしたら、あれは……

五代:私は、やめろと言った覚えがあるんだけど。

松尾:そう、そう。そうしたら、後に宇宙開発委員長代理をおやりになった野村先生が、大変温厚な大先生なんだけど、「君、君」と仰るから、「何ですか」と言ったら、「あれは実に大変なもんだから、やめた方がいいぞ」と言われて。野村先生は、五代さんが駆けずり回って、ここが熱くなった話とか、そんなのをみんな知っておられるわけですよ。だもんだから……

五代:野村先生もおられたと思います。

松尾:そうかもしれない。あれは上げるだけで大変なんですよ。風があってはいけないというんだけど、あってはいけないというあり方が、なくても、あるのね、彼らから見ると。ふわっと揺れてしまって。だから、あんなものは上げられやしない。
 だから、毎朝、朝なぎをねらうでしょう。ねらって行って、「きょうも風がある」と言って、だめになるから。

五代:あるといっても、強い風じゃないですよ。ちょっとあってもいかんのですよ。それで、私はバルーンを放す装置をあのときにつくったわけで、それが今使われているでしょう。上がっていく大気球と別に、地上では、小さな気球でペイロードなりロケットをバランスさせておくやり方です。これは今ヨーロッパも使っている。

松尾:はい。

五代:大気球はわっと放すわけです。装置のロックを放しても、小気球とロケットの重さはバランスしていますね。そこを大気球が引っ張り上げるわけです。だめならロックを押さえていればいいんですから絶対安全。それを使ってから、強風はだめだけど、ある程度の風なら安全に放球できるようになった。

松尾:そろそろNALへ行きましょう。NALへは1961年(昭和36年)に移られていますね。

五代:4年半会社にいたんだから、1961年(昭和36年)です。

松尾:そのときは何か目当てがあっていらした?

五代:そう。要するに、もうちょっとまともにロケットをやりたいなというのが、まず1つあった。さっき言った人数ですから。
 それにちょうど富士精密が、防衛庁のミサイル、サイドワインダーの国産化を止めると決めて事業が小さくなった。富士精密の体力では無理だったんです。ロケットは今でも産業にならないけど、あのころは全くならなかった。設計2課では誘導をしていて、同級生の大須賀節雄君なんかがそこにいたんですよ。

松尾:大須賀さんもそこにいたんですか。

五代:ええ。富士精密は金がないので、国産化するのをやめますと申し出たので、防衛庁の方で大騒ぎになった。防衛産業の歴史では多分はじめてのことでしょう。富士精密のロケット関係を大幅に縮小し、損を出さない防衛庁のロケット弾と東大ロケットだけやる。
 私はこのチャンスに会社をやめようと思った。大須賀君が出る時に一緒に出ようと。それで、私は部長の戸田康明さんのところへ行って、「私は新しい気象ロケットの準備を進めたし、ロケット研究をまともにやりたいのでやめたい」と言った。そうしたら戸田さんは、つい「うん」と言ってしまったんですね。ところが、翌日一番に呼び出されて、「きのう君が言ったのはどうしてもおかしい。東大ロケットはこれから大いにやるんだから、絶対にいてもらわなきゃ困る」と言われたけれど、「そんなことをいっても、部長がいいと言ったから、私はやめさせてもらう」と退社したんです。
 それで、何でそのときにNALへ行ったかというと、あのころの世情があるんです。若いわたしには事情がよく分かっていなかったけれど、文部省というか東大の宇宙研と科学技術庁の間で、争いが熾烈をきわめていた頃です。東大ロケットは単なる大学のものであり、国としてのものではないと。
 それで、科学技術庁がロケットをやりますと、宇宙開発室をつくった。ともかく液体ロケットが中心だ。東大が固体だから、こっちは液体だというので、液体ロケットの燃焼器とかターボポンプとかを、科学技術庁には実働部隊がいないから、三菱重工業と石川島重工業に業務委託した。
 これがまた、いっては何だけどレベルが低くて。三菱といっても長崎造船所だった。ターボポンプは最初から石川島の方に試作を頼んでいて、私は最初にそれを見たとき、割ときれいなものができているなと思った。
 そういう時代雰囲気のときに、私は富士精密をやめた。どこへ行くか。少しまともなところで宇宙の研究開発をやりたい。となると、駒場の宇宙研か三鷹のNALか。それで、熊谷先生に相談したら、「宇宙研におれの研究室もあるから来ないか」と。だけど、私が考えたのは、申しわけないけど、さんざん貧乏でやってきたから、これからの宇宙開発は金がなきゃ絶対に進まない。これからやるというNALの方に行こうというわけで、気楽に考えました。
 そのときは大学の先生だった中西不二夫先生が所長で、「おお、来いよ」と。「試験でもあるんですか」と言ったら、「試験なんか、ないよ、そんなもの」と。いい時代で「それじゃあ、行きます」と言ってNALへ移ったんです。

松尾:さっきおっしゃったのが、後の推進本部というやつですか。

五代:推進本部はまだできていません。

松尾:まだその後で。さっきおっしゃった推進室的なものというのは、何か名前もはっきりしないような、ちょっと集まった中の何か……

五代:要するに、役所の中の課ですよね。課か、室か、知らないけど。

松尾:室みたいなものですね。

五代:ええ多分。それでNALに行って。

松尾:ただ、そういう役所の中の課みたいなところが母体になって、ターボポンプは石播だといったような差配は既にしていたんですか。

五代:それはもうちょっと後でしょう。

松尾:もうちょっと後でしょうね。その状態で、そんなことまでできるとはとても思えない。

五代:ええ。それは時間的にもうちょっと後かな。
 それでNALに行った私が、ロケット研究者第1号になったわけです。NALがロケット研究を始めたわけですが、そのちょっと後には、科学技術庁から開発もやれと言われた。ところが、NALにとってみれば、航空の研究を再開してやっと設備をつくり、これで研究ができるという時期ですよ。「NALがロケットの研究はいいけれども、開発までやるのは研究者に忍びない」と、中西所長がみんなを集めてそう言われたんです。
 それで、もうちょっと後になりますか、NALがやらないのならばというので、推進本部ができた。

松尾:なるほど。中西先生の頭の中では、ロケット開発をやるようになると、航空の方をやめなければいけないというふうに思われたのかな。そちらをかなり。だから、忍びないとおっしゃる意味は、ここまで来たものをやめるわけにはいかんということでしたか?

五代:というか、ロケットはまだ動き出したばかりですから。航空の方は審議会の答申にそって、日本の中心となる風洞設備などを、みなでつくりあげた。これからその設備を使って悲願の航空研究に集中して、世界に追いつこうというときに、また宇宙の方までやるというと、せっかくの……。

松尾:後から考えると、外にNASDAができたわけですから、そのNASDAをNALとくっつけておけば、NASA的なものができた可能性というのはあったわけですね、そのときに中西先生がそうすればね。

五代:あるでしょうね。
 それで科学技術庁は宇宙開発推進本部をつくりました。それまでの室みたいなものから、宇宙開発推進本部といっていたのは、並びとしてはNALと同格ですね。ただし人はいない。それで場所は、NALの食堂の2階に推進本部を置いて、いろんな人をかき集めた。それでも30人ぐらいはいたかな。人工衛星の追跡は最初から、推進本部で一貫してやるとなっていました。

松尾:そうでしたね。

五代:だから、追跡の人は、自分の衛星はなくても、外国の衛星で軌道計算したりして、衛星管制まではできないけど、衛星の勉強をしたんですね。
 それで一方、ロケットの方は本当に人がいなくて、NALの竹中幸彦室長が、「ともかく来てくれ」と推進本部の部長に就任した。そこに私を入れて何人だったか、併任という形で推進本部の仕事もするようになった。会社から移って、ゆっくりNALで研究をと思ったのが、できなくなってしまったわけです。

松尾:推進本部はそのとき、業務としては何をやっていたわけですか。

五代:計画をつくるのと、小型ロケットの開発と打ち上げです。

松尾:そうですか。

五代:それで、計画をつくる方でいうと、私がNALに移って間もなく、どういうロケットを日本はつくるかというシステムスタディをした。山内正男科学研究官がトップのグループ会合では、新人の私が説明というか講義を何回もしました。姿勢制御、ロケット構成やステージングなどを概算した。NALの中には、「よし、やろう」という人もいたけれど、ロケットシステムはまだよく知らないわけですね。
 NALはシステムスタディという開発のサポート役で、開発業務には人を推進本部併任者としてやらした。ロケットとしては、Q、Nロケットを、まだ実体はないミューと制御技術などを使って、私と柴藤君中心でまとめ上げた。全体の直径は1.6mだったかと思います。

松尾:そうですね。こんなものでしたね。

五代:1、2段目は固体ロケット。3段目に液体ロケット、4段目に固体ロケットというSSLSという構成を最終的に提案した。Sは固体、Lは液体の略です。そのQロケットを大きくしたのが、Nロケット。今のNじゃなくて、当時のNです。そして、だんだんとこれがオーソライズされていった。
 そうはいっても、日本には技術は全然ないですから、小型ロケットでいろんな実験をすることにした。ロケットエンジンそのもの、誘導の前に姿勢制御というので、ガスジェットを載せる2段式ロケットNAL-2531などです。これは後にNASDAのJCRロケットに発展しました。
 これが推進本部・NALのシステム計画と小型ロケット実験の概要です。小型ロケットは、NALはまだ本当に始めたばかりだから、基礎研究用の直径7cmのNAL-7ロケット、それから16cm、25cmのロケットというふうにつくっていった。ただし、何が目標かというと、あくまでもNALロケットは技術研究で、例えば、NAL-16Hは、このサイズで世界最高性能をめざす、そんなことですよ。

松尾:それは、つくるのはどこがつくったんですか。三菱長崎?

五代:いや、日産というか、富士精密ですね。
 ところが、科学技術庁から見ると、推進本部もだんだん強くなり、組織も大きくなってきた。そこで、NALの技術、人、お金を取り上げて、本部に移したんです。よくいえば開発の一体化。

松尾:本部としては、何か本部に実体を与えたいみたいなところがあったんでしょうね。

五代:そうでしょうね。NALの方は研究、基礎研究だ、開発をやるのは推進本部だというふうにした。そのために推進本部の人は増え、ユーザーである衛星関係の人もだんだん入ってきた。ですから、推進本部の場所も、三鷹のNAL構内から千駄ヶ谷に移った。覚えていますか、千駄ヶ谷の国立能楽堂のあるところです。

松尾:そうですか。

五代:そこへ行って、推進本部としてのいろいろな試験設備も計画しだした。我々もそこに行って意見を言うぐらいはしていましたけど。
 それがまた移動して、飯倉の郵政省旧庁舎へ移ったんです。

松尾:そのころの推進本部の大目標というものはどういうものだったんですか。先ほどおっしゃったSSLSみたいなものがまだ生きていて、それをねらっていたわけですか。

五代:そうです。もっとも設立当時のは目標がなかった。液体ロケットに重点をおくのは決めていましたが。

松尾:そうでしょうね、最初はね。

五代:最初は液体ロケットのミッションも、台風観測ロケットとか言っていました。そのうちに、世界でも宇宙通信などの宇宙利用がどんどん言われてきた。そこで日本国も衛星ということになると、科学衛星に非常に近いものだったが、電波研の電離層衛星が注目されだした。実用衛星を開拓する方向にどんどんアメリカが動き、日本でも通信衛星、放送衛星、気象衛星という例の3本柱の実用衛星が目標になっていった。
 それでも、最初は通信衛星の容量、重さは大したことはなくて、Qの後のNロケットで一応対応は──技術は別として、できたわけです。だからはじめのころは、日本でも大分先だけれど、静止衛星でも何十kgぐらいはできるというプランを描いたんです。
 ところが、需要の方がどんどん早まって、そんなロケットではだめだ、時期的にも全然遅いという。竹中さんと私はユーザー機関を回りましたが、科学技術庁のロケット──SSLS型のNロケットですが、だれも客がつかなかった。
 それがほんの1年かちょっとの間にコロッと変わって。私が今でも覚えているのは、NHK放送技研に行ったときに、「静止衛星はやっぱり2tは要りますね」と言われた。アメリカだって数百kgしかいってないころですよ。「急に、なんていう話だ」ということですが、そんなのは推進本部でできるはずはない。
 日本の技術では実用ロケットは無理だというのが、科学研究のミューロケットと違うところです。アメリカの会社が働きかけをしてきましたが、裏には米政府の意向もあったでしょう。働きかけてきたのは、TRW社とマクドネル・ダグラス社です。
 本格的な大型ロケットには、どうしてもアメリカの技術が要るというので、TRW社の日本へのアクセスが強く、知恵袋として推進本部へ入り込んだ。同じ頃に、ダグラス社もずっと働きかけているわけです。多分、政府筋に一番働きかけたのはダグラス社でしょう。
 それはなぜかというと、当時のデルタロケットが技術的にも一番使いやすく、日本の目標とするのにいいだろうと、私たちも思っているわけです。だけど、日本は大型液体ロケットはまるでない。理想像は、1段目は大型の液体ロケット。2段目が、日本で開発し始めている液体ロケット、これはレベルが低いので、三菱の長崎から名古屋へ移した経緯があるけど、2段目に日本の液体ロケット。3段目は固体ロケットで、日本に技術がある。だから、下段からいうと、LLSというデルタの形ですね。

松尾:2段目の燃料は?

五代:2段目は、日本でやっていたのは、最初のころは、硝酸とヒドラジンだったか、そんなものですよ。

松尾:要するに、ストラブルですな。コンベンショナルというか。

五代:ノズルの冷却も旧式でした。二重壁式というのは覚えていますか。今は、チューブでノズルを形付くって冷却する形をとっていますが、当時のノズル構造は耐熱鋼ノズルの周りをジャケットで覆って、そのすき間を液体が流れる方式。だから、大きなノズルはできないし冷却は悪い。ロケットダイン社がチューブ式ノズルを開発したのが、液体ロケットのブレークスルーになっています。
 日本では大型の液体1段目はできないので、それを固体に代えると、固体1段ではとても無理だから、それを2つの固体に分けたのがQ、Nなんです。SSLSというのは、デルタLLSのブースターLを2つのSSに分ける考えで、それが技術導入で元のLLSにもどったわけですね。

松尾:それは、どこかで技術導入ということに切りかわったわけですね。

五代:大きく切りかわった。技術的にはQ、Nは行き詰まっていたものの、米国と国内でのいろんな動きの結果でしょう。一番はアメリカの働きかけで、アメリカ企業間でいえばダグラス社が勝ったんですよ。

松尾:デルタみたいなものを念頭に置きつつ、デルタそのものは無理だから、それのかわりとしてSSLSでいきましょうと言っていたところが、デルタが本当に乗り込んできてしまったという話ですか。

五代:日本も米国も会社間で競争していたけれど、もともとは米政府の政策にそったことでしょう。同じジョンソンという名前だけど、大統領ではない方のジョンソンという知恵袋が米政府にいて、ストーリーをつくった。彼は日本大使になってこの仕事を完結させたようです。

松尾:日本大使になっていますね。

五代:私の記憶でも、急に変わったからびっくりしました。どんどんと技術導入の線が進んでいったわけです。

松尾:それが何でしたっけ?N-Ⅰですね。

五代:そうです。それがN-Ⅰです。もっとも、N-Iの前も国産技術じゃないんです。いろいろ技術導入で勉強しながらの形。
 まだデルタになる前に、私は推進本部の技術導入調査団の一員でアメリカにも行っています。そのときはSSLSのNロケットについて、方々回りましたが、ダグラスが一番熱烈歓迎でした。

松尾:こちらの望みは何ですか。そのときはSSについてはあるわけだから……

五代:例えば、Sでも……

松尾:首振りノズルとか、その手かな。

五代:そう。要するに、日本の固体ロケットは推力方向の制御ができない。それから、ソフトウエア全体によくわからないこともあった。固体ロケットにしても、テストスタンドも、日本のは1軸方向の力をはかるだけのものです。ところが、制御するためには6分力を測る多軸式スタンドにしなきゃいけない。私はその担当として、アメリカで多分力スタンドを見ましたが、びっくりするほど進んでいた。

松尾:そのころは、五代さんはNALの職員ではあったけれども……

五代:私はNALです。

松尾:仕事としては9割ぐらいが推進本部の話で、この手のプレNか、Nそのものか、知らないけれども、そういうことをやっていらしたということですね。

五代:そうですね。9割ぐらいから7割とか6割にどんどん減っていきましたけどね。

松尾:あの時期から。

五代:そう。全体システムをどうするかというのは、もう推進本部にある程度のメンバーがいてやっていたわけです。会社も含めて。

松尾:そうすると、そのころか、その後か、LE-5やLE-7の開発支援みたいな話にはどうかかわっていらっしゃいましたか。これは、もうちょっと後ですよね。

五代:LE-7はずっと後です。

松尾:LE-5はもうちょっと早かったかな。その時期だったかな。割と早くて。

五代:うん。LE-5とか液体エンジンをやるのは、NALの中でも角田ですね。その頃、私は角田には行かないと宣言していた。固体ロケットだから試験するのに、国内外どこでも行くけど住んでやる必要はないと。
 だけど、固体ロケットの多分力スタンドとか、液体ロケットのHATS(高空燃焼試験設備)とか、これは私がつくったんですよ。角田の試験設備は計画し、つくったけれども、私はやらないと(笑)。

松尾:そういうことですな。

五代:NALの中でも三鷹にいた液体ロケットの人たちは、結局、異動したわけですよ。

松尾:推進本部が太ってきて──太ってきたというか、立ち上がってきて、兼任の人はみんなそっち側のことも一生懸命やっていたんだけれども、本来のNALの人たちというのは、その時期、宇宙グループでいうと、一体何をやっていたんですか。1963年(昭和38年)にロケット部なるものができたということのようですけれどもね。五代さんとか竹中さんというのは、どちらかというと、だんだんと推進本部がらみのことになっていってしまったと。

五代:そう。それで思い出しましたよ。推進本部が国産技術のロケット開発をやるにしても、それを技術的にバックアップするのはNALというので、山内さんが構想を私に示したことがある。要するに、NALは技術的なことを組織だってやりましょうと。それで、ロケット部を発展させて宇宙研究グループができた。予算要求してから体制が実現するまでに時間がかかり、宇宙研究グループができたときには、その趣旨はもう変わってしまった。

松尾:なるほど。

五代:もう技術導入の方に行ってしまったから、残った宇宙研究グループというのは……

松尾:何でもいいから宇宙工学一般みたいな話になってしまった。お勉強、好きなものを……

五代:そう。サポートしようにも目標がなくなったわけです。

松尾:なるほど。そうですか。

五代:だから、それ以後、宇宙研究グループというのは、NASDA本流の研究開発以外は、何をやってもいいとなっているでしょう。

松尾:そうなんですよね。そう、そう。その分、外から見ると、まとまったアウトプットがないといってしかられていたわけだけれども……

五代:そう。

松尾:それはつくりをそういうふうにつくっておいて言っても、僕はあの人たちはかわいそうだなと思っているんです。

五代:ロケットなり衛星なり、ダイレクトにつながるところは、推進本部なり事業団にいったから、NALの方はすき間と言っては悪いけど、することが変わってしまったわけです。しかも、事業団ができたときに、その人的資源はNALなんです。

松尾:かなり移ったんですか。

五代:それで、私が移籍第1号だろうと言われた。だけど私は行かないと。それで、残ったのが、私と山中龍夫君。あのころのNAL所長が松浦陽恵さん。

松尾:ですかね。あのころね。

五代:松浦さんは事業団の理事長じゃなくて、推進本部の本部長になった。

松尾:そうですか。事業団の理事長をやっていらっしゃいませんでしたかしら、あの方。

五代:それはその後……。事業団ができたときに理事長は……

松尾:島さんか。

五代:島さんで、松浦さんは副理事長になる。

松尾:なるほど。そうか。

五代:NALの人は、それまでロケットをやっていなかった人も含めて、ともかく大勢の人が事業団に移った。宇宙研究グループは残ったけれども、人はほとんどいなくなってしまった。それで、「君たち、後を頼むよ」と、私と山中君が松浦さんに言われたのを覚えている。変なやつだけ2人残ったんです。

松尾:なるほど。そのころ、だから、角田でLE-5みたいなことはやっていた?

五代:そうです。

松尾:その辺は実質を伴ったことをやっていたわけですね。そこはね。

五代:ええ。一番やっていましたね。角田がなきゃ、日本のロケットはなかったでしょう。ただ、研究所だから、NALの液体酸素・水素ロケットは高性能が研究目標です。研究目標と実際に使うロケットのエンジンは、私は違うと思う。そこはLE-7のときの一番の乖離点です。私がNASDAに移った後のLE-7だけど、そんなに高級なエンジンでなくていいだろうと私は思ったが、会社も含めて多数は、高性能が目標だと。2段燃焼方式で圧力もすごく高いのに決めたけど、後になって開発がむずかしくて、圧力を低くしました。研究所の狙いを開発グループが実用エンジンにそのまま移行するのは問題でした。ただ、LE-5はよかったと思う。

松尾:あれはエクスパンダーサイクルでしたっけ。

五代:LE-5は、まずシステムとしてもいいし、何といっても推力が10tと小型でしょう。しかも真空でしか作動しなくていい。もちろん再着火問題は難しかったけど。だから、例えば、水素ガスが多少HATS試験で漏れても──といっては悪いけど、大きな問題にはならない。それから、構造体としてLE-5というのは、そんなにぎりぎりじゃない。大した材料は使わないし。
 LE-7は、そういう視点で見ると、すごい熱構造体です。LE-5とLE-7ではサイズを見ると、ほとんど同じですが規模、性格がちがう。

松尾:うん。

五代:基本的なところですごく違うところがある。そこで、LE-5でうまくいったからLE-7もいくだろうと、会社の人なんかもかなりそう思っていた。そうはいかなかったんです、やっぱり物をまとめるのはむずかしい。

松尾:その後、1982年(昭和57年)にNASDAに移られたわけですよね。

五代:そう。

松尾:これは、今度はどういう経緯になるんですか。

五代:事業団に移る前のN-Ⅰ、N-Ⅱロケット時代は、技術導入が中心路線でした。技術導入と国産技術の差は、相談する相手はだれかということだと思う。開発中に何かトラブルが起きたときに、国産技術のときはNALなど研究所の役割が重要なわけで、我々も一緒になって研究開発するわけです。しかし、技術導入では相談相手は米国です。典型的な例が1つあったんですが、N-Ⅱ第2段SSPSは貯蔵性燃料のエンジンで、薄いスカートが大きく広がるタイプ。アポロの月降下エンジンと同種で、それを高空燃焼試験設備(HATS)で試験することになった。
 そのときに、NAL構造専門の中井瑛一さんが指摘したんです。HATSでは試験が終わるときに外の空気がバックしてノズルがぶっ壊れる、そのためにはこうこうしなきゃいかんといった。だけど、そのときのNASDAの人は、「アメリカに聞いたところ、そういうことは起きません。そんな御心配されなくて結構です」というのです。ですが実際にやったら、見事にぶっ壊れた。
 要は、電話して相談する相手が違うのです。

松尾:なるほど。

五代:アメリカに聞くにしたって、それを研究している人へ聞いているわけじゃないですから。「今までやって問題ないですよ」ということだと思うんです。HATSの装置も日米で違うわけだし。
 それで、私は技術導入の時代には、研究所はサポートすることもないし、この機会に好きなことをやろうと。例えば、固体ロケットの……

松尾:DASじゃありませんでしたっけ。

五代:DASの前もあるんです。固体ロケットの燃焼をとめて、再着火して、推力を変える。これができたんです。できたけど、結果的にいうと、だんだん固体ロケットのメリットが失われてしまった。固体ロケットの推力大きさ制御(TMC、thrust magnitude control)というもので、角田で試験しました。指令を出すと、バーッと燃えて、またとまっての繰りかえし。それは楽しいものでした。
 それと、松尾さんのおっしゃったDAS(Dive and Ascent Satellite、超低高度軌道衛星)で、私もちょっと衛星を計画しました。企業も一緒にシステムデザインまでいきました。
 そんなことをやっていたが、研究だけするのも、そろそろ飽きたなと思いました。私だけかも知れないけれども、したい研究をしてしまって、モチベーションがなくなりました。今までのNALには、そういう人もいて、問題になっていたわけで、研究のための研究といわれたりして。ISAS(宇宙科学研究所)だと、宇宙科学の研究と、それを実現するための工学プロジェクトがあって、モチベーションが続くのではないですか。そういうことで、NALには20年いました。

松尾:そうすると、ちょうど20年くらいですね。

五代:NASDAができたときに、「来い、来い」と言われたけれど行かなかった。NALで20年たって退屈しているときに、突如、言われた。

松尾:NASDAは何をあてにしたんですかね。

五代:それは、「大型ロケットをやるから」と言うんですよ。

松尾:大型ロケット?

五代:要するに、H-Ⅱですね。

松尾:H-Ⅱね。

五代:雰囲気がそうなってきているわけです。

松尾:なるほど。

五代:それで、ついのんびりやっていたところに、パンチを食らってしまった。「行くかな」とNASDAへ行ったんです。

松尾:NASDA側の動機はH-Ⅱだと。もちろんH-Ⅱですよと。

五代:そうですね。だけど、打ち上げとしては、N-Iの最終号機からはじまってN-Ⅱも関係したし、H-Ⅰロケットも5号機から打上げ責任者をやりました。

松尾:この移籍の時期というのは、H-Ⅰに手がついた後すぐですね。H-Ⅰの開発着手が1981年(昭和56年)ですから、五代さんが移ったのが1982年(昭和57年)ということですので。だから、H-Ⅰについては、余り立ち上げというのか……

五代:立ち上げはしていません。

松尾:構想にも余り参加されてない?

五代:それがあるんです。

松尾:H-Ⅰで?

五代:それはNALじゃなくて、宇宙開発委員会の特別部会のメンバーとしてです。どういうロケットがN-Ⅱの後に必要かという議論をすごくやりました。N-Ⅱが静止衛星350kgでした。それで、次は650kgか、800kgか、そのぐらいの静止衛星が要るだろうと。当時はまだ純国産とか、そういう話は余りなかったんです。

松尾:日本国のものであって、800kgぐらい上がるものがあればいい、どこでつくろうとそれは構わないという話ですね、とりあえずは。

五代:それにしても、そんな目標は一度にはできないから、前段階H-Ⅰと後段階H-Ⅰとに分けたんです。前段階H-ⅠというのがH-Ⅰです。

松尾:そうですか。後段階H-ⅠがH-Ⅱ?でもない?

五代:そう。それを発展させたのがH-Ⅱ。

松尾:やっているうちにね。H-Ⅰをやっているうちに……

五代:そう。

松尾:前段階をやっているうちに、後段階がだんだん発展していって。

五代:そう。ただ、その二つには時間差がありました。

松尾:ただ、後段階というときから、1段目はもう開発の予定だったんですか。

五代:いや、そうじゃないです。

松尾:そうじゃなかった?

五代:アポジモーターのブラックボックス騒動から、技術導入は問題である、という自主技術による開発機運が盛りあがったのが、そのすこし前の話です。少なくともH-Ⅰのときには、N-Ⅱの延長で1段目のデルタブースターに日本が開発しているLE-5を載っけるという、流れとしては非常にスムーズですね。ただ、静止衛星は550kgどまり。
 そのときに、2段目開発については、ISASと三者協議会をやったでしょう。ISASとNALとNASDAの三者で、液体酸素・液体水素を一緒にやりますと。実質はNASDAがタンクをつくって、ISASに1つお渡ししたぐらいだと思うけど。

松尾:うん。こっちも長友さんが一生懸命やっていたから。

五代:あのタンクなんか、そうでしょう。

松尾:あれでしょう。

五代:それにしても、やっと三者が協力するようになった。
 それで、H-Ⅰが始まって間もなく、次の後段階H-Ⅰを考えなければいけない。そしてそのころに、さっき言った国産の機運が盛りあがってきた。

松尾:最初の後段階H-Ⅰというのはどういうことを考えていたんですか。

五代:最初のころの後段階H-Ⅰでは、アメリカ技術は使わないとかいう話はないんです。その検討は後まわしにして、前段階H-ⅠをH-Ⅰとしてスタートしたわけですね。

松尾:後段階は、考えましょうということで、必ずしも具体的なものはなかったんですか。1段目がデルタで、2段目がLE-5だとすると、もうあとは……

五代:余り具体的なところはなかった。

松尾:そうですか。要するに、高性能、大容量のロケットをつくらなければいけないと。それを後段階という名前でやりましょうと。その第1期はこんなものですねと。あとは考えましょうと。

五代:ええ。特別部会には、たくさんの案が出てまとまらないけれど、H-Ⅰの後段階は、オーソライズされた。H-Ⅰというのは前段階だけど、次の後段階H-Iがある。それの中身は余りないけれど。特別部会ではメニューがたくさん出て、H-Iは決まったが、そこまで。

松尾:なるほど。

五代:宇宙開発委員会ではいろんな議論はしました。ともかく1段目は液体ロケットの大きいのをつくらなければいけない。それがなければどうにもならないわけで、MB-3、要するに、デルタの1段目を束ねるのが一番いいので、私はMB-3を4つ束ねる案を出した覚えがあります。その程度の検討で終わってしまったのです。
 それで、大型ロケットをいよいよやるというので、私はNASDAに移りました。NASDAの組織には、本社浜松町と筑波があり、少し先物は筑波となっていました。筑波にロケット技術開発室というのがあって……。

松尾:だから、移られた時期というのは、前期H-Ⅰについては定義されていて、それが動き出していた。

五代:そうです。

松尾:だけど、後期H-Ⅰについては、必ずしもはっきりしていない。

五代:まだこれからです。

松尾:次にやるとすれば、そういう名前のものだと言っているだけで。そういうときにNASDAに移られたということなんですね。

五代:そうです。ですから、最初のころの名前は、大型ロケットの研究です。
 それで、そうこう言っているうちに、静止衛星600kgとか800kgぐらいでは足りないと目標が上がってきた。それで、衛星の需要予測を調べ、1990年代、21世紀にかけて、静止衛星はどのくらいだろうと。1.4tというのが、おおよその予測で……。その辺なれば、ロケットもできそうだと。
 そうしたら、NTTが、シンポジウムなどの議論で、大きいほどいいと主張した。本当は4tぐらい欲しいという話でした。衛星が大きくなると通信単価が下がるという話で、大きければ大きいほどいいという。「そんなこと、ロケット側では簡単にはいかないよ」と言ってたけれど、1.4tでは賛成しないから、結局、2tに落ちついた。
 ただ、私はくわしくは知らないけれど、サイドレター的な約束が、アメリカとあったようです。最初のN-Ⅰ技術導入のときに例の日米協定があり、次のN-Ⅱへの改良で協定を変えている。H-Ⅰのときも協定を直しています。前段階H-Ⅰ、要するに、H-Ⅰロケットはこうこうで、後段階H-Iロケット計画時には相談するという約束があったようです。アメリカ側からみれば、日本に縛りを入れておくことでしょうか。
 そういうふうに、ロケットごとに協定があった。H-Ⅰについては、2段目の液体酸素・液体水素、3段目の固体ロケット、慣性誘導装置は国産だが、1段目はデルタを使いますから。
 一方、アメリカからの独立という大目標がある。将来はビジネスにも打って出られるよう、信頼性は高く値段も安いロケットでなきゃいけない。それで、筑波のロケット技術開発室に兼任で行って、そこで専ら、今でいうH-Ⅱを白紙から始めたわけです。この時のやり方としては、百家争鳴のH-Iの決め方では混迷するのは見えていたので、NASDAが1案だけ出すことにしました。
 そのときのコンフィギュレーション検討は、ロケット技術開発室でおこなった。有力候補3案に絞ったが、いずれも、種子島で打つという大きな制約と、アメリカから手を切ることが命題になっていた。三つのうちから最終案を出し、これをNASDA、宇宙開発委員会でオーソライズされたのが、今のH-Ⅱです。
 この検討のためには、柴藤羊二、伊藤哲一、渡辺篤太郎、福島幸夫君ら直下のメンバーや若手と、本社の人もメンバーとして集めました。そのときに、技術導入に頭が冒されていない人を選びましたが、おかげで、みんな自分の頭でよく考えてくれました。
 対米については、役所が自分たちではアメリカの了解をとらずに、我々に説明してきてくれと言ってきたので、柴藤君に行ってもらったわけです。
 それまでのロケット、N-Ⅰ、N-Ⅱ、H-Ⅰには、大なり小なりアメリカ技術がベースにあるわけですが、H-Ⅱは全然ないんですという説明をしなければいけないわけです。それで、コンフィギュレーションについて、「全く新しい形でしょう。こんなのはほかにありますか」と、まずそれから始めて。それから、液体酸素・液体水素はアメリカと全然関係ない独自のものです。せいぜいあるのはスペースシャトルぐらいではないですか。LE-5を発展させてLE-7をつくるんですと。固体ロケットは、何十年も前から日本はやっている。それから、フェアリング。それまではアメリカからの購入品だったが、それは日本で開発しますと。それから、いろんなソフトウエアから、打ち上げ運用とか、すべて日本でやる。
 日本の会社はそれまで、それぞれアメリカの会社から技術指導を受けてお金を払っていた。例えば、ガスジェットだったら、石播はアメリカのエアロジェットから。MHIは、何といっても、ダグラスにお願いしているわけじゃないですか。それから、ソフトウエアは三菱TRW。そういうふうに縁があるのを徹底的に、断ち切ったんですよ。一時金を出してともかくやめさせた。それから、汎用技術はアメリカ頼りではないし、ソフトウエアも、少なくとも全部日本化したわけです。それだけやっているから、アメリカに突っ込まれても、問題はないわけです。

松尾:すると、相談するという縛りの中身というのは、アメリカの技術を使う場合については相談しろということだったんですか。

五代:もともと技術導入でロケットを始めたときに、アメリカと競争するような衛星を打ってはいけないという制約がある。インテルサットと競合しないとか、もちろん敵対国へはいけない。
 それから、輸入するにはOMCから許可をもらわないといけない。これはアメリカの宇宙技術管理委員会で、メンバーに国務省、NASA、商務省、国防省もみな入っていて、そこが認めないと日本に技術を、部品1点たりとも輸出するのはだめなんです。OMCはISASには緩くて、例えば、ISASが2次噴射用バルブを使うのはオーケーだけど、NASDAがやるとだめです。要するに、アメリカが蛇口を完全に持っているわけですから、ともかくアメリカと縁のある技術や部品は全部断ち切った。
 例えば、大したことのない部品のレーダー用マグネトロン。80万円で買えたものだが、開発費をかけて、製品も高額になったが、国産化しました。ともかく何を突かれても平気なようにというので、すべてアメリカからの導入技術を断ち切った。
 アメリカは内心、日本では全国産にすることはできないと思っていたのでしょう。それから、あのころアメリカの相手はヨーロッパだったから、アリアンとのせめぎ合いの最中で、いいタイミングだったこともある。だから、柴藤君がOMCなどで説明して、一応納得させた。

松尾:その場合、何を説明することになるんですか。要するに……

五代:みんなすべての技術は日本の……

松尾:日本製だから。

五代:日本製である。だから……。

松尾:「おまえたちに文句を言われる筋合いはない」という、基本的にはそういう言い方になってしまうわけですね。

五代:まあ、そこまで厳しくは言わないけど。

松尾:言わないにしても。

五代:本当は、アメリカの部品で輸入したいのは、いっぱいあるわけです。汎用的なビスは別にしてもあるわけです。そこで輸入事務の踏み絵として、H-Ⅱのために、ある部品を輸入したいという申請をOMCに出してみたら、予想通り向こうがノーと言ってきた。「これはまだ我々には判断できない。これはノーである」。この書類を大切に持っていました。断った側はアメリカで、日本が米製品を使いたくないのではなくて、アメリカが嫌だと言うから、自分でやったという理屈です。この書類は、今でもだれかが持っていると思います。
 そのかわり、ヨーロッパを味方につけようと思って、ストックホルムIAF(国際宇宙航行連盟)大会でH-Ⅱをお披露目した後、日本はすべてオープンで部品輸入もしたいと、フランス、ドイツなどを回った。
 日本は独立でやるけれど、ヨーロッパとは情報交換などをやってもいいと。例えば、開発試験のときの失敗経験を交換するとかいうなら、秘密じゃなくて、お互いに得じゃないかという提案をした。そうしたら、あのときのCNES(フランスの国立宇宙研究センター)の対応はおもしろかった。「絶対にH-Ⅱとアリアン5とは似ても似つかない。全く関係ない」と言い張った。それはそうでしょう。急に日本が来て情報交換を申し出したから、技術をとられると思ったのも事実でしょう。その後、IAFの会議でいつも会っているうちに親しくなりましたが。ドイツでは大歓迎でした。あの当時はまだ、フランスを見下していた感じがあった。
 ともかくアメリカは、その後、H-Ⅱについてとやかく言ってこなかった。

松尾:アメリカがとやかく言う論拠というのはどこにあったんですかね。もともと柴藤さんが言って説明したときに、別にそれはいかんという理由を彼らは持っていなかったということでしょう。アメリカが納得しなきゃ日本で開発はできないという話だったんですか、もともとは。

五代:少なくとも役所はそう思ったんですね。おおすじの話は通っていて、実務からの説明をさせますとか・・・

松尾:それはそうなんでしょうね。一旦一応説明して、「わかった」と言わせておかないと、何を言ってくるか、それはわからないところがある。

五代:N-Ⅰ、N-Ⅱ、H-Ⅰと協定がかわるごとに厳しくなってきた。

松尾:だから、その厳しく言っている根っこが何かというと……

五代:日本がいずれ相手になるということでしょう。

松尾:なるんだけれども、そのとき向こうは具体的に何ができるかというと、日本が相手になっては困るからとは言えないわけで、何か技術を出すとか、出さないとか、結局、そういう話になるわけでしょう。

五代:うん。協定の最初からそうです。

松尾:だから、そう言っていたのは、日本がすべて国産じゃなしにアメリカの技術を若干でも使っているから言えた話であって、H-Ⅱを純国産にしたとたんに、向こうは言う根拠がなくなって、そういうことを言わなくなったのかなと思うんですよ。

五代:そうでしょうね。だからH-Ⅱについては、協定を求めてこないでしょう。

松尾:そうなんですね。言おうにも言えない訳ですね。

五代:それで協定が切れたわけです。

松尾:なるほど。それで、今のがH-Ⅱにいったわけですね。

五代:ええ。

松尾:そのH-Ⅱについては、いまだに、さっきちょっと話が出たけれども、研究所の出自であるからして、多少過剰品質ではないかという話が盛んに出るんですけれども、どうだったんですかね。

五代:あれは……

松尾:特に今ごちゃごちゃ言われているのが、その2段燃焼部分とかね。

五代:あれはもう最初から言われていましたね。もっとも世界の事情は30年前とは違っています。旧ソ連のエンジンとそれを輸入した米国のエンジンは、推進剤は違うけど、今や高圧の2段燃焼が主流です。H-Ⅱを始めた頃はそうではありませんでしたが。

松尾:そこは、皆さん、どう納得してあの形式にしたわけですか。

五代:少なくとも私がNASDAに行ってH-Ⅱをやるときには、すでに2段燃焼方式、対、ガスジェネサイクルの話は、終わっていたようで、それありきでした。
 さっき燃焼圧力の話をしましたが、LE-7の燃焼圧力は150気圧だった。竹中さんの前任の平木理事のときに、2段燃焼でも大変なのに、また高い圧力は問題だろうと私は主張して、議論する場をつくってもらった。150気圧という理由は何かというと、シャトルが210気圧だから、それよりも低いというわけです。7掛けだと。しかし、エンジンのそれぞれの部分部分でいえば、圧力の高いところもあるし、回転の速いところともある。やさしくなっているところもあるけど、ローカルにはきつい。だから、少しでも圧力を下げろ、何で120気圧に下げて悪いんだと。性能的にいうと、二段燃焼式でもういいところにいっているのに、圧力をさらに上げると、困難さはここでグーンと上がる。しかし、多勢に無勢で、150気圧のままでやるということになった。

松尾:そうですか。

五代: 私はその後、1年ちょっと計画管理部長をやった。H-Ⅱ開発からすこし離れて全体をみる立場です。その間も、トラブルが続けて起きているわけです。そして、「圧力を下げさせてくれ」と言ってきた。「ほれ、見ろ」とは言わなかったけど。少しでも緩くしたいというので、本当はもっと下げたかったが、9掛けの135にしました。
 LE-5エンジンは、ガス発生器エクスパンダの流体マシンとして成り立っているけど、LE-7は、流体マシンではあるが、むしろすごい熱構造体なんです。背丈はLE-5と7で同じだが、推力は10倍、重さが5、6倍ある。高温高圧だから材料がほとんどインコネル。耐圧のために肉厚になり、厚くなると熱応力がかかる。LE-7は、システムとして初めてのものだから、複雑怪奇なわけです。こっちを直すとあっちがだめで。結局、圧力を下げてまとめ、ある部分は抜本的に直せないまま飛ばした。どうしても耐力が足りないので、エルボ配管には万力で荷重で押さえたところがある。LE-7からLE-7Aにしたときに、システムや配管など全部見直しました。
 H-ⅡとH-ⅡAの関係ですが、最初からH-ⅡAを目標にしていたけれど、できないのでH-Ⅱがまずできた。だから、H-Ⅱを開発しているころには、H-ⅡAは、全部頭の中にあった。だから、すごく変わっているわけじゃないでしょう。

松尾:それは考え方の話であって、どちらかというと、H-Ⅱの方がH-ⅡAよりも難しいんじゃないですか。そうでもない?

五代:難しいです。なぜかというと、H-Ⅱには、すごい種子島射場の制約があった。制約というのは、狭いということ。例の推進剤のTNT換算率というのがありますね、固体ロケットは50%。

松尾:そう、そう。

五代:それから、液体水素は60%でしたが余り根拠はない。固体は火薬類取締法の話。それまでのロケットは、H-Ⅰにしてもみんな小さいので、十分に射場の保安距離の中に入っていた。ところが、今度は2tの衛星を上げろというわけでしょう。それで、射場は大崎しかない。だから、あんなに海の端まで発射点を出しているんです。セキュリティ上も問題ですけど、あれしかなかった。
 さらに、今の射点の先に島があるでしょう。

松尾:ありましたね、何かね。

五代:島まで橋を渡して射点を先に出すことまで考えた。ばかな話だけど。塩害はあるし、金はかかるし、風はきついし、漁業問題も大変です。それで、現在の場所に射点を置いた。
 それでも、村落の20何軒が保安域に入った。ちょっと紙が湿った状態で半径3kmの線を引いて、後で乾かしたりしたけど(笑)。実際に厳密にはかったら29軒が入ってしまった。小さな川のこっち側のはずが、向こう側に境界線がいってしまったり。

松尾:もとの式が大して厳密じゃないのにね。

五代:それで、どうしたかというと、この換算率は法律じゃなく準拠ですけど、これを自分たちが勝手に変えるのは問題だろうと。そこで、H-Ⅱの場合は、従来の換算率の50%、60%でもって3kmの中におさめるように、ロケットの推進剤量を決めたわけです。それを増やすと保安域がのびて、一気に家の数ががふえるから。推進薬量もぎりぎりにして、LE-7の推力もあんな大きさになってしまった。

松尾:推進薬量の制限下で能力を上げるためには、推力を上げざるを得ないといったような話ですね。

五代:そうです。

松尾:そうだ。なるほど。

五代:最初の後段階H-Ⅰでは、導入か国産かの議論はあったものの、私は「MB-3をクラスターにしたら?」と提案した。これを覚えている人がいて、「五代さんはあのときクラスターにしたらいいと言ったではないか。何で今度は」と言うから、「それは違う。LE-7で全く新しいロケットエンジンをつくって、まだ成熟していないものをクラスターにしたら、トラブルが増えて、期間が猛烈に延びる。だから、それはその次だ」と。だから、エンジンは単機にしたわけです。
 ところが、ロケットの設計を進めていくと、LE-7の推力が大きくなってしまう。最初は50~60tぐらいでいくと思っていたが、結局、80数t、真空で100tぐらいになってしまったわけ。だから、難しい点は全部、LE-7に集中してしまった。

松尾:100tぐらいまで推力を上げないと、所定の能力に至らない?

五代:ええ。だから、LE-7がポイントになってしまったわけ。

松尾:でもH-ⅡAになっても、その種子島の制約は依然残っていたわけですよね。

五代:そこが知恵を働かせたところです。H-Ⅱを始めたときに、自分で換算率、基準を変えるわけにはいかないけれど、次の─H-ⅡAという名前はなかったけど、その次のロケットのためには、時間をかけて、基準をリーズナブルなものに変えようとしました。北海道で固体ロケットの爆発実験をしたり・・。

松尾:苫東でね。

五代:ええ。苫東の後は、ウーメラで実験したわけです。酸素・水素の方も換算率を変えようと。アメリカを調べたが、むやみに広いアメリカでは、そんなものは関係ないんです。

松尾:そう、そう。

五代:それで、酸素・水素の小さな衝突・爆発実験を国内でやって、その後NASAとの共同研究で、ホワイトサンズで大きい実験をやった。その結果、数値は忘れましたけど、酸素・水素は量が増えれば全部が同時に爆発するはずはなく四散して、結局、大量になればなるほど換算率は下がっていく、というリーズナブルな結果が出た。固体ロケットも衝撃の大きさによって爆轟するかしないかの直径があって、これももっともな結果が出た。この見直しをH-Ⅱ開発と並行してすすめたので、H-ⅡAができたのです。

松尾:なるほど。

五代:換算率をみなおしたので、H-ⅡAのときには、推進薬量にゆとりがでたわけです。それで、ロケットの中身は徹底的に簡素化しろと。H-Ⅱは初めてのロケットで経験が少ないから、要らないパイプやバルブだとかがあったのでそれを簡素化する。構造もできるだけ試験をしなくて済むような厚みをとって、多少は重くなってもいい。推進薬量も多少は超えてもいい。だから、打上げ能力は2tとH-Ⅱと同じですけれども、H-ⅡAでは丈が伸びているでしょう。
 だから、システムとしてはぐっと簡略化できた。ロケット全体では、地上からのアンビリカルをうんと減らすなど、実現していないことが多いのは残念ですが。
 LE-7はかなり簡素化したけど、まだ改良の余地があります。燃焼室から溶接部を徹底的に減らすとか、信頼性とコスト低減に有効です。

松尾:そうすると、H-Ⅱから始まってH-ⅡAまでに至る間、商売のことを考えれば、あんなに無理することはなかったという話はあります。無理をした理由は、技術志向であったというのもあるんだけど、今のお話だと、どうも要求される性能、すなわち衛星側の要求と、種子島の発射点の制約、その2つが重なった結果ととれるんですけれども、そこのところは。

五代:H-Ⅱは、あの制約の中でよくできたと私は思っています。

松尾:だから、今、あれはフォーミュラ1で、トラックには勝てないと言う人がいるみたいだけれども、そのフォーミュラ1になった理由というのは、そういう制約のためであって……

五代:そうです。

松尾:それにしてもいいものをつくるという技術志向はあったんだと思うんですけど。

五代:それはかなりある。会社まである、いやむしろ会社の方があった。

松尾:会社まで?その技術志向というやつ?いいものという意味?

五代:今は知りませんが、あのころ、MHIにもっと技術志向の人がいて、その設計を止めさすのに大変苦労した。

松尾:ロケットの質というのは大変議論しにくいですね。さっきおっしゃったように、発射場の制約とか、どうしてもその制約の中で載せなきゃいかんとか、そういう制約があると、初めて質というのは問題になってくるわけですね。だけど、そこの制限が余りないと、しょせん運び屋なんだから。

五代:発射場の制約というのは、国際的には普通はありません。

松尾:ということなのかな。

五代:今、種子島でいうと、射場の狭さが、飛行安全上きつい。大きなホテルができて便利になったけど、あれは上から見たら発射場のちょっと横で4kmぐらいでしょう。そのために、気象上の制約が非常にきつくて、季節の風向きによって、風があるときには打つのは難しい。あるいは、発射確率が落ちてしまう。だから、いろんな意味で、制約のない発射場で、ゆとりのあるロケットを打ちたいと思っています。

松尾:そうすると、ロケットエンジンも、今言われているものよりは楽なものに変わっていたかどうかという話なんだけど、もともとつくるときに技術志向の人間がいて、その人が頑張ってしまったというのが第1次原因みたいなものですね。それを除去しようにも、衛星側の要望としてこれだけ上げなければいけないという話と、射場の制約があるから、そう簡単には緩和ができなかった。そういう順番なんですかね。

五代:そうですね。全体に日本は技術志向が強い。だから、でき上がってみれば、日本の技術というのはすごいねという話になるけど。

松尾:ただ、商売しようかとなると、高いねという話とか、余計なことだねという話が出てくるということですかね。

五代:うん。

松尾:だから、技術志向というのは、もう1つ考えると、どういうことなのかなという気がして。日本の技術はすごいねと言わせるというのは、確かに1つの目的だけれども、商売にとっては都合の悪いところもあるわけなんでしょうね。

五代:そうですね。

松尾:そこまで考えて技術志向でいったのかな。

五代:いや、技術志向というのは、やっぱり液体酸素・液体水素のロケットがNALの角田を中心に進みましたね。研究だから技術志向は当たり前でしょうが、実用化するときに、研究と実用は違っているよという開発者の視点が欠けていたと思う。

松尾:スタート時に、例えば、投資を決めた時点で、そういうスコープで見る人というのか……

五代:もうちょっと見てくれればよかったが、経験もなさ過ぎた。

松尾:見る場所がなかったということなんですかね、そこのところは。今になって、商売、商売と言うんだったらね。

五代:2段燃焼方式とガスジェネサイクルの差や全体への影響なんて、皆さん知らなかったと思う。

松尾:そうでしょうね。

五代:ヨーロッパのロケット開発の歴史、というか深さを知って欲しいですね。日本と同じく、ドイツはやっぱり技術志向です。だから、アリアン5がほとんどできたときに、1段目のバルカンエンジンのかわりにLE-7ならば、能力は20%ぐらい──正確には忘れたけど、こんなに上がるのにとドイツは大いに主張し、ペーパーも出た。だけど、ヨーロッパはアリアン4開発までに、ELDOロケットなどでさんざん苦労している。はっきり言って、日本は液体ロケットは初めてで、失敗の経験もない。その割にLE-5という高度なエンジンがうまくいって、それを大型化するのにもまぁ成功した。ということだと思いますね。
 だから、ガスジェネサイクルとかだけを、今ごろとやかく言うことはなく、30年前にやって欲しかったと思う。もうできているのを、今からレベルを下げることに何の理由もないと思う。

松尾:なるほどね。

五代:最初のときは……

松尾:ただ、割に言われる意見でね。それを産業化してどんどん世界に羽ばたこうなんていうときに、信頼性とか値段を損ねているのはその部分だということを言う人はいますわね。ちょっとね。

五代:だけど、同じ重さの衛星を上げるのに、H-ⅡAロケットは性能が高いから機体は小さい。だから、本来は安くなってしかるべきです。

松尾:そうなんですね。小さいということのメリットは恐らく安いというところを通じてあらわれてくるんですよね。ただし、発射場の制約みたいなものがあると、もう1つ、別のものが出てきて、小さいということは本質的で、そうでなければ打てなくなってしまうところはあるんでしょうけどね。

五代:それから、日本製航空機の機体表面は、驚くほどなめらかですばらしいじゃないですか。同じ値段でできるなら何も悪くはない。ロケットも小さいから本当は安くできる。あとの問題は、液水の値段とか。1L当たり何百円でしょうが、カナダだったら何十円もしないようなものです。

松尾:打上げは金がすべてなのか、質がすべてなのか、その中間にあるのか、なかなか難しいところはあるんですけどね。整理ができないから。

五代:そうですね。フェラーリで宅配云々を言い出したのは、もともと私です。すばらしいフォーミュラカーでもって宅配して、ぽいと置いていくのはサービス不在という点で問題だと。だけど、それは全部商売じゃないんだから。

松尾:それが1つあるんですよ。最初は何を考えていたんだと盛んに問い詰めたときに、果たして商売のことがそんなに念頭にあったかという話と……

五代:それはあった。優先順位は別として。衛星通信の未来が明るかった時代だったから。

松尾:そうですか。今に至っても、商売のことをそんなに念頭に入れる必要があるのかと、僕はまだ今でも思っているんだけれども。

五代:思っているでしょう。今は需要が見えない時代で、この先もそう希望は見えない。

松尾:そのとき商売のことを思っていたんだったら、問いかけに対しては何か別の答えがあったのかもしれない。

五代:いや。始めたとき、理想的な目標があるわけですね。その中に、商売としてコスト。静止衛星1kg当たり800万円、遷移軌道で400万だったと思うけど。衛星の重量と価格の図表がありますね。ロシアは低いけど、アメリカとヨーロッパの線よりは低いところをねらった。そのぐらいはできそうだった。

松尾:だったんですね。

五代:できそうだった。それが、1985年(昭和60年)のプラザ合意で円高ドル安に。1ドル240円で勘定していたのが一気に100円を切ってしまった。

松尾:そのときの話ならば……

五代:もうあれで商売は終わりですよ。開発中の少量生産品を半値以下に下げるのは無理。自動車ですら大パニックになった頃です。

松尾:だから、性能もよければ、商売にもなるというものだったはずだということなんですね。そのとき、当初、ねらっていたのはね。

五代:そう。国産大型ロケットを手に入れるのが第一で、商売は大目標じゃないですからね。

松尾:一番いいところは聞いたかな。

五代:ここの部分が、今、宇宙開発委員会でもめているんでしょう。

松尾:いや、あれなんだけど、なかなか難しい話ですよね。

五代:難しい話。

松尾:ロケットのクオリティの問題というのは非常に難しい話で。制限がないと、何が質がいいんだか、よくわからない。

五代:普通の国なんか、何の制約もないのだから。

松尾:あとはHOPE(H-2 Orbiting Plane:H-Ⅱロケット打上げ型有翼回収機)の話、思い出を聞かせていただければ。トピックスで、HOPEで特に心に残ったことというのはございますか。

五代:HOPEはオールジャパンでやるのが基本。それで、3機関となるとややこしいので、有志が集まった。長友信人君が無人HOPEをやって有人HOPEへ行くシナリオを出して、その線で行こうと。HOPEをだんだんオーソライズしていくよう、小林繁夫先生をトップにHOPE委員会をつくりました。

松尾:最後は、室だか、センターだか、NALにできたんですよね。

五代:それはずっと後の方です。松井隆さんが副理事長で私がロケット担当理事の時。空気中を飛ぶのはNALの得意部分だから、簡単に言えばHOPEをNALにやってもらおうと。NALは宇宙ですることが少ないから、NALの技術もHOPEで生きるという話です。もっとも初めは、NALの方は煮え切らなかった。感じはわかるでしょう。一緒にやろうと提案しても、事業団の浜松町は嫌だ、NASDAの連中は三鷹を嫌がり、三鷹駅前に部屋を借りてとか。私はNALの中に共同チームを置くと決めました。NALは大型風洞の奥いちばん裏の敷地を候補に上げてきたから絶対だめだと。ともかく入口近くでみんなに見える、行きやすい場所をと、いささか強引に今の場所にHOPE共同事務所をつくった。あのときは所長が高島一明君で、熱い日に鍬入れ式をやったのを覚えています。
 それで、あの建物はリースだったんですよ。

松尾:そうなんですか。

五代:リースでは4つくらいクラスがあった。最高級だと贅沢といわれるので上から2番目、居心地よくみんなが自由に使えるようにと棟をつくったつもりでした。HOPE専任者はいつもいるという条件をつけて。3年でリースが切れたら、あとはNALにあげますと。
 もうちょっと立派かと思ったけれども、天井が低かったですね。やっぱり、プレハブは。

松尾:これは、残念ながら、HYFLEX(極超音速飛行実験機「ハイフレックス」)、ALFLEX(小型自動着陸実験機「アルフレックス」)があって、中断になってしまいましたね。

五代:そうですね。

松尾:こういう計画で中断というのは珍しいですね。

五代:うん。

松尾:ないしは、やめたというのは。もともと文章をよく読むと、そうなっても不思議はない工夫はこらされているんでしょうけどね。

五代:中断というのは中断だから、再開できるんだろうけど、実体は完全に中止です。
 HOPEが始まってから、いろいろな研究が進みましたけど、空力、耐熱材、軌道計算などやるだけでなく、ともかく実物を飛ばそうというのが、私の主張です。それで、再突入、回収の第一歩のOREX(軌道再突入実験機「りゅうせい」)から始めました。

松尾:OREXは何だっけ、バリスティックで落っことすだけのやつでしたっけ。

五代:そうです。

松尾:そうですね、OREXは。

五代:それで、H-Ⅱの初号機には静止衛星のダミーを載せているけど、それだけでは空きがある。そこの重り代わりに、安くできるなら考えてくれと。それで、円盤状のカプセル回収体の設計ができた。断熱材の真ん中の部分はC/C(カーボン/カーボンコンポジット)、その周りの耐熱タイルは3社の競争試作品で、一番いい製品が次に生き残れますよ、とか言って。
 あんなにH-Ⅱも、OREXもうまくいくとは思わなかった。

松尾:初号機でしたっけ。

五代:初号機だった。初号機だからスペースも重さもあいているわけですよ。

松尾:できてしまうわけね。

五代:だめでもともと。だめなときはさんざんたたかれると思ったけど。だから、私がH-Ⅱ打ち上げ記者会見で「200%大成功」と言ったのは、そういう意味です。
 最初からちょっとした生き物を乗せたいなと思ったが、そのためにはしばらく浮いていなければいけない。ところが、思いかけないことに巻き込まれた。科学技術庁は核燃料廃棄物を運ぶ船でグリーンピースとトラブルがあった。回収海域はクリスマス島の先です。キリバス共和国は非常に親日的ですが、太平洋諸島の役所には外国人コンサルタントがいて、グリーンピースともかかわっていた。OREXが海に浮いていると、ヒドラジンや電池から毒が出るだろうという。ひどい言いがかりですが。
 それで、着水予定地とその周辺、数百kmの半径を、ある距離、ある深さ毎に、水質をはかるというんで、話をつけてしまったらしいが、その交渉の結果は聞いていなかった。
 私はそのちょっと前に、再突入だけでもいいと回収を諦めていたんですが、「降ります。拾える可能性が十分あります」と報告を受け、「よし、拾おう」と言っ時には遅かったですね、諦めましたがそれにしても惜しかった。落ちたらば、すぐ沈めるようになっていて安全だと約束していたのです。実際には25分ぐらい、OREXは浮いていたので、拾うつもりでいたらもちろん拾えたはずです。
 しかも、船にはグリーンピースが立ち会いで乗るという。

松尾:それは、さっさと沈んでしまったかどうかを確認するわけ?グリーンピースとしては浮かんでいては困るわけですね。そんなやつが残ったら。

五代:そう。大海の1滴だから、毒なんてあるはずはないけど、残念ながら回収はできなかった。せめて海生生物だったら、生物保護団体も文句を言わないだろうから、いいかなと思ったけど、残念ながら拾う準備はしなかった。実際には、さっき言った25分だったか浮いていました。

松尾:そうですか。それは「約束と違う」と言って、グリーンピースは騒がなかったわけですか。

五代:沈んだからいいんじゃないですか(笑)。

松尾:ちょっと浮いているというのは別に悪くない?

五代:うん。

松尾:そうですか。あとは……

五代:HYFLEXという有翼回収機の予備実験計画をたてました。これはOREXよりちょっと高いくらいなら出せるというので。
 ちょっとその前にJ-Ⅰの話があるけど、その話は後にしましょう。J-ⅠロケットにHYFLEXを載せるのに、文部省かな、フェアリングがないといけないと言われたんです。ISASじゃないと思うけど。J-Ⅰというのは、初めて日本の2宇宙機関のロケットを結合し、小型・中型衛星を打とうという発想だった。
 J-Ⅰロケットは開発費が非常に安く済む。というのは、2機関にはいろんなロケットがあるから、それを組み合わすと新しいロケットができるわけです。
 そういう構想は世界では当たり前ですが、日本ではできなかったのが、NASDAとISASでメニューがそろってきた。それを組み合わせたのがJ-Ⅰです。J-Ⅰを出したときに、科学技術庁では不評だったんですよ。

松尾:そうですか。

五代:評判が悪かった。ところが、大蔵省では大変に褒められた。大蔵省は、日本国として、日本の二宇宙開発機関の成果が一緒になって次のができるのが望みだったと。それがやっと実現するんですねと、評判がよかった。そうしたら、科学技術庁の評判もよくなった(笑)。大体わかるでしょう。
 その3段式J-Iに載せる衛星はまだなかった。ロケットはいつも衛星より実現が遅れているのに、今回だけはロケットプランの方が早かった。それで2段式にして、フェアリングなしで、HOPEの小型版を載せて再突入実験をしようととした。そうしたら、フェアリングがついていないとだめだと。直径1.6mのフェアリングに収めようとしても、翼の出っぱった格好ではできない。それで、NALの渡辺重哉君のグループに、このエンベロープの中で、有翼回収機を考えてくれとまかせたのがHYFLEXです。私も見たとき、翼があるのかなと思ったぐらい、あんな小さな翼でもマッハ2か3までは、安定にマヌーバーできたんです。それ以下はちょっと無理だけど。
 ただ、J-Ⅰで打ち上げる小型衛星をいろいろと計画したけど、NASDAの大型衛星志向に合わなくて、なかなかできなかった。

松尾:打ち上がりませんでしたね。

五代:これがHYFLEX。再突入軌道の回廊、横軸に高度、縦軸に何でしたっけ。

松尾:速度でしょう。

五代:速度ですね。HOPE全体の速度・高度の再突入回廊の中で、OREXが軌道から降りてくる部分をカバーする。HYFLEXはその下を試験する。飛行体の形はいろいろ違うけど。それで、地面に近く降りるところがALFLEX。
 ここはもうNALの得意分野で、おなじ機体を13回ぐらい飛ばした。三鷹の展示館に飾ってあるけど、翼がむやみに大きい。私もウーメラに行っていますけど、オーストラリアの科学大臣がメディアをひきつれて、わざわざ飛行機で来ましたよ。

松尾:そうですか。

五代:実際にその日は飛ばなかったけど。落ちたときにどう言いわけするかというために私は行った(笑)。無人着陸はぜんぶ成功したからよかったが、カンガルーと車がぶつかったとかトラブルはあったけど(笑)。
 その頃、オーストラリアの宇宙開発は、すっかり駄目になっていたので、再興のお役にたてるかなとも考えました。オーストラリアにも情報を提供します、一緒に実験しましょうと、共同シンポジウムまで開きました。
 HOPE本体のまえに、3つの小さな実験機があって機運は盛りあがってきました。HOPE実機の方は、担当を狙っていた会社は、たっぷりお金をいただこうとしたわけです。わかるでしょう。次のビッグプロジェクトはHOPEだと、とんでもない金額を言って引き下がらなかったから、役所の方もビビってしまった。ちょうど、バブルもはじけた頃です。
 それで、徹底的に安い機体をつくろうと、GHクラフト……。御存じですか。御殿場にあるベンチャー企業です。アメリカンカップのヨットとか、いろんなものを試作しているところで、社長の木村さんがすごい。アメリカでいうと、規模は別として、スケールド・コンポジット社のような企業です。御殿場の工場で、MHI、NAL、NASDA、GHクラフトが一緒になって機体を試作した。
 金がかからないように徹底したやりかたです。設計は御殿場のしがないマンションの1室を借り、コンピューターも押し入れに置いたりして。とにかく、若い連中はすごく元気だった。MHIもそういうチャンスがなかったから、とても勉強になった。
 複合材の機体をつくるのに、GHクラフトのは常温で硬化するやり方です。それまでは高圧のオートクレーブがなければできない。それだけで何百億です。その場所はといった話だから、とんでもない金額になる。GHクラフトはどうしたかというと、汚いつぶれた工場跡を借りて、一体成形複合材で機体をつくった。三鷹の食堂脇に飾ってある機体です。
 機体の型をベニヤ板でつくり、加温室もベニヤ、複合材の下はちょっと減圧するけど、加熱ヒーターは、静岡茶の乾燥ヒーターファンの中古品で、幾つか並べて暖める。温度センサーもありきたりのもの。要するに、我々が昔やったような、そんな感じでしょうか。それであれだけの機体ができた。多分、3回ぐらい試作を繰り返すと、いいのができるでしょう。
 こんなふうにやって、2桁か少なくとも1桁は金額が落ちるわけですよ。50億というなら3億円でできるとか。
 ちょうどバブルもはじけた。技術的には、シャトルの小さいのはとても熱的にきつい。だから、OREX、HYFLEX、ALFLEX、HOPEという流れはあり中断したが、USERS(次世代型無人宇宙実験システム)の実績もあって、OREXを発展させたカプセルなら簡単にできるでしょう。今までいろんな理由からできなかった再突入、回収を、日本でポイントの実験をしたのが、HOPE計画です。

松尾:なるほど。どうもありがとうございました。
 あとは、ちょっとだけふれておくと、M-Vの話で、いつごろですかね。宇宙科学もだんだん伸びてきて、今のよりちょっと大きいのが欲しいよという話になって……

五代:1.6mの?

松尾:1.4mを超えてやりたい話があって、宇宙開発委員会に、よろしく頼むということを言ったわけです。

五代:そうですね。

松尾:そうすると、宇宙開発委員会の議論は、割にというか、まともに進みまして。それは、科学のものを打つために少し大きいものが要るというのは、みんな、そう思う。その規模のものだったらどこがいいかねという議論を次にして、余り大きくないんだったら固体の方が安いでしょうという話になって。固体はどこでやるかねという話になって、NASDAもできるんだけど、今までの経緯その他、蓄積を考えると、ISASがやるのがいいだろうという話になって、M-Vをやるということになったという経緯があるわけですね。
 ちょうどそのころ僕が出ていたんだけれども、事業団側は五代さんと……

五代:私はいたかなぁ。

松尾:柴藤さん。

五代:ああ。

松尾:五代さんは時々顔を出していた。

五代:そのころ、松尾さんもNASDAの非常勤理事でなかった?

松尾:非常勤理事でしょう。僕は随分長かったから。えらく金のあるところだなと思って(笑)。

五代:NASDAの理事会で隣にいつも座っているんですから。何年間も一緒に。

松尾:そう。だから、僕はNASDAの理事の中ではものすごく長い方ですよね。

五代:ですよね。

松尾:8年もやった理事なんて、そんなにいない。五代さんはもうちょっと……。五代さんも8年はいないか。

五代:私?長いですよ。

松尾:長いでしょう。

五代:副理事長まで入れると10何年やった。

松尾:じゃあ、僕が2番目だ。

五代:松尾さんは長いですよ。

松尾:そんなこんなで出たんだけれども。そうですよね。それが通ったというのは、ISASにとっては非常に大きな話でね。

五代:そうですね。

松尾:今まで1.4mとかというわけのわからない話だったのが、さっきの話じゃないけど、発射場の制限の中で打てるように……。「だったら、どうぞ」という話で、非常に合理的な基準に変わりましたね。あの話はNASDAとISASの関係にとって非常に画期的にだったと思っているんです。
 そのときNASDA側の受けとめ方はどういうことだったんですかね。

五代:NASDAは別に……。役所の話でしょう。1.4mを1.6mにしたんだっけ。

松尾:結局、2mになったのかな。

五代:ああ、2m。

松尾:M-Vのときには。1.6mというのは、前のとき、ちょっとあって、そのときはだめだった。

五代:NASDAの受けとめというのは、ほかの人は知らないけど、私はずっと一緒にやってきている仲だから。1.4mというのは、それこそ非常に昔、宇宙開発審議会、それとも委員会のころに、科技庁がロケットをやるときに課したことでしょう。1.4mのミューというのは、私が富士精密にいたとき、もう既に話があったんですから。それが凍結状態で……

松尾:要するに、それ以上、大きなものをやってはいけないと、そのときの状態を凍結したというのに近い話なんですよね。

五代:そうですね。

松尾:これ以上のものはやってはいけないという話。

五代:私は富士精密にいたということは、東大というかのISASロケットをやっていた。NALへ行って推進本部もやった。それから、NASDAへ行った。だから、大いにみんなでやったらというのが私の基本です。誰とでも何でもやる。
 ところで私が「NASDA? なんで行くのか」と行かなかった理由は何かというと、究極の目標が静止衛星打上げだからです。静止衛星打上げでは、3万5800kmより先には行かないし、行かせない。宇宙はそんなものじゃないでしょう。宇宙は地球から離れて全部宇宙でしょうと。言ってみれば、ロケットもスペースクラフトですよ。というのは、どこへでも行くのが宇宙活動だと思っているから。だから、衛星にロープをつけて、それ以上、先はだめだよというのは、不合理だと思っていた。だから、あのとき、ISASにすればそちらの枠がとれて、いろんなことができる。NASDAの方も枠がとれて、何をやってもいい。両方ともフリーハンドを持ったという、私は前向きなとらえ方です。実際にその後、月だって……

松尾:月もそれの1つの大きな成果で出てきていますね。

五代:なっていますね。SELENE(月周回衛星「かぐや」)は、私と松尾さんが看板を掲げて、ISASとNASDA共同の事務所を……

松尾:本当に看板を掲げましたね。部屋の入り口に2つ、こうやって。写真班がやってきてさ。
 だから、そういう経緯がリセットされたというのが、M-Vが認められたという話だと僕は思っているんですね。ISAS側から見ると、非常に不合理な条件で、1.4m以上はだめだというのが……

五代:あれは本当に役所的な話です。

松尾:ということがありましたね。

五代:そういうのは、おかげさまでフリーになった。今、一番の縛りというのは、何だろう、有人問題か。

松尾:有人も何かいろいろおっしゃっている方がいるみたいだから。

五代:うん。あれも、すごい金がかかるというふうにまた……。

松尾:まあね。

五代:確かに金はかかりますよ。だけど、金をかけて、それをいただきたいところもいるわけです。常にそれがあるもんだから。さっきのHOPEでもそうでした。

松尾:当初の予定時間を超えてしまいましたが、大変長い間、ありがとうございました。

(了)

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(研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付)