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エイズ発症の遅延に関わる遺伝子多型の発見[第174号]

‐第174号‐
平成10年5月20日

 HIV‐1ウイルスに感染してからエイズ発症までの期間は、個体によりバラつきがあることが知られている。京都大学遺伝子実験施設・田代啓助手、同大学医学部長・本庶佑教授らのグループは、その期間を制御する宿主(ヒト)側の遺伝的要因の1つとしてSDF1遺伝子が関与していることを、米国の臨床データを遺伝疫学的方法で解析することにより、明らかにした。

 これまでの研究では、SDF‐1(ストローマ細胞由来因子)は、本来はTリンパ球等を呼び寄せる役割をになう細胞間情報伝達物質・ケモカインの一種であり、HIV‐1ウイルスがT細胞への侵入の補助受容体としてTリンパ球膜上のSDF‐1受容体(CXCR4)を利用すること、SDF‐1タンパク質が試験管内の実験でHIV‐1ウイルス感染を阻止することなどが知られていた。しかし、ヒトでSDF‐1がエイズ発症時期を制御しているかどうかは不明であった。

 今回の共同研究により、エイズ発症を遅延させるSDF1遺伝子多型(ポリモルフィズム)が見いだされ、SDF‐1が試験管内の実験のみならずヒト集団で実際にエイズ発症を制御していることが強く示唆された。この成果によってエイズ発症機構の理解が深まると同時に、SDF‐1タンパク質やその類縁体を用いた新しいエイズ発症阻止法開発への展望がひらかれた。なお本成果の一部は、すでに本年1月発刊のSCIENCE誌の279巻において報告している。

 本研究は、平成9年度から科学技術振興調整費により実施している総合研究「免疫・造血システムの体細胞改変による制御技術の開発に関する研究(第2期)」(研究推進委員長:谷口 克・千葉大学医学部長)の一環として行われたものである。

1.研究の背景、経緯

 まず、本研究の理解に不可欠な「多型(ポリモルフィズム)」について解説する。自然の中では、同一種内で個体間の差異が存在する。その差異は遺伝的に決定されており、多型(ポリモルフィズム)とよばれる。多型は、目に見える表現型の差異である場合とDNAの塩基配列のみの差異である場合があるが、いずれにしても各個体の父由来、母由来の遺伝子ごとに、DNAの塩基配列に差異があることに起因する。多型がDNAの多型にとどまるか、表現型の多型として表れるかは、DNAの塩基配列のどこにどのような差異があるかによって決まる。遺伝子のDNAの塩基配列の多型がタンパク質の質や量の差異に及ぶとき、そのタンパク質が関与する病気の発症時期を左右することがある。

 例えば、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染した場合、エイズ(後天性免疫不全症候群・AIDS)発症までの期間には個体によってバラつきがあり、エイズを発症してから死亡するまでの期間も、個体により異なることが知られている。エイズ発症や、エイズによる死亡への進行が普通より遅く、中には15年かそれ以上エイズを発症しない人がいるという事実は、研究者の興味をひくこととなった。すなわちエイズ発症やエイズによる死亡を遅延させる因子が発見されれば、その遅延メカニズムを解析し、治療法として応用することができるからである。

 1996年より以前は、宿主(ヒト)側の遺伝的発症時期決定因子はほとんど未解明だった。1996年になって、米国立ガン研究所のオブライエン博士やウインクラー博士らのグループは、マクロファージ親和性HIV‐1ウイルスが感染するためにCD4とともに必要とする補助受容体(coreceptor)であるCCR5の遺伝子とCCR2Bの遺伝子にHIV‐1感染耐性型遺伝子多型(ポリモルフィズム)があることを相次いで発見した。同グループはこの知見を得るために、多数の医療機関の協力のもとに数千名に及ぶ同意を得た被験者を数年間から15年以上も経過観察し、血液と組織サンプルの提供を受け、候補遺伝子を遺伝疫学的方法で多型解析するという大規模な研究を根気よく実行した。抗エイズ的に働く宿主(ヒト)側遺伝的要因として、この2種の遺伝子以外にどの遺伝子があるのかを解明することがエイズの遺伝疫学的研究分野の重要な課題となっていた。

 そもそもSDF‐1(ストローマ細胞由来因子)は、京都大学のグループによってシグナルシークエンストラップ法という遺伝子クローニング方法により単離されたケモカイン(細胞遊走活性をもつ一群の細胞間情報伝達タンパク質の総称)である。大阪大学、ハーバード大学等の諸研究グループによって、SDF‐1は、Tリンパ球を呼びよせる遊走活性、造血幹細胞を呼びよせる遊走活性、プレBリンパ球の増殖を支持する活性、Tリンパ球が血管内皮を通過して免疫組織や炎症局所に移行するのを助ける活性などを担うことが明らかにされてきた。これらSDF‐1の本来の役割の多くはリンパ球制御であり、Tリンパ球表面のCXCR4と呼ばれるSDF‐1受容体にSDF‐1が結合することにより発揮される。T細胞親和性HIV‐1ウイルスが細胞に侵入する際にこのCXCR4がHIV‐1ウイルスに利用され、HIV‐1ウイルス感染補助受容体(coreceptor)として働くことが、米国とフランスの2つの研究グループによって1996年に試験管内の感染実験によって明らかにされていた(図1)。すなわち、Tリンパ球を制御する因子の受容体を、HIV‐1ウイルスが勝手に横取りする形で利用して細胞に侵入する感染機構である。同時に、SDF‐1タンパク質を加えることによって試験管内のT細胞親和性HIV‐1ウイルス感染が阻止されることも明らかにされた。試験管内でSDF‐1がHIV‐1ウイルスの感染阻止することは、その後、多くのグループにより追試が成功したが、ヒト体内でSDF‐1が同様のHIV‐1感染阻止能力を持つことを示す研究例は報告されていなかった。

2.研究成果

 今回の成果は、米国立ガン研究所のオブライエン博士やウインクラー博士らのグループを主体とする大規模な共同研究により、米国の臨床データを遺伝疫学的方法で解析することによって得られた。エイズはヒトにのみ感染するHIV‐1ウイルスのひきおこす感染症であるため、ヒトを用いた個体レベルの実験ができないところにエイズ発症機構研究のむずかしさがある。この困難を克服するための方法として、今回の研究では遺伝疫学的方法が用いられた。

 今回の研究が始められた時すでに、試験管内の実験でSDF‐1がT細胞親和性HIV‐1ウイルス感染を阻止することが知られていた。従って、このエイズ発症遅延因子の遺伝疫学的探索は、ヒトSDF1遺伝子座に遺伝子多型を探索することから始められた。京都大学の田代啓助手らのグループはこれまでに明らかにしていたヒトSDF1遺伝子の塩基配列に基づき、遺伝子多型の発見に努めた結果、SDF‐1のタンパク質翻訳開始のメチオニンをコードするATGから数えて801番目の塩基に遺伝子多型が存在することを発見した(図2)。そこで801番目がSDF1遺伝子転写産物の3'非翻訳領域であることから、Aの型を3'A、Gの型を3'+と名付けて、以前、オブライエン博士らがCCR5とCCR2BのHIV‐1感染耐性型遺伝子多型を研究した時に用いられた約2800例の米国の臨床サンプルを用いて、各症例のSDF1遺伝子座が3'+型か3'A型かどちらの遺伝子型であるかということと、感染からエイズ発症までの期間との相関を、統計的手法により調査した。またSDF‐1遺伝子型と、感染からエイズによる死亡までの期間との相関も統計的方法により調査した。その結果、両対立遺伝子(父由来母由来の両方の遺伝子)とも3'A型である場合(3'Aのホモ接合型;3'A/3'Aと表記)にエイズ発症遅延効果があるという統計的解析結果を得た。SDF13'A/3'A型遺伝子は、以前見出されていたCCR5遺伝子やCCR2B遺伝子のHIV‐1感染耐性型遺伝子多型に比べて3倍に及ぶエイズ発症遅延効果があることが、統計学的な集団の比較により示された。また今回使われた統計的集団において、HIV‐1ウイルス感染後7年以内に発症した症例では、SDF13'A/3'A型の例は2%以下であり、長期生存した症例の6%以上が3'A/3'A型であった。興味深いことに、3'A/3'A型の発症遅延との相関は、エイズの定義を厳しくした場合(より重症になってはじめてエイズと認定した場合)に高くなる。このことは、CXCR4(SDF‐1受容体)を利用して細胞に侵入するTリンパ球親和性HIV‐1ウイルスが、エイズ発症後に、はじめて増加して病原性を発揮することと一致しており、興味深い結果となった。以上のことから、SDF1遺伝子が、抗エイズ的に働く遺伝子多型のある宿主側(ヒト)遺伝子として3例目のものであることが示された。

3.今後の研究の展開と課題

 共同研究では米国の臨床データに基づいて解析を行い、日本人については調査をしていかったため、引き続き京都大学で日本の健常人を調べたところ、米国より高頻度にSDF1遺伝子のエイズ発症遅延型ホモ接合型が見いだされた。一方、CCR5遺伝子にもCCR2B遺伝子にも今のところ日本人集団ではHIV‐1感染耐性型遺伝子多型をもつ例が見つかっていない。したがって、現時点では日本人にとって抗エイズ的に働く遺伝子多型のある遺伝子座として明らかなものは、SDF1遺伝子である。今回の発見によって、SDF1遺伝子が3'A型か3'+型かを遺伝子診断することによって日本人のHIV‐1ウイルス感染者のエイズ発症時期のおおまかな予測ができる可能性がでてきた。今後の研究の進展によっては、SDF1遺伝子の遺伝子診断や、血中SDF‐1濃度にもとずいて、よりきめの細かいエイズ発症阻止のための治療法選択ができるようになる可能性がある。

 CCR5もCCR2Bも個々の細胞の細胞膜にうめこまれている受容体なので、HIV‐1感染耐性型タンパク質に置換するという抗エイズ戦略は実現が難しい。一方、SDF‐1は細胞から放出され体液中に拡散し全身をめぐる分泌タンパク質なので、SDF‐1タンパク質や類縁体を投与することで全身の細胞に作用させる抗エイズ戦略は、副作用や安全性の問題をクリアーできれば実現可能性があると考えられる。また、CCR5のHIV‐1感染耐性型遺伝子がHIV‐1ウイルスの初期感染を阻止するところから、その特性を活用するには、HIV‐1ウイルスに未感染の健常人集団を対象とすることになるのに対し、CXCR4(SDF‐1受容体)が感染に関与するT細胞親和性HIV‐1ウイルスの出現は、 HIV‐1ウイルス感染症の後期のできごとであるため、それを阻止するためのSDF‐1を用いる治療の対象は、HIV‐1ウイルス感染者(キャリア)に限ることができる。

 この度の研究で、SDF1(3'A/3'A)型遺伝子多型のエイズ発症遅延効果が、統計的手法によって示されたが、その背後にある生化学的、分子生物学的メカニズムは今のところ明らかではない。今回用いた約2800例というサンプル数は統計的信頼をもたらすのに充分大きく、またサンプリングのやり方も信頼性の高いものであるものの、今後はそのメカニズムの解明が待たれる。京都大学の田代助手らは、分子生物学的メカニズム解明のため、SDF‐1のタンパク質の量の差を実験的に示すことを試みると同時に、SDF1遺伝子の近傍に存在する別の遺伝子の寄与の可能性をも考慮して探索を進めている。仮にSDF‐1タンパク質の量の差がエイズ発症遅延をもたらすのならば、HIV‐1感染者に対してSDF‐1タンパク質及びその類縁体を投与することによりエイズ発症遅延をもたらすことが期待できる。今回の発見はSDF‐1を用いたエイズ発症遅延をめざす治療法の開発を勇気づけるものであり、今後の研究の進展が期待される。

 研究担当者:田代 啓
 京都大学遺伝子実験施設 (助手)
 電話:075ー751ー4192
 fax:075ー751ー4190

 問い合わせ先:門脇 光一
 研究開発局 ライフサイエンス課
 電話:03ー3581ー5271(442)
 fax:03ー3506ー1960

 本研究は、平成9年度から科学技術振興調整費により実施している総合研究「免疫・造血システムの体細胞改変による制御技術の開発に関する研究(第2期)」(研究推進委員長:谷口 克・千葉大学医学部長)の一環としておこなわれたものである。

-- 登録:平成21年以前 --