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宇宙開発利用

宇宙科学研究所におけるロケット開発(秋葉 鐐二郎氏、野本陽代委員)

 対談する秋葉氏と野本委員

日時

平成21年6月2日(火曜日)14時~16時

場所

文部科学省庁舎 東館18階 宇宙開発委員会 非常勤委員執務室

参加者

秋葉 鐐二郎氏(元宇宙科学研究所所長)

野本 陽代(宇宙開発委員会委員)

メインテーマ

宇宙科学研究所におけるロケット開発

(敬称略、肩書きは対談時点)

野本:秋葉先生が最初にロケットを始めたのは、糸川先生の影響ですか?ペンシルロケットを飛ばしたときは、秋葉先生は東大の大学院生でしたよね。

秋葉:私は白線浪人だったのですよ。旧制高等学校がなくなったときに浪人になったのです。文部省が大学2年に編入してくれて、今はなくなった第2工学部に入りました。それは千葉にあって、分校といっていたのですが、後の生産研となりました。

野本:糸川先生の研究室に入られたのは、どのような経緯だったのですか?

秋葉:当時糸川先生は脳波や心電図をやっていたし、講義がおもしろかったですね。

野本:いつごろからロケットをやろうと思われたのですか?

秋葉:学部を卒業する直前にロケットをやろうと思いました。軍事に関連する研究はやりたくなかったですね。糸川先生が何で宇宙に着目されたかといいますと、私が大学の頃にアメリカで医療エレクトロニクスという、今はどこの医者に行っても使っていますが、その当時では物珍しい物でありまして、非常に微弱な脳波みたいなものが測れるようになったのです。そういった事を糸川先生はやっていた訳ですが、戦時中に飛行機を作っていたことは私も知らなく、大学に入ってしばらくしてから分かりました。糸川先生はロケットの安定性というのは振動現象であるから、色々と振動関係の研究を進めてこられたのでしょう。そういう事で基本的には空を飛ぶ物に興味を持っておられたのだと思います。アメリカで学会に出た折にアメリカの関連企業を見た、というところでしょうか。その頃はまだNASA(米国航空宇宙局)は出来てなかったかと思います。NACA(国家航空諮問委員会)という所だと思いましたが、そういうことで軍事研究的な面で宇宙が進められて来た様なようなところもあるし、たいへん技術的には我々にはかけ離れた存在であった趣がありました。よくは分かりませんけど企業レベルぐらいだと、かなり開かれていたというところもあったのかもしれません。そういうことで宇宙研究というのが始まって大変フレッシュな空気があったのでしょう。そんなところから糸川先生はロケット開発に着目された気がします。

野本:糸川先生がロケットを始められたので、一緒に始めたのですか?

秋葉:糸川先生がロケットをやり始めたので、卒業設計で一晩サットンのロケット・プロパルジョン・エレメントというロケットの教科書を借りて、数式を追って内容を理解し、設計しました。軍需研究はいやだったので、大学院でロケットをやりましたが、その頃は既にロケットで科学観測をやっていましたし、国際地球観測年(IGY)なんかもその流れでありました。ペンシルロケットが始まった頃に、糸川先生は大陸間ロケット旅客機の話なんかされていまして、なるほど面白いな、などと思っていました。あの話は糸川先生がお一人で考えられたものではなくて、それに類似した英語の論文がありました。だから糸川先生の独創という訳ではなく、私もその辺に転がっていた英語の雑誌を見ましたが、数値計算等はされたのでしょうが、そんなことを研究している研究者もいるにはいました。でも面白い着想だったし、国内では少なくとも戦後の1950年頃では大変目新しい話でした。

野本:生産研にいらした先生方はどのような反応だったのですか?

秋葉:いい研究所ですよ。生産研は全体として見殺しにすることはありますが、足を引っ張ることはしません。手を挙げてやろうとすると集まってきます。今の大研究所では隣が何をやっているか分からないけど、当時は集まってきていました。

野本:そうするとロケット開発に必要な人材は生産研の中にいたわけですね。

秋葉:ロケットは機械的部品ですが、電気系の人も沢山はいっていました。総合的工学としての支援体制が最初からできていました。それが生産研のすばらしいところでしたね。

野本:そうすると糸川先生が他のところにいてやろうとしてもできなかったわけですね。生産研だからできたということですか。それと国際地球観測年とがうまく合体してすすむことができたのですか?

秋葉:ペンシルロケットは1955年(昭和30年)4月に飛翔実験をやったのですが、その年の1、2月頃までは、宇宙とまったく関係のない計画でした。しかしその年の正月の新聞に糸川先生の記事が載りまして、その中で生産技術研究所での「実験機第一号」なんて写真が載っていたのですが、それを作らされたのが私でした。何で作ったかというと紙で作ったのです。その以前からロケットのテストフライトを小さいロケットでやるというので安定性の計算などを大学院の学生という立場で少しやったことがあります。紙の第1号はいい加減な物でしたが、何の役にも立たなかったかというとそうでもなくて、ちゃんと尾翼を付けると、何でもそうですが投げてみると安定して飛ぶかどうか分かるものなのです。つまりロケットの静安定なんてものはそのぐらいいい加減なものなのです。静安定かどうかという程度はあれで十分なわけです。場合によってはもうちょっとしっかりしたことが出来るかもしれないですが、要するに、自由飛行をやらせるだけの事です。風洞は止めておいて風を吹かせる訳ですね。なんだか知りませんが止めておいて風を吹かせるほうが高級みたいに見えていますが、歴史的にいったら風洞なんて物は後から出来たもので、これは飛行機の歴史を見れば分かることですが、ライト兄弟が飛ばすまでは物理学者は飛行機なんて出来ないと言っていた訳です。もうニュートニアンセオリーしかないからね。「抗力が大きくてとても出来ない」と、そんな調子でした。それすらも言っていなかった時代で、ともかくエンジニアが鳥に似せた物や、推進力があれば浮くのではないかとか、その程度のことで始めて飛んだわけです。その時風洞があったわけでもないし、計算機があったわけでもない。つまり「パイオニアのやる話なんてものは皆そんなものだ」と言いたい訳です。もう一つは、「何も風洞は高級なものではありませんよ」と言っている訳で、今だって飛翔体が他の手段で簡単に飛んでいければ風洞を使う必要はない訳です。例えば空から物を落とせば下に落ちるまでけっこうスピードが出る訳だけど、上に上げる手段があまり無いからやっていないだけです。実は北海道には1000mの縦坑を使った無重力装置があります。縦坑みたいな所だったら簡単に100m毎秒ぐらいのスピードは出る訳です。だから何も大きな扇風機で風を起こさなくても、計測風洞の実験なんて上から物を落とせばできるのです。つまり「頭を柔らかくして考えればまだまだ金を掛けないで色々なことを出来る」と、当時のことを述懐して今日に敷衍(ふえん)して言うならば、そういうことです。話を元に戻しますと、文部省の岡野さんという方がその正月の記事を御覧になって、その当時南極観測をやっていた永田さんが"ロケットで国際地球観測年に参加しよう"という話を持ってきていたので、両者をくっつけたということがその年の初めにありました。これがその後の方向付けとなりました。ペンシルの生まれは怪しげでしたが、ペンシルロケットを実験する頃には国際地球観測年の参加という「宇宙観測のためのロケット」というしっかりした位置付けが出来た訳です。結局、国際地球観測年は糸川先生だけでは駄目で、永田先生とか前田先生とか、理学的な大物が協力的でしたので、ロケットを使っていく時代が来ていました。

野本:理学の人はロケットをもっていなかったので、研究をしたくてもできなかった。つまり、初期においては理学と工学が両輪として引っ張ったわけですね。

秋葉:何もない時代だったので、人の繋がりが大事でした。永田先生と糸川先生は中学の同級生だったのではないかな。当面は、高度100kmまで上げるというのが観測ロケットの目的になりました。国際地球観測年である1957年~58年までには2年少々しか余裕が無い訳です。まだ高度が何百メートルしかない時代に、ペンシルロケットから2、3年後には100km上がるロケットを作らなければいけないという話ですから、物事をよく考えればとても「やります」とは言えない話でした。計算機も無い時代にロケットの理論をやっと勉強したぐらいの人が専門家だった訳ですから、「希望的な観測でやればできるのではないか?」ぐらいの勢いでやったのではないでしょうか。考えが甘かったということは、ベビーロケットの実験をしていた頃には身にしみて分かりましたから、これはえらい事を約束してしまったという話でした。ロケットの理論では、飛翔体の速度を増やす方法として、比推力の大きな推進系を使って、マスレーショ(mass ratio)を高くしなければいけない。けれどマスレーショだけでは限界がありますから、一段で到達出来ない時は二段式にして、それでもだめな時は三段にしてと、そういう道筋は出ている訳です。だから理屈通りなら大きさは関係なく出来るのではないか、なんて感じはありました。ところが空気が一杯あるようなところで飛ばしますと、小さな物では空気抗力でエネルギーを奪われてしまって上に上がっていかないので、ある程度の大きさが必要になってくるのです。始めのうちはその辺りの見当が中々つかなかったのですが、その年の夏頃に大体そういうものらしい、というのが分かってきました。当時考えていた火薬は大砲の発射薬に使うような物でして、入手出来る火薬はロッドのサイズが決まっていました。それをロケットに仕込んで火を付けるのです。エンジンのサイズはこの火薬のサイズで決まってしまいますから、大きくする場合はこれをたくさん放り込んで支えなければならないという、へんてこな物を作らなければいけないのです。そういうのを作ってやりました。しかし作ってもガサガサになってマスレーショが上がらない、だから段数を重ねなければならない、といってもそんな変な形の物で段数を重ねてもうまくいかない。というような話もだんだん見えてきました。もう一つ、サイズが決まっているとロケットの推力の持続時間は非常に短い訳です。まあ5秒までいけばいいぐらいで2、3秒ぐらいが普通の燃焼時間になってしまう訳です。そうすると加速が大きいからスピードだけは短時間にやたら出る訳です。だけど空気が多いところでそんな速度を出しても全部それにエネルギーを喰われて、それだけならまだしも空力加熱という問題が出て機体が壊れる訳です。空力加熱が出るという問題は、逆をいうとエネルギーを喰われているからロケットは上がらないということです。それではどうしたらいいかという話があって、結局火薬の性能が速度を出すという目的だったら、一段の次は二段、三段と継続して火を付けていけばいいのだけども、空気がある間しばらく二段に点火するのは止めときましょうと、間を置くというテクニックが有効だなということにだんだん気が付きました。それが私の修士論文ですが。まあそんな話で多少私も学生ながら貢献していた訳です。

野本:それを現実に作ったわけですね。それが修士論文で、博士論文は何を?

秋葉:小さくて軽くてしっかり燃えるロケットが必要となり、将来の見通しが出ないので推進薬を変えないといけないという話が持ち上がりました。けれど推進薬なんて学術論文に出ている話ではないし、それからロケット技術全般がアメリカにおいては軍事技術ですから、その話は多分アメリカと接触ある方々が向こうの状況などを見聞きした話から来たのでしょうね。向こうは火薬の性質が全然違うものを使っているというのです。要するにそれまで使っていた火薬はニトロセルロース、ニトログリセリンのダブルベースという火薬でしたけど、一つの分子の中に酸素と燃料であるカーボンや水素とかそういう物が入っているような、一見物質としては均質な物が火薬になっている物です。それに対して新しいものは、酸化剤と燃やす物とが別になっていて、燃やす物がプラスチックを混ぜてブロックにしてしまうコンポジット推薬がこれからの火薬だという事までは分かりました。2、3の企業で企業内研究を始めていたようです。中々それの進捗がおもわしくないという訳で、糸川先生の所で私は大学院の1年だったのですが、うちでもやろうじゃないかということで実験を始めました。博士論文は、そういう固体ロケットを作ろうとしました。

野本:それでコンポジット火薬ができたので、固体ロケットを作れるようになったのですね。

秋葉:一応燃えるものを作りました。もう少しちゃんと性能のでるものにしたかったので、富士精密と一緒にやりました。最初の飛翔体はテストのために作った比較実験で、それまでに作った古い火薬との比較です。これで真新しい推進薬とも比較をして新しい物の性能を確認できました。一番大きな点は、従来このサイズはダブルベースの形だと熱的に持たないのでスチールで燃焼器を作りましたが、新しいコンポジット推薬は中に鋳込んで作るから、燃焼室の熱というのは最後まで伝わらないので、外がアルミニウムで出来るという点です。だから断然軽くなったので性能がよくなったのです。よってそこまでの新型推薬の威力が大体分かりまして、その飛翔実験を2段式として実験したのがカッパ5型です。その時はまだ1段目は古いタイプのダブルベース型でやっていました。しかしそれの地上燃焼実験は既に終わっていましたので、これなら次の組みあわせの性能の物でIGYに使えるよう物が出来るな、という見通しはカッパ5型が飛んだ時点で私は強く確信を持ちました。その前に糸川先生が研究室の研究成果を比較するため、日産自動車~IHIエアロスペースと流れている企業とは違い、日本冶金という会社に、コンポジット推薬を使った、パイロケットというロケットを作らせた事が1~2年ありました。それをカッパ122というサイズで推進薬の比較をするところまでは行きました。製造のリライアビリティが低かったという事もあって止めてしまったのですが、私としましては未だに不義理をしたと言う感じがあるのですが、変にそれを続けなくて良かったという気がします。なんといっても日産-IAと今の流れで出来ているところの技術者が沢山いましたし、その当時の完成度から言っても高いものでしたから。日本冶金のほうはちょっと取り組みとして本格的ではなかった事と、社内で爆発事故があって死者も出ました。それもあって気勢を削がれたこともありますし、私も含めて技術者的にちょっと見劣りもしていたと言えるかもしれません。それで止めになりました。

野本:それから生産研が宇航研(宇宙航空研究所)になるのですね。

秋葉:1964年(昭和39年)に生産研が宇航研となりました。

野本:宇航研は駒場にできたのですよね。生産研本体は千葉から六本木に移ったわけですが、どうして生産研を離れて宇航研に移ったのですか?

秋葉:理学者を取り込むためですね。宇航研は理工学研究所といっていました。観測ロケットの方はそれ自体順調で、サイエンスのコミュニティーはロケットを使っていろいろな実験をしていました。宇宙航空研究所ができたのは1964年(昭和39年)ですから、X線グループの小田先生のチームが入ってきて、X線天文グループが比較的大きなロケットで成果を出していたので、K-10型、9M型のデリバティブですけど、それを使っていい観測をしました。これがロケットで苦労をしていた当時に並行して行われていました。工学のロケットグループはつまずいていましたが、科学の方では意気が上がっていました。

野本:糸川先生は宇航研に行ったのですか?

秋葉:生産技術研究所から宇航研までいましたよ。スキャンダル事件の話とかありました。

野本:インドネシアにロケットを輸出したりして、たたかれましたね。

秋葉:たたかれたという意識は先生にはなかったでしょうね。インドネシアにロケットを売ったのは、特に悪いことではないと思っていました。生産技術研究所としては当たり前のことをしたという感じです。

野本:1964年(昭和39年)7月に、宇宙開発事業団の前身である推進本部ができてますよね。この時に、東大の技術を持っていくという話はなかったのですか?

秋葉:いかにも無謀な話で、我々が衛星打上げ直前で、その話が具体化してきました。衛星打上げを途中でやめさせると言う話はなかったですね。どこでやめさせるかという話で、1.4mというところで線を引いたと言うところですね。

野本:その当時、秋葉先生は30代でしょうからトップの決定には係わっていなかったのですね。その後、事業団との協力関係はどうだったのですか?

秋葉:全体としては協力会を通じて協力しました。当時コンサルティング的な立場でいろいろ顔を出しましたが、いずれにせよ事業団は技術導入主体だったので、相容れない部分がありました。宇宙開発委員会は間を取り持ってくれました。いい体制だと思っていました。

野本:二頭立ては悪くなかったと言うことですね。

秋葉:サイエンスコミュニティー からみると宇航研は軍事とか、ステーションとかから分離されていると見られ、うらやましがられましたね。それが今では防衛までやろうとしている。

野本:その後宇航研に移られて、秋葉先生は何をなさろうとしたのでしょうか?

秋葉:1966年(昭和41年)から始まって1970年(昭和45年)までの間は大変苦しい状況の元で過ごしました。過去の記録を見てもその辺りのところの打上げ実験はほとんど無しで過ごしました。失敗の対策についての検討は十分時間がありました。大学にいたという点が大変助かっていまして、いわゆる研究・教育という活動がこの間の我々の支えになっていました。私はラムダロケットの4S計画に、全体計画という事で主としてダイナミックスという関係でしょうか、一応の寄与はしたと思いますが、機体そのものの話については、例えば構造などにはちゃんとした担当者がおられましたし、推進に関わる話は、例えば点火・不点火だというような事については、私の責任範囲ということでした。やはり推進班という班が出来ておりまして、倉谷教授がチーフになってやっておりました。というような状況でグループの研究活動という形でもやられております。私の立場は全体をまとめていかなくてはいけない立場でもあり、やり残した話を受け持つということでやりました。当時からロケットに火を付ける、というようなあたりのことは電気屋さんも触りたくないという所ですし、推進系からいきますと両方にまたがる境界分野だということであまり本気でやる人もいないので、そこがラムダの失敗の原因の一つにもなったというような事情もあります。その頃から本格的に点火系、特にロケットの点火はタイマーを使いますからタイマー点火系という所に自然に手を広げていきました。当時のタイマーがどんな物であったかというと、今のような純粋のエレクトロニクスとしてのタイマーがありませんでしたからモーターになりますが、結構良い小型のモーターが出来てきたという事もあって、比較的正確な回転数で回ってくれると、回転制御装置付きの物ですね。それを使ってラムダのロケットの点火系に使いました。それだけでは時間が決まるだけですから点火をするためにはリレーが必要な訳です。電源の回路を閉じなければいけない、もちろん電源の問題もあります。それから今度は小さな火薬に火を付ける、点火玉と呼んでいました。正式には電気導火線と呼んでいますね。それに火を付けるというところから始まりまして、その次にスクイブと呼ばれる粉の火薬が入った入れ物に火を付ける。それに火が付いた後にペレットに火を付けていくと。そうやって何段階に分かれた現象を含んでいる訳です。その辺りが瞬間現象だということで基本に立ち返って調べていかなくてはいけないなあ、という様な事から、まさにラムダの実験が始まった頃に点火玉の特性をしっかり調べよう、という事を研究室レベルでやりました。火薬屋さんはある意味ではそれまで分かっていたという事かもしれません。その当時やっと使えるようになった大電力のトランジスタなどを使いまして実験装置を組み立てるというところから入っておりました。点火系を確実にするという事は大きな宿題でありまして、今でもISASのロケットに使われているでしょうが、点火玉からスクイブに至るものを規格化しましょう、ということでセパレーションナットの規格化のような事をやりました。1972年(昭和47年)に報告書がありますから、規格化が完全に終わったのはラムダの成功と同時というところですね。セパレーションナットの規格化という事を始めまして、この辺で切断分離系という物の信頼性という観点から上杉邦憲君辺りと一緒にやりました。もちろんメーカーも入っていて1、2年かけましてじっくり取り組みました。これとは別に、燃焼関係の振動燃焼の論文も書いていました。教科書に載っていないようなことをやっていたので、ロケットエンジンの専門家として、ハイブリットエンジンも少しやりました。他の人がやっていないことをやりたかったので、ロケットの制御系をやりました。

野本:大学外ではどのような会社と協力をしていたのですか?

秋葉:富士精密と三菱プレシジョン、松下通信工業とかの繋がりがありましたね。

野本:そうするとロケット推薬としては固体燃料しか考えていなかったのですね。

秋葉:そうではないですよ。ハイブリッドとか液体とかいろいろ考えていました。液酸液水も長友先生がやっていました。ハイブリッドロケット研究はほとんど痕跡が残っていないといった状況ではあるのですが、博士論文を書いたのが一人いまして、大森君というのですが、今はアメリカのアナハイムにいます。これはもちろん、当時は高性能というような方向で使えないかと取り組んだのですが、ハイブリッドというのは固体ロケットと液体ロケットの間の子で、間の子だというくらいの感じで行きますと、両方の悪いところばかり出ましてどうも将来性は無さそうだな、ということで止めてしまった研究なのです。ただ燃料の種類は非常に選択の自由度が高く、酸化剤も選択の自由度が高いこと、分けてあるので安全性も高いことなど、後々考えてみると色々なメリットがあるのですが、その当時はそういった観点は気が付かないで終わってしまいました。しかし後々これはその後の研究のための基礎的な知識を作ってくれたと思います。

野本:事業団ができるのは1970年(昭和45年)に「おおすみ」が打ち上がる直前ですから、それ以前にどこかの研究所と協力するという話はなかったのですか。

秋葉:航空宇宙技術研究所で液体ロケットをやっていた人たちがいました。その人たちが学問的で趣味みたいなことをやっていました。角田支所はその頃からありましたね。そのころ彼らがしっかりしていたら液体ロケットの歴史が変わっていたでしょう。

野本: 宇航研は東大に属していたので、自由にやっていたのですね。

秋葉:宇航研は東大の系統だから文部省が相手にしてくれました。ロケットが大きくなっても支援してくれました。

野本:ミューロケットまでは固体燃料の自主路線ですよね。どのへんからうるさくなってきたのでしょうか?

秋葉:いろんな意味で警戒されるようになってきましたね。アメリカはかなり情報機関を使って調べに来ました。秋田の実験のときはアメリカのスパイというか軍事顧問団が見に来ていました。アメリカは国際関係のバランスから言って日本がこのようなロケット技術を持つことに、まあよしとしていたと思います。欧州ではそうはいかなく、どんどんその芽を摘み取られていたのですよ。この差はえらい違いですね。

野本:1969年(昭和44年)に事業団ができるわけですが、宇航研の人で事業団の創設に係わった人はいたのでしょうか?

秋葉:糸川先生がいた頃から事業団を作るという話はありました。高木昇さんが推進本部長になられて、そういう話が現実になっていきました。糸川先生はそれをいい方法と思っていなかったから、スキャンダルをもとに葬り去られました。

野本:宇航研で固体ロケットが大きくなっていったわけですが、誰が推進していったのですか?宇航研の中で大きくしようとしていたのですか?

秋葉:宇航研は足を引っ張るだけですよ。糸川先生が決めていました。

野本:糸川先生はカッパロケットくらいまででやめられたのでは?

秋葉:ミューロケットまでやりました。ミューロケットの直径を1.4mにしたのは糸川先生です。M-3Hが終わって、M-4S計画の最終目標であった全段に制御装置を付けるというM-3Sの時代に入りました。これでミュー計画が終わりになるという訳ですね。つまりミュー計画というのは、宇宙開発事業団が出来た時に、固体ロケットはこういう計画であると定義されてしまって、直径1.4mまでやってしまうと終わりだとなってしまいました。これは科学技術庁の行政官のレベルでは動かし難い物になった訳です。我々にしてみればそんな馬鹿なことは無いだろうと、まだまだ伸びる固体技術を途中で止めるわけにはいかない、という事がありまして、M-4Sが出来る前から固体ロケット技術はどこまで向上できるか検討して、仮想的な計画でアブソリュート計画というのを作りまして、企業の方を交えてどれだけ固体ロケットで性能向上ができるかというスタディをやりました。そんなことをやってまだまだ固体はおおいに使うべきだという事を主張しました。科学技術庁は、東京大学でやっている物はそこまでだという縛りをかけた事が一方ではあったのですが、アメリカからの技術導入でスタートした物はやはり色々な制約が多いということから、ゆくゆくは日本国有の計画を立てていかなければいけない、という考えは持っていましたから、どうしたらいいだろうかといった話はありました。それで第1回目の政策大綱というのが、宇宙開発事業団が出来た後に作られました。宇航研は固体だという枠をはめられたということもあるのですが、研究所だから研究は何でもやるのが当たり前で比較的自由にやっていました。その状況において、将来液体水素を使うエンジンが使われるはずだと長友さんが言い出しまして、私共もバックアップしまして液体水素液体酸素のエンジンの地上燃焼実験を少しずつ始めました。政策大綱は1978年(昭和53年)に出来ましたが、長期的に何をやるかという話で、アメリカの制約を受けないような推進系として、液体酸素液体水素はいい方向付けであるという見方をされてきました。宇航研でやってきたことが少しずつ目で見える形になってきまして、当時の宇宙開発委員会の委員長代理で山縣さんという方が宇航研まで実験を見に来ました。といった事があって、政策大綱を作った1978年(昭和53年)の時には既にH-Ⅱロケットまでの計画を書いてあります。それからH-Ⅱロケットができたのが1990年に入ってからだから、20年以上たってから出来た物ではありますが、当時の計画では10年後を目標にして書いてあったと思います。いずれにしても順調な観測等々主流のプロジェクトが進んでいる中で、やっぱり宇航研は研究所でして、全く別の部分についての芽を育ててきたという点はしっかり皆さんに認識して貰いたいです。宇航研、また後の宇宙科学研究所(宇宙研)というのは、お前のやるのはここまでだと抑えられながらも、それでも将来必要な技術というのをしっかり研究してきています。こういう研究所が無くなってしまったら日本の宇宙開発は絶対伸びていきません。宇宙研を残せ、と言うのではなく研究所というのはこういう物ですよ、と言っているのです。宇宙開発事業団は研究所ではないから研究をやらなくてもいいですね。それは事業をやるというのは大事だから、色々な計画を推進していくというのはまさにJRの運行をやるのと似たような話でして、確実にやっていってもらう、業務をこなす、そういう機関としては重要な役割を担っています。でも研究所ではありませんから、やはり研究所がなければ開発はできないということです。宇宙研がどういう形で残るか分かりませんが、やっぱり研究をする部分というのをしっかり宇宙開発の組織の中で残しておかないといけませんね。H-Ⅱロケットの元は事業団がやり始めた物ではなく、宇宙研がしっかり元から作ったものなのです。それで刺激されて、それをメーカーにやらせるようなことをやってきたということで、宇宙開発事業団が開発したH-Ⅱロケットと言っていますが、最初のH-Ⅰロケットは三者協力でやりましょうという話でスタートしているのですね。まあそれなりのところまで宇宙研がやったのです。ミュー計画が順調にいった時ではありましたが、日本の宇宙開発に対しても大事な仕事をしていた時期でした。M-3Sまでだというのは科学技術庁もそう思っていただろうし、それだけではなくてミューロケットをやっていた東京大学の宇宙航空研究所も、元が航空研究所の人が大部分でしたから、もういい加減にそんなことはやめろ、という話が全体の70-80%いたわけです。内憂外患といった状況で、そういう時期でM-3Sはファイナルフェーズだという感覚で捕らえていた人がほとんどだったわけです。だから大変やりにくくなっていました。それから宇宙理学の先生方から言わせれば、宇宙航空研究所の中でも部門が3つか4つしかなくて教授が4、5人しかいないのです。だから全体の数が何十人という数の中では、もう取るに足らない存在なのです。これからの宇宙科学をやっていく上ではそこがむしろ主役になるのだといった状況がありまして、これを文部省の学術審議会にかけまして、うまく中枢研究所を作れという答申を出させたのです。それは小田先生が中心に、実際の行政レベルでは野村先生が大変大きな働きをされました。それで中枢研の答申ができまして、多分野村先生がお一人で書かれたのではないかと思いますが、それができて東京大学から出て外へそういう物を作るという事は、それはそれで東京大学の中の者にとっては弱体化するといった反面もありましたので、止めろとか、足を引っ張られたりとか、かなり強烈で大変危なっかしい状態ではありました。ともかく新しい研究所を開設しましょうと文部省のバックアップもありまして、1981年(昭和56年)に大学共同利用機関として宇宙科学研究所(宇宙研)を作りましょうと言う状況になりました。M-3Sはそういう時代で推進してきた物なのです。

野本:その頃、秋葉先生は何をやろうとしていたのでしょうか?

秋葉:特に何をやると言うことではなく、ただおもしろいことをやりたいということで、宇宙科学を良くしていきたいという方向で活動していきました。

野本:それはうまくいったと思われますか?

秋葉:うまくいきましたね。宇宙科学研究所はハレー彗星探査で成功しました。あれで本格的な科学衛星ができました。20世紀は宇宙科学研究所の固体ロケットで成果を出しました。それだけの誇りを持っています。ロケットの能力は前に言ったアブソリュート計画で、固体ロケットもまだまだこのぐらいにはなるよ、というのがありましたので、新しいロケットを作れば出来るのではないかと文部省等にも働きかけていました。文部省は、過去の科学技術庁との約束みたいな話を蒸し返してくれまして、新しいロケットについても非常に抵抗が強かったのですが、直径1.4mの一段目は触りません、二段目は少し膨らませるといった話をやりました。ともかく1.4mの制約の元でここまで性能向上を果たすからやらせてくれというような形で一応決着が付いて、そういう見通しが付いたところで宇宙科学研究所も出来たのです。つまり宇宙科学研究所は衛星の時代から人工惑星の時代へいくというひとつのステップに対しての組織替えだったという見方も出来ないことはないですね。ということでM-3SⅡ型の開発は、宇宙研が出来たのと同時に取り掛かるといった状況になりました。ハレー彗星の探査というのはともかく1985年(昭和60年)に打ち上げないと何も出来ないわけですから、プロジェクトとしては大変厳しい条件の下で進めたわけです。それだけにみんな大変な決意を持ってやりまして、これほどまとまって計画が進められた事は無かったのではないかと思うぐらいしっかりやりました。それまでの衛星計画はどちらかというと好きな人が適当にやっていたというぐらいの話でまあ済んできたのですが、このM-3SⅡ型のハレー彗星探査というのは時間的制限が厳しく、従来やらなかった惑星という桁違いに長い距離を飛ぶ探査機です。通信技術なんかも全然違うわけです。そういう非常に新しい要素が多いこともあって、宇宙研が新しくなって外から研究者を入れるという事もしましたし、そういう人たちを組織化して歩調を合わせて進めていくといったシステム面でもしっかりとしたものでやっていかなくてはいけないという事でした。たまたまわたしがミューの計画を任される事になりまして、というのもミュー計画というのは森先生が主導してやってこられたのですが、森先生がここで所長になられまして、後は私がやれといった話がありまして、引き受けたのがちょうどこの時期にあたりました。私としてもこれは何かうまい方法でやらなければいけないなということで色々考えました。アメリカのプロジェクトを参考にしたりしたのですが、どうも日本の大学に受け入れられる話ではないです。結局全員が出席してできるような会議と言う建前でチーフ会議というものを毎週一回やりまして、それで全体の計画進捗が進められた気がします。その頃は週休二日制の導入が始まった頃でして、その頃の日本人は良く働いたわけで、日曜日以外は土曜日でも午後まで働いたわけです。ところがその頃から少しずつサボり始めて、隔週土曜日は休みにしようとなりました。こういうプロジェクトをやっていますと、普段中々顔を合わせられないわけですが、全員が集まりうるという事になると、新しく導入した休みの日に出てきてやりましょうという話になって、だから比較的良く出来たわけです。しかも休みの日だから熱意のある人じゃないと出て来ないのです。そんな意味でも週休二日制をうまく利用して進めました。これは今だったらだめでしょうが、導入されて間もない頃で、休みに何をやっていいか分からない事もあったので、いい時期にあたりましたね。ハレー彗星探査を目指してスタートしたというのが宇宙研の発足した時で、みんな張り切ってやっていました。

野本:ハレー彗星探査試験機「さきがけ」がM-3SⅡ型ロケットで打ち上げられたのは、1985年(昭和60年)で20年ちょっと前の話ですね。秋葉先生が所長になる前ですか?

秋葉:小田先生のころですね。「さきがけ」はあっけにとられるくらい120%の成功でした。林先生、松尾先生、雛田先生、小野田先生、上杉先生、的川先生、高野先生等、糸川先生以来の一族が結束しました。

野本:東大というのは大学ですが、大学がロケットを作ると言うことで、教育という面からどのような意味があったとお考えでしょうか?

秋葉:教育として役立っていましたね。ロケットの実験も学生もいたからできました。

野本:宇宙科学研究所が相模原に移ったのは1989年(平成元年)ですが、移ってからの方が実験はやりやすくなったのですか?

秋葉:相模原になってからの方が遠ざかってしまった感じがありましたね。科学衛星が大型になると、学生に実験をやらせるといっても、遠くに行ってやることになり、パソコンに向かう研究テーマが多くなりましたね。

野本:東大だったから大学教育もできたし、学生がいたからできたという面があったのですね。東大でなかったら日本のロケット技術はずいぶん違った道を歩んだということでしょうか?

秋葉:そうですね。卒業生も事業団に行った人が多いですね。ロケットがあったから教育も進みました。

野本:そうするとロケット開発と教育というのは両方あったからできたと受け止めていいのですか?そういう意味では他の国とは違った進み方をしたのですね。それから事業団との協力関係、敵対関係は如何だったのでしょうか?

秋葉:事業団にはお金が9:1くらいでかなわなかったですが、いろいろと手助けしてくれました。足を引っ張った感じではなかったですね。

野本:そうすると外野がうるさかっただけで、仲はそれほど悪くはなかったのですか。

秋葉:宇宙計画など一緒にやろうとすると、役所間が大変でした。

野本:文部省と科技庁が一緒になったというのはどうだったのでしょうか?

秋葉:宇宙は、科技庁に占領された感じですね。

野本:秋葉先生はロケット開発という歴史の中で、何が一番印象に残っているでしょうか?いくつかエポック的なことがあるかと思うのですが。

秋葉:だんだん悪くなってきたという印象です。世の中全体が悪くなってきたのだけどね。

野本:秋葉先生は国分寺から始まってずっとご存じだったのですよね。理工連携としてはうまくいっていたのでしょうか?

秋葉:理工連携としては、理学の人は金がかかると足を引っ張りました。

野本:そうすると宇宙研の中で、理学と工学はいろいろあったのですか。

秋葉:それは両方問題があったのですね。工学は理学のためにやるという考えだと、その枠を超えようとしなくなってしまいましたね。今日工学の衰退の原因ですね。今では工学がすっかり衰退していますね。

野本: 今でも北海道でロケットをなさっているのですか?

秋葉:ロケットをやっているというと少し言い過ぎだけど、一企業が犠牲的なお金を出してハイブリッドのロケットをやっています。個人的には私は東京で固体ロケットの次世代の技術という研究会をやっています。研究会と言っても具体的な成果がでているので、ロケットをやっていると言ってもよいでしょう。

野本:東京でボランティアをやっているのは、どのような方が参加しているのですか?

秋葉:ボランティアとしていろいろな方を巻き込んでいますが、軸になるのは、最後の院生であった、森田先生です。ボランティア集団10数人が集まって固体ロケット研究会を実施しています。一桁コストを下げなくてはいけないと考え、一番のキーテクノロジーとして、火薬という概念を変える、とろける推進薬を検討しています。チョコレートみたいなものでいろいろな形態に使えるものです。最初はロウソクのロウを使って始めました。最初は駄目でしたが、いまでは使えるものになってきました。

野本:今はどれくらいの能力のものですか?

秋葉:今の推進薬に比べて機械的性質は5割くらいでしょう。今の推進薬は内圧が100気圧位の厳しい条件で使っていますが、昔は50気圧程度で使っていました。それを考えれば5割位で使い物になります。モデルロケットの火薬を国産化しなさいと言っています。アメリカでは高度100kmまで、アマチュアに開放しています。日本でも、大学では教材として固体ロケットから始めようというところもあります。

野本:打上げ場所が問題ではないでしょうか?

秋葉:北海道では関係ないでしょう。

野本:とろける推進薬は、今のJAXAでは対応できないでしょうか?

秋葉:昔の宇宙研ならどんどんやっているが今は駄目ですね。研究所がなくなってしまいました。2~30人程度の小規模な研究所が必要ですね。今のISASは昔みたいに活気がなく、実験らしい実験がなくなっており、パソコンを使って文書業務ばかりしているようです。物作りをやる人がいなくなりました。

野本:森田先生は小型固体ロケットをやっているのではないでしょうか?

秋葉:それは昔の文化を若い人に分かってもらいたいのでやっているだけで、森田先生もソフトウェアベースで物作りをしていないようです。

野本:今のISASでは実際にロケットを作るべく手を動かしている人はいないのですか?

秋葉:学生にやらせている人はいるが、能力的にはインダストリーの方が上でしょう。

野本:インダストリーとはどこですか?

秋葉:IAの年配の人たちだけど、そろそろ定年で辞めていなくなっていますね。

野本:先行き暗いですね。

秋葉:早く全国的に小規模の研究所を作る必要があります。研究会をやると、任せても良いと思う人もいますよ。至急、小さい研究組織を作らないと痕跡もなくなってしまいそうです。

野本:痕跡もなくなってしまうと、将来ロケット開発は号令をかける人はいるけど、手を動かす人がいないと言うことになりますか?

秋葉:そう悲観する必要もないようです。北海道でハイブリッドのロケットをやろうとすると、いろいろな人がやりたいと手を挙げてきます。中央研究所的なものは不要で分散系でよいと思います。

野本:中央でまとめる組織が必要にならないでしょうか?

秋葉:情報は早く、交通の便がとても良くなって、地方でもできるようになってきました。研究所に人を集めても、隣で何をやっているか分からない状態では仕方ないでしょう。組織を作るときはね、少しでも関心のある人に集まって貰う訳です。それで色々な面で助けていただくという事はもちろん、できればある分野でしっかりしてもらいたいというところで始める訳ですね。でも実際動くのは本当に一握りになるのですよ。今でもこの研究所で大きな計画をやっているように見えるけど、やっている人の数というのは少ないですよ。ちょっとした事で協力してくれる人は多いけど自分の事だと思ってやっている人は、非常に少ないですよ。これは実際こういう組織であればそうだと思いますが、例えば宇宙開発事業団みたいな組織ですと辞令を一本書くわけですよ。お前はこういう仕事をやりなさいとね。ノミナルにやってくれる訳ですね。だから確かにそういう意味では沢山仕事をやった様に見えるんだけどね。本当に責任持って自分の頭で考えて、要するに自分が仕事を作り出していくという立場に立てる人がいないんですね。ところがこういう開発というのは大部分が自分で作り出していく仕事なのです。だからそういう人が集まらないと意味が無いのです。そういう人がいないのですよ。少ないからといっていい加減な計画だとは言えない訳で、少なくとも自分がやっていると言える、そういう事をやってる人たちが集まってやっていることに意味があるのでしてね。その周辺の人達がある程度バックアップして下さるという意味で集団の意味が出てくるしね。実際ちょっと手伝っていただくというだけでも非常に助けになるんです。例えばフィールドワークなんかやりますと、どれどれと見に来てくれる様な人が少しでもいろんな事をやってくれると、いるのといないのとでは全然違う訳なんです。ですから集団のありがたさというのはそういうところで出てくると思います。こういう仕事を牽引してやっていく人の数は非常に少ないですよ。ペンシルロケットについて言えば、研究所の中では糸川先生の一人舞台だったみたいなものですね。それから富士精密の技術者が一人、没頭してやってくれたという感じでしたね。推進薬関係の開発では、メーカー側では課長さんの下に心知りたる技術者が2、3人いたかな。それでも立派な物は出来ていく訳です。

野本:今のJAXA/ISASではロケットを作れないのですか。

秋葉:駄目ですね。作れない。トップの問題ですね。トップがどれだけ腕を振るえるかだけど、今は無理ですね。そのような部門が必要なら、新たに、分散系の研究所群で作るべきですね。

野本:これからのロケット開発は分散系でやって、あちこちで研究して切磋琢磨して一つにまとめることが望ましいということですか?

秋葉:まとめる必要はないですね。競争的な環境を作ってやれということをいいたいのです。ロケットを作るのはインダストリーができます。研究所群として企業と結びつくと言う関係は十分あると思います。一研究所が作るという時代ではないですね。

野本:これからの日本の宇宙開発はどうなっていったらいいと思いますか?

秋葉:政府が一番進化に対する時定数が大きいのですよ。動きが遅いのです。一番敏感に動くのは企業です。中間にあって非常に良く動くのは、NPO法人であり、NGOです。これからの宇宙はNPO、NGOを活用しようという方向にいくべきですね。政府は足を引っ張る方向に行ってしまうので、大いに活用しようという方向に行くべきですね。あらゆる面で活性化できます。これからの主役はボランティア集団でしょう。

野本:宇宙といえどもボランティア集団ですか。

秋葉:研究所だって、国が100%もってもうまくいかないですよ。ある範囲では自己努力でやれという範囲を残すとかね。今北海道では1企業がやっていますよ。教育が目的としてやっているといっていますが、落下塔も作ってやっています。一回行ってみた方がいいですね。

野本:今の宇宙開発の流れについてはどう考えていますか?

秋葉:まだ民間に元気があります。米国でも民間に頑張れというエールを、オバマさんが出しています。そういう時代に入っているという認識を、日本でも早く持って欲しいですね。JAXAがどういうという話より、民間活動という観点からもう一度再立ち上げしたらどうでしょうか?かつてみたいに英雄が一人二人言っても動かない時代になっています。

野本:軍事が入ってきたりしてきな臭くなっていますね。

秋葉:軍事は駄目ですね。

野本:有人はどうですか?

秋葉:有人は当たり前ですよ。飛行機で飛ぶことすら問題にした時代があったのですか?アメリカではspaceship1でやろうとしているわけですよ。私はISTSで基調講演をすることになっているので大いに言おうと考えていますが、月に行くにしても、軌道上でモジュールを組み付けてやろうとしています。これから宇宙でこういう考え方でいけば、打上げの大きさとミッションは分けられるわけですよ。大型ロケットばかりがリソースと考えて行き詰まっているのは間違っているのですよ。総トン数で考えれば、小型ロケットでも1トンくらい上がれば、数を増やせばいいわけですよ。一日100便1トンずつ運べば年間3万トン、そうすれば宇宙発電システムもできるわけですよ。そうすると仕事も増えるわけですよ。

野本:コストバランスがあると思うのですが。

秋葉:1/10のコストにできます。そうすると太陽光発電衛星もできますよ。太陽発電関係は今でも続けるべきだと思っているし、進めていきたいと思っているのですが、その機運がここ2、3年出てきたのはいいとして、改めてそのような環境を見直してみると、今言っている発電衛星、マイクロ波を宇宙から地上に送るというのは間違った入り口から入っている気がします。太陽のエネルギーは、「まず太陽光を反射させて地上に送るというのはどうですか? 」ということを最近言い出しています。そういうことを言った人が1977年(昭和52年)ごろにいます。分厚い論文を書いていたのですが、誰も身を入れて読んでなかったのです。私が紹介したのですがあまり大きな反響もなかった。最近半年ぐらい前に改めて、電波なんぞで送るから色々問題が起きるのであっで、「光で送ればいい」という話をし、それについて1979年(昭和54年)のその論文をみんなに読んでもらわないといけないと思い、翻訳しました。最近それがすっかり終わり、何百人という人に読んでもらいたいために、今そのやり方を考えています。スペースライトという夜間照明に反射光を使うというレベルから、もう少し発展させ、植物の成長とか太陽光線と同じくらいの光エネルギーを当てるということで地上発電するとか、そういうレベルの光の応用という観点で書かれている論文です。最終的に地上で発電するレベルの光を地上に送るということは、色々考え方があるかもしれませんが、電波で送ることは全面否定しないまでも、周波数の問題等がある。また、光といえども電波なわけで、赤外の辺りにいいところがあるのではという考えがあるかもしれない。また、軌道上の衛星でも、いろんな考え方があるが、光を反射する衛星ということを基本に考えていくと色んな可能性があるのではと思う。太陽発電は1960年位の初頭のグレーサーの考えが有名になってしまい、太陽エネルギーの利用となると発電衛星と飛躍してしまうのだけれども、1979年(昭和54年)の論文(今回の論文)というのは、もっとみんなに読んでもらうべきだと思い、その本(秋葉先生がかかれた)の中で、2、3ページ触れているところがあるが、その話を今後見直してもらいたいと思っています。

野本:もっと宇宙にお金を使ってもいいと言うことですね。

秋葉:使わなければいけないという時代ですね。かつて黒部ダムを造ったみたいに、アポロもずいぶん経済面でも貢献しているわけですよ。ニューディールと考えれば宇宙は出番になるわけですよ。

野本:出番はいいけどやる人がいるのでしょうか?

秋葉:やろうよという人がいて、日本全国で地方から手を挙げてもらえれば、やれるでしょう。

野本:JAXAでは駄目なのでしょうか?

秋葉:いい役人に出てもらって、いい政治家に出てもらわないと駄目ですね。

野本:そのほか何かありますか?

瀬下:打上げコストを1/10にするというお話しがあったのですが、お話しのあった流動的な推進薬からそのような話がでるのですか?それとも稲谷先生がやっているような再使用型ロケットを考えているのでしょうか?

秋葉:ロケットについて言うならば、航空と宇宙みたいな境を考えるなと言いたいのですよ。糸川先生はロケットを大陸間輸送に使うことを考えていました。今は航空と宇宙を繋げるという考え方が全くないですね。

瀬下:スペースプレーンということで、ラムジェット・スクラムジェットという考え方がありましたが。

秋葉:飛行機から考えるからあのような話になってしまうわけです。ロケットに翼をつければ、もっと遠くへ行けます。100キロ上がるロケットは翼をはやせば、1000キロくらいの範囲なら飛んでいける訳ですよ。民間はやり始めました。ロケットプレーン社は大樹町からハワイまで2時間でいくことを考え始めています。

野本:降りるところが問題ですよね。

秋葉:長いこと航空学で知識が悪い方向に影響を与えている一つの例ですね。鳥が降りるところに困っている?電信柱に止まるでしょう。ジェット機は降りるときに単にエンジン出力を絞っているだけ。機体の形、翼の大きさを変えれば、ふわっと着陸することも可能ですよ。そういう技術を発展させることを考える人がいないですよ。

野本:スペースシャトルは着陸のときにパラシュートを広げますよね。

秋葉:あれはもっと高空で翼を変えればいいんですよ。そういうことを航空学者が考えないと。

瀬下:発想が堅いということですね。

秋葉:鳥を手本に技術を考えていた時代がまっとうだと言うことですよね。もっと生き物を見るべきです。鳥の羽なんてどれくらいの重さでできているか、量ってみると驚異的ですね。

野本:教育が悪いですか?

秋葉:教育が悪い。教育するから悪いとも言える。先生を大事にするべきですね。

野本:今日はありがとうございました。

(了)

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研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付

(研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付)

-- 登録:平成23年02月 --